常陸・御岩神社 宇宙からも見えた「光の柱」伝説で知られる霊山を行く/本田不二雄

写真・文=本田不二雄

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    茨城県の北部に、宇宙から「光の柱」が見えたというパワースポットがあるという。そこは「総祭神188柱」を数え、「神仏を祀る唯一の社」にして、縄文の古にさかのぼる神祀りの跡を伝える日本最古の聖地だった――。

    長いトンネルの先に188の神霊

     太平洋の陽光がまぶしいJR日立駅から、海を背にし、山やま間あいを縫うようにクルマで登っていく。やがて見えてくるのは、日本の近代産業の礎となった日立鉱山(現JX金属グループ)の大煙突だ。ほどなく道は下り勾配となり、左手に鉱山の歴史を展示する日鉱記念館が見えてくると、車は長いトンネルに入った。
     思えばこの隧道は、時間軸をぎゅっと巻き戻すタイムトンネルだったのかもしれない――。

    御岩神社本殿。国常立尊ほか25柱を祀る。かつての名称は御岩山大権現大日堂。

     複数の人から、御岩神社に行きましたか? 御岩神社って知ってますか? と聞かれることがつづいた。どうやら近年、ここは「日本最強クラスのパワースポット」とも呼ばれて大変な人気らしい。
     ところが、知れば知るほどこの神域は、そんな流行神のような理解ですまされないことをやがて思い知ることになったのである。

     ともあれ、まずはまっさらな心持ちで詣でよう。
     往時の風情をとどめた門前の趣ある建物を見ながら境内に入れば、空気は神域のそれに一変。参道に入ってすぐ左側にあらわれる摂社・愛宕神社は、こんもりとした地形を生かしたミニ霊場となっており、早くも寄り道したい衝動にかられる(実は、そんな気になる神拝スポットは山内そこらじゅうに点在していた)。
     やがて右側にあらわれる神木に足が止まる。三本杉の名のとおり、巨木の幹が途中で3本に分岐している。幹まわり8.4メートル、樹高39メートルで、推定樹齢は500年超。巨きさ立ち姿ともに見事で、境内の景観に風格を添えている。

    御岩神社の楼門前に聳える「三本杉」。かつて三叉のところに天狗が棲んでいたといい、別名「天狗杉」とも呼ばれる。
    宝物殿に安置の胎蔵界大日如来坐像。御簾がかけられ、松の飾りや餅のお供えなど、仏式にはない祀り方である。
    拝殿脇にある姥神社に祀られた姥神像。かつて山頂の神域の入口に祀られ、結界石の役目を担っていた。

    神社の社殿内に祀られた阿弥陀如来

     そして楼門。大仁王門とも呼ばれ、その名の通り左右に仁王立ちのお像が配されている。何気なく通過する方もおられるかもしれないが、ここは神社である。
     そして参道の傍らには「常念仏堂跡」「百観音堂跡」の文字。ひとつ目のお社である斎(さい)神社の手前には不動明王の石仏が置かれた禊の場があり、さらに驚くべきは、その拝殿内に阿弥陀如来の美像が奉安されていた。

     神社の社殿内でこのように仏像が祀られている例を筆者はほかに知らない。
     聞けば、御岩神社は春と秋の回向祭(えこうさい)で知られているという。回向とは仏教用語で、一般には仏教の法要を営んで死者の冥福を祈ることをいうが、当社の祭りは、仏教(真言密教)と結びついた神道説である両部神道の祭式で執り行われるという。

     斎神社は祖霊を祀るお社とされる。祭神は別格の天つ神(あまつかみ)とされる天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)ほか4柱。そこに来世の往生極楽の本尊・阿弥陀如来が配祀される——御岩神社とは、そんな「神仏を祀る唯一の社」(当社ホームページ)であった。阿弥陀像だけではない。拝殿脇の宝物殿を開けていただくと、中から美しい厨子に納められた大日如来像(鎌倉時代末の造立とされる)があらわれた。
     神社によれば、「現世はもとより死後の世界においても篤くお守りくださる」のが当社のご神徳であり、大日如来は「当山の守り仏」なのだという

    斎神社。立札には斎神社回向殿の文字。その周囲を囲むように四国八十八箇所の石仏がならび、神仏習合の気配が濃厚である。
    斎神社の拝殿内に奉安されている阿弥陀如来坐像。室町時代の作とされる美品で、珍しい中品中生(ちゅうぼんちゅうしょう)の印相。
    斎神社拝殿天井の雲龍図(作・岡村美紀氏)。左に御岩山が描かれており、この山に鎮まる天つ神(あまつかみ)のはたらきが象徴的に描かれている。

