高松・野田池の怪談とペガサス降臨の謎/松原タニシ・田中俊行・恐怖新聞健太郎の怪談行脚
異色ユニットが、行く先々での怪奇体験を公開する。 今回は、四国の怪談を守る男・恐怖新聞健太郎が高松の心霊譚をお届け。ペガサスも舞い降りる?
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全国に、そして大日本帝国の拡大とシンクロするように「外」にも広がっていく帝国の「聖地拡大」の流れ。壮大な構想が生まれては消えていった「幻」聖地乱立時代の空気とはどんなものだったのか。
目次
全国各地でおこった「我が県我が町に神宮を」の動きをローカルでドメスティックな、いわば内向きの聖地拡大とすれば、明治から昭和戦前期には大日本帝国の領土拡大と同期するように、外側に「聖地」を拡張する運動も展開されていた。
1909年、当時日本の保護国化されていた韓国で立ち上がった「日韓神宮」創建の運動もその一例だ。
神宮奉敬会がまとめた「神宮建築誌」によれば、この「日韓神宮」では三柱の神の奉祀が構想されていた。三棟並ぶ殿舎の中央に祀られるのは天照皇大神で、その左右には「檀君天皇」と「太祖高皇帝」が鎮座する。つまり、日本の皇祖・天照大神と、朝鮮の始祖神・檀君、そして李氏朝鮮の太祖・李成桂をあわせ祀る神社を創るという、前例のないプランが考えられていたのだ。
建設地は京城の安厳洞、現在のソウル市アムナドンを予定するなどかなり具体的に立案されていたのだが、翌1910年に実行された韓国併合のなかで「日韓神宮」運動も消滅する。
それから10年ほど後、京城に朝鮮神宮(朝鮮神社)が創建された時にその祭神について論争が起こるのだが、最終的に天照大神と明治天皇の二柱と決められ、ここに檀君が祀られることはなかった。


日本本土から最も遠くまで拡張した「幻の神社」には、南極に誕生した「したわし山皇大神宮」がある。
明治44年、白瀬矗(しらせのぶ)率いる探検隊が南極に到着した後、別働隊が雪原にある山を「したわし山」と名づけて日本から持参した伊勢神宮のお札を埋納。これを「したわし山皇大神宮」と命名して神社創立を宣言したのだ。
いずれ日本がその一帯を領有した暁には、木材を運び本格的な社殿を建てるのだという構想も語られたが、ついにその時は訪れず。別働隊の一員・島義武はその位置を「南緯76度58分、西経155度55分」と詳細に記録しているのだが、いまマップでその経緯度を確認してみると、そこは流氷になって海に流れ出しているのがわかる。
残念ながら、別働隊が陸地だと思った場所は海にせりだした分厚い氷棚の上だったのだ。もしも当初の構想通りそこが日本領となり社殿が建てられることがあったとしても、「したわし山皇大神宮」は流氷とともに南極海に流れ出すことになっていただろう。そして幻と消えた神宮の御神体たる伊勢神宮のお札は今、冷たい海の中を漂っているのかもしれない。


台湾が日本領になった明治28年の4年後、明治32年には早くも台北に台湾神社(のちの台湾神宮)が創建された。明治38年に領有された南樺太には、明治43年に樺太神社が創建。朝鮮半島には、官幣大社である朝鮮神社が併合の9年後、大正8年に創立されている。
このように、大日本帝国の拡大にあわせ新領土には次々に新たな「聖地」がつくられていた。さらに時代が進むと、日本の租借地となった関東州(遼東半島)や、日本人移入が進む中国大陸、満州でも大小さまざまな神社がつくられていく。
これら外向きの聖地拡大のいっぽうで、内向きの拡大も粛々と進行していた。なかでも、戦前に生まれた「新たな聖地」という意味で最大のものは、なんといっても明治神宮をおいて他にない。
近代化と目覚ましい発展、日清日露両戦争の大勝利と版図拡大という時代は輝かしい「明治聖代」と讃えられたが、そのすべての中心にいたシンボルこそがまさに明治天皇だったのだ。
明治天皇が崩御すると、全国各地から「我が県我が町に先帝奉祀の神社を」との請願が寄せられる。たとえば武蔵御嶽山(東京府)、飯能町朝日山(埼玉県)、市川国府台(千葉県)、離宮のあった箱根(神奈川県)など。さらに筑波山や富士山に神宮をという壮大な願いも寄せられるのだが、富士山に至っては別個に20件以上の請願があったほどで、多数決ならば圧倒的優勝をかっさらっていたはずだ。
そしてもしもこの富士山神宮案が採用されていたなら、明治神宮のあり方は今とはだいぶ違っていただろう。
東京府内だけをみても候補地が乱立する大競争のなか、最終的に神宮は青山練兵場跡地に鎮座されることが決定。いくつもの案が「幻」と消えていったのだが、「明治神宮」という名称でさえすんなり決まったわけではなかった。
過去の例にてらせば神宮名は「地名+神宮」とされるのがもっぱらで、そのルールにのっとるならば新たな神宮は「東京神宮」「千代田神宮」あるいは「武蔵野神宮」「代々木神宮」とするべきではないかとの議論があったのだ。結局、明治天皇の偉業を表すのに特定の地名を冠するのはむしろ不適当との結論に至り、他をもって変え難い名前として「明治神宮」が選ばれたのである。
明治神宮を知っている我々からすれば明治神宮には明治神宮以外の名前はイメージしがたい。それほどフィットした名称とだということにも思えるが、ここで少々想像力を稼動させ、東京神宮、代々木神宮だった世界をイメージしてみたい。明治神宮からはオンリーワンのオーラが薄れ、各地に創建された数ある「地名を冠した神宮」のひとつ、ワンオブゼムの神宮という印象が強くなる。あらためて、明治神宮を明治神宮と命名した当時の担当者は慧眼だった、あるいはやっぱり明治神宮にはそれ以外にふさわしい名前はなかったのだなと思えてくる。


しかし、明治神宮が創建されたあとも「我が町に神宮を」熱が冷め切ったわけではなかった。昭和2年、衆議院から内閣に「広島市に明治聖帝記念館設立並明治神宮分社造営に関する建議」という興味深い建議が回付されている。
日清戦争期、広島市には大本営と帝国議会臨時議事堂が置かれ、明治天皇も将兵たちに合わせて7か月にわたり広島行在所で執務をおこなっていた。つまり広島市はこの間、国家中枢が移転した「臨時首都」になっていたのだ。市ではこれを記念し、明治43年に行在所(御便殿:ごべんでん)を比治山公園に移築し、御便殿広場を竣工している。
これほど明治天皇に縁深い広島なので、その大本営跡に「明治聖帝記念館」を建て、比治山には明治神宮の分社を造営することができないか、というのが建議の内容だ。
しかし政府では、明治天皇を記念すべき地は広島だけに限定できない、分霊を許可すると崇敬の中心を失わせかねない、また天皇奉斎の官国幣社は一祭神につき一社に限る原則がある等の理由でこれを不許可とした。実は大正10年にも「全国のすべての府県に明治神宮の分社をつくりたい」という請願が出されているのだが、これも同様の理由で却下されている。
聖地の拡大は重要、しかし単に拡散すればいいわけではない。そんな当時の方針がうかがい知れる、興味深い話でもある。「府県神宮」が計画された頃とは、時代も神社の性格も大きく変わっていたのだ。


大正から昭和にかけて進んだ「明治天皇聖地」拡大のムーブメント。神宮外苑には明治の御代を讃える歴史絵画館「聖徳記念絵画館」がつくられ、多摩には「多摩聖蹟記念館」が、茨城県大洗には「常陽明治記念館」と、全国に公立私立さまざまな明治天皇顕彰施設がうまれていく。
11月3日が明治節に制定された翌年、昭和3年には関西で「明治節記念橖(めいじせつきねんとう)」建設という壮大な明治天皇聖地プロジェクトが動いていた。京都の鬼門鎮護たる比叡山の山頂に、40メートル近い巨大な記念塔を建設しようとの計画だ。
奉建会会長には明治神宮宮司の一戸兵衛陸軍大将が就任。資金集めも行われ山頂に建設予定地の標柱を建てるところまで運動は進捗していた。
ところがここにきて、山中の野鳥保護の観点から日本鳥学会の猛反対にあうなど事業は難航。その他の金銭に絡むトラブルなどもあって記念塔はついに儚くも「幻」になってしまった。あの伊東忠太が手がけた塔のデザインはさすがのインパクトなのだが、これを電飾で光らせる話もあったというから、最初からプランは少々やりすぎ、幻に終わる運命だったのかもしれない。