    カビレの高峰に天つ神まします

     あらためて、御岩神社のことが知りたいと強く思う。
     ホームページ(https://www.oiwajinja.jp/)によれば、「縁起書等によると、天あめつち地開くる時よりこの霊山に鎮まる」のだという。また、奈良時代初期の713年に編纂された『常陸國風土記(ひたちのくにふどき)』には、「賀毘禮之高峰(カビレの高峰/御岩山の古称)」に「天つ神有ます」と記されている。

     風土記の興味深い記事を以下口語訳で引用してみたい。
    「東の大きい山を賀毘禮の高峰という。ここには天神がおられ、名を立速日男命(たちはやひおのみこと)、またの名は速経和気命(はやふわけのみこと)である。もと天より降られて、すぐに松沢の木の八俣の上にお鎮まりになった。
     この神の祟りは非常に厳しく、人が向かって大小便でもしようものなら、たちまち災いを下し、病にならせたという。このため近くの住人は常に苦しみ困り果て、その状況を朝廷に申し出たところ、片かた岡おかの大連(おおむらじ)を遣わされ、大連は謹んでこう祈り奉った。
    『今おられるところは、民が近くに住んでおり、いつも不浄です。神様に相応しい場所ところではありません。どうかここを去って、高い山の清浄な場所にお鎮まりください』
     神はこの願いを聞き入れられ、ついに賀毘禮の峰にお登りになった。
     その社は、石で垣をつくり、中には種属(やから)がとても多い。また、いろいろな宝、弓・桙・釜・器の類がみな石となって遺っている。飛ぶ鳥も尽ことごとくこの上を通過することを避け、峰の上に留まることはない。昔からそうである」

    山頂に縄文時代晩期の祭祀遺跡

     まず気になるのが、「カビレの高峰」の意味だ。歴史学者によれば、「カビレは神降る、カブルがカヒレに転言化したもの」(志田諄一氏)という。

     では、「天つ神」で「立速日男命またの名は速経和気命」とはどんな神か。
    「ハヤヒ」のヒ=霊として、霊力発揮の素早さを意味するとも、荒ぶる日神(太陽神)とも、また「ハヤフ」のフは刀剣を意味するフツに通じ、剣の神格化とする説もあるようだ。一方、天より降って松の木に宿ったことから、「天神」を落雷をもたらす神と解釈する説もある。
     ともあれ、電光石火のごときその祟りは、神威の強大さを裏づけるものである。人々は強すぎる神の霊異を畏れ敬い、本来のあるべき場所に鎮まるようねんごろにお祀りしたのである。

     では、「石で垣を」や「種属」という表現、さまざまな「宝」が「石となって遺る」とは何を意味しているのだろうか。
     そのヒントは、大塚宮司がいう「山頂部全体が磐座」という言葉にあるかもしれない。磐座とは、神の依り代であり御神体として崇められる岩そのものをいう。
     大正時代、人類学・考古学の先駆者である鳥居龍蔵が風土記の記事に触発されて御岩山の踏査に乗りだし、山頂近くで石鏃(せきぞく)や石斧(せきふ)を、山麓で石板を発見した。それらは縄文晩期の祭祀遺跡、つまり神祀りの形跡を伝えるものとされる。
     だとすれば、御岩山は玉垣をめぐらせた神域のごとき景観(「石で垣を」)をなしており、先史の時代、すでに岩に宿る神を石を用いた祭器(「宝」)で祭りを行った人々(「種属」)がいた、風土記はそう語っているのではないだろうか。

    神気漂う賀毘禮神宮。お山を遙拝する御岩山中腹に鎮座し、磐座を抱くそのさまは、御岩神社を代表する景観である。
    賀毘禮神宮の御垣内に鎮座する磐座。苔で覆われていない部分は、大理石のような白褐色を呈していた。

    188柱を引き寄せた賀毘禮の峰の引力

     古代から神祀りの場であった賀毘禮の峰には、中世(平安末期から室町時代)には山岳信仰の霊場として山伏らの修行の場となり、さらに江戸時代になると、水戸徳川家が東日本随一の修験道の聖地・出羽三山の信仰をこの山に持ち込んだといわれる。
     その結果、山の信仰と一体化した仏を祀るお堂が整備され、山中のありとあらゆる場所が神仏を祀る場にあてられた。こうして、今日につづく「総祭神188柱」を数える希有の霊場が形づくられていったのである。
     本殿脇に掲げられた「御岩山諸神明細」には、その神々が列挙されている。
     なかには全国各地の名社からローカルな神々、仏教由来の守護神や天狗神、義公や烈公といった水戸徳川家の殿様の御霊のほか、天狗の岩窟、天狗の飛石、鏡石、梵天石の神、天ノ磐座など、修行の岩場そのものと思しき名称も散見される。
     それを可視化したのが「御岩山霊場図」である。何という密集具合――。山内は神々がこぞって集うワンダーランドであった。おそらく、多くは山に参入した修験者らが勧かん請じょうし、あるいは感得した神々なのだろう。これもひとえに、賀毘禮の高峰にまします神の〝引力〟の賜物だったにちがいない。