また、これに先立つ大正5年には、明治節記念橖も霞むような特大スケールの記念碑建立計画が、伊勢で進められていた。
その名も「明治聖代戦役紀念碑」。日清・日露戦争の一大記念碑を「皇大神宮御鎮座在マス伊勢神都ノ霊地」に建立しようというもので、この実現により明治天皇と両戦役の武勲を永遠に表彰し、国民に「忠君愛国ノ思念」を発揮させるという。その建設会には、なんと大隈重信や三重県知事経験者までが名を連ねていた。
明治聖代戦役紀念碑はその見事な設計図(予定図)が残っているのだが、図面から逆算した実寸はじつに約50メートル。塔の頂点には、四方に光を放つ天照大神の像を据え、下には日清日露戦争の記念品を陳列し、周囲には功臣たちの銅像をずらりならべる。もう「碑」のレベルではない。

建設地には伊勢市内の虎尾山が選ばれ計画が進行していったが、さすがに天を衝く巨大モニュメントは無謀だったのか、最終的にその規模はだいぶスケールダウンし、昭和3年、頂に金鵄をあしらった全高10メートルほどの石碑が造られることとなった。山頂は展望台なども整備した「虎尾山遊園地」として開放され地元の新名所となるのだが……あの壮大な設計図が予定通りに実現していたら、と思わずにはいられない。

実は「幻の明治天皇聖地」は、すでに明治天皇在位中にも生まれていた。そのひとつが明治25年の「帝国議会記念碑閣」計画。憲法発布と帝国議会の成立を記念して日比谷に記念公園を設け、その中央に三層の大記念碑を建てる。記念碑の一層目には碑文を、二層目には名士の肖像を陳列し、最上階の三層目には憲法を手にした明治天皇の像を奉安するというこれまた壮大で大規模なプランだ。
記念碑のひとつ上をいく「記念碑閣」という名前にも気合が伝わるその全高は約5メートルあり、四周には電灯を灯して国威を表現するというのだからさらにすごい。しかし、事務所まで設置して活動していたこの計画は、発起人の間での方向性の違いなどのため空中分解、わずかに構想を引き継ぐ石碑を完成させるのみで幕引きとなってしまった。
あくまで「楽しい想像」レベルならば、明治28年に雑誌『風俗画報』の表紙を飾った「征清紀念碑」もおもしろい。日清戦争勝利を記念してこんなものを建ててはどうかという案で、戦没将校の名前を記したビル並みの巨大な台座の上に、これも巨大な明治天皇騎馬像を安置する。実現すれば帝国の栄光を表すとともに日本美術界の技術力を世界に誇示できるのだ、とか。


やや毛色は違うが、明治24年には上野公園に「三条実美公銅像紀念碑」をつくる運動もあった。事前に三条家の許諾も得て進めた堅実な計画だったようだが、やはり実現の日をみることはなかった。
じつは上野公園に西郷隆盛像建立計画が立ち上がったのも明治23年とほぼ同時期のこと。もし三条実美銅像計画が実現していれば、西郷さんと三条さんの銅像が並び建つ、そんな上野公園が誕生していたことになる。しかし、太政大臣まで務めた三条実美は初期明治政権の最重要人物であることに間違いはないが、西郷さんに比べるとどうしてもカリスマ性では一段下に感じられてしまう。ふたりの銅像がたつ上野公園がどうも想像しにくいのは、あまりにも上野=西郷さんという現実に拘束されすぎている認識のせいなのか、あるいは西郷さんがあまりにも大きすぎるからなのか。
ともかく、幻と化したこれらの計画にはどれも、壮大と無謀が入り混じった独特な空気が感じられる。それこそが「伸びゆく明治」という、近代日本が経験した最も誇らしい時代の空気だったのだろう。
ところで、明治神宮があるのになぜ大正神宮、昭和神宮はないのか……というささやきを聞いたことがある人はいるだろうか。それは天皇崇敬の立場から、あるいは逆に反天皇的立場からの一種の揶揄として語られることもあるのだが、実は昭和2年には実際に「大正神宮」創建を願う運動が起きたことがあった。
それは生前の大正天皇が愛用し、崩御の場所にもなった葉山御用邸のある葉山町の住民が中心になった運動だったのだが、管見の限り全国的な展開はなく終息しているようだ。やはり大日本帝国にとって、明治天皇は他の天皇とも比較できない飛び抜けて特別な存在だったということなのだろう。
(つづく)

鹿角崇彦
古文献リサーチ系ライター。天皇陵からローカルな皇族伝説、天皇が登場するマンガ作品まで天皇にまつわることを全方位的に探求する「ミサンザイ」代表。
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