    お山にひしめく神々を図示した「御岩山霊場図」(部分)。切り立った岩場には鎖が掛けられ、ここが修行の場だったことをあらわしている。

     さて、本殿の参拝をすませたら、いよいよお山の登拝行である。
     ちなみに、登拝と登山は別物である。登山家のようにひたすら頂を目指すのではなく、森厳なる空気に身を浸し、神祭りの「場」の神気にふれ、ときに手を合わせながら歩を進めるのがその流儀である。

     まずは中腹に鎮座する賀毘禮神宮。御岩山の主祭神である立速日男命および天照大神・邇邇藝命(ににぎのみこと)を祀るお社を目指そう。
     その石段が見え、お社がその姿をあらわした。その前面、玉垣の内に、印象的な磐座(御神石)がドンとご鎮座している。その巨岩の注連縄の上に繁茂しているのは、この地域の希少植物を代表するイワウチワである。
     太陽が中点にささかかり、陽光があたりを照らし出した。神々しいばかりに輝く神域の景観がそこにあった。

    神秘的な気が漂うカビレ(賀毘禮)神宮。御岩山の主祭神・立速日男命および天照大神・邇邇藝命を祀る。

    「天地開くる時」に発祥した聖地

     実は、御岩山に祀られた188柱は、社や祠はもとより、それとわかる標識がないものも多い。明治初年の神仏分離、修験道禁止令以降に取り除かれたものもあったと思われるが、ときにひっそりと供えられた小さな御幣や木札、石造物が「場」の意味を教え、道そのものが何ごとかを語りかけてくる――。「賀毘禮の高峰」とはそんな山だった。

     そして、各所で神々の気配を濃厚に感じさせてくれる。何ものかが「見える」人であればなおさらだろう。そうでなくても、ふだんの日常をオフにして、先史の昔から神々とともにある山に身を浸すのはかけがえのない体験になる。ただし、くれぐれも敬意を忘れず、山歩きに適した装備で。

    賀毘禮神宮脇の木の根元に立つ「三王大神水速女命(さんのうおおかみみずはのめのみこと)」の石碑。水速女は水の神。祠はなくともここが神拝の場であることを示している。
    賀毘禮神宮から山頂へとつづく登拝の道。信仰の歴史を物語るたたずまいである。

     印象的だったことがもうひとつある。
     岩そのものである。
     山中は奇岩、巨岩のみならず、鮮やかな色合いを露出する岩層があり、先の賀毘禮神宮の磐座や佐竹氏墓所と呼ばれる場所の供養塔などは、大理石そのものの風合いと紋様を表出させていた。
     不勉強ながら、この山の地質に関する情報を調べてみたら驚いた。地質学者の田切美智雄氏によれば、御岩山を含む北茨城の多賀山地は約5億年前のカンブリア紀(古生代)の地層から成り立っているという。
     それはどういうことか。
     かつて存在したゴンドワナ超大陸の東の端にあった岩の連なりが、長い時間をかけてたどり着いたのがこの地だったのである。そんな地層は日本では茨城のここでしか確認されていない。つまり日本最古の地層である。

    参照:web「未知の細道」61号 https://www.driveplaza.com/trip/michinohosomichi/ver61/

    御岩山(賀毘禮の高峰)山頂。鏡岩と呼ばれる巨岩があり、手前の広場はかつての神祀りの場だったと思われる(標高530メートル)。
    山頂付近のくぼみにひっそりと鎮座する賀毘禮神宮の奥宮。古代信仰の証を思わせる石柱の脇に登拝満行の行者札と御幣が立てられている。

     御岩神社の縁起の言葉を思い出す。ここはまさに、日本の「天地開くる時」にあらわれた場所だったのである。
     ちなみに、大理石(結晶質石灰岩)はもとより、田切氏によれば、御岩山の地層は白雲母片岩を多く含んでいるという。この岩層は、日光に反射させると白く輝いて見え、宇宙から写真を撮るとその土地が光って写るともいう。
     確かに、御岩山では江戸時代に「怪光」が立ち上ったという伝説があり、最近では都市伝説のような「光の柱」の噂が語られている。それも故なしとはいえまい。まさに、最強のパワースポットたるゆえんである。

    山頂付近の奇岩。岩屋状になっており、かつての修行場だったことを偲ばせる。鮮やかな赤い岩層が見られる。

    本田不二雄

    ノンフィクションライター、神仏探偵あるいは神木探偵の異名でも知られる。神社や仏像など、日本の神仏世界の魅力を伝える書籍・雑誌の編集制作に携わる。

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