徳川家康「しかみ像」は弥勒菩薩の姿だった! 半跏思惟像との一致を考察/東山登天

文=東山登天

    大河ドラマ『どうする家康』で話題沸騰中の徳川家康だが、その性格は、忍耐強く慎重な用心家という評価が定番である。だが彼は一面では「タヌキ親父」とも揶揄され、時に策謀をめぐらして敵対者をことごとく排除してゆく、冷酷な人格も持ち合わせていたらしい。正史からは消された逸話・エピソードに注目しつつ、戦国覇者のタブーに光をあて、江戸幕府260年の秘密をあばく!

    ※ 第1回 徳川家のルーツを覆う深い霧
    ※ 第2回 衝撃の「家康すり替え説」
    ※ 第3回 正妻築山殿と長男信康の悲劇
    ※ 第4回 念仏者家康を支えた秘仏黒本尊
    ※ 第5回 家康の本当の墓はどこか

    尾張徳川家に伝来した「しかみ像」

     名古屋の徳川美術館は尾張徳川家に伝来した数々の名宝を収蔵していることで知られるが、その名宝のひとつに、「徳川家康三方ヶ原戦役画像」と呼ばれてきた、1枚の特異な家康像がある。

    「徳川家康三方ヶ原戦役画像」(徳川美術館蔵)の模写( 提供=T.Morimatsu/アフロ)。三方ヶ原の戦いで敗れた無様な家康の姿を描いたものと伝えられてきた。

     武装の家康を正面から描いたものだが、その姿格好は、通例の武将像にはみられない、じつに風変わりなものだ。脚部の高い香炉台のような形をした椅子に腰かけ、左手は頰にあて、左足は右足の腿の上に置き、その左足の踵あたりに右手を置いている。いわゆる「半跏」のポーズである。さらに目を引くのは表情で、白い上前歯で下唇を噛み、眼窩が深み窪み、頰はこけているようにみえる。一口にいえば醜悪な容貌で、何かにひどく困惑している老将の顔にも映る。この画像に「しかみ像」という俗称がある所以だ。

     おそらく読者も一度はこの奇妙な家康像を見たことがあるのではないだろうか。そしてまた、この画像の由来について、こんな話も耳にしているはずだ。

    「三方ヶ原の戦いで武田信玄に大敗を喫した家康は、居城の浜松城に逃げ帰ると、家臣の忠告を聞かずに出陣して多くの部下を失った自己の慢心を戒めるべく、その惨めな姿をあえて絵師に描かせた。そしてその絵を座右においてその後の訓戒とした」

     元亀3年(1572)12月に三方ヶ原台地(現・静岡県浜松市北区)で行われた武田信玄軍との戦いで、当時31歳の家康が約2000人もの戦死者を出して敗走したというのはよく知られた話で、この敗北は家康にとって人生最大の危機であった、とよくいわれる。家康は敗走する途中、恐怖のあまり脱糞してしまったという逸話もある。

     ところが近年、この「徳川家康三方ヶ原戦役画像」(以下「家康画像」)はじつは三方ヶ原の戦いとはまったく関係がなく、「家康が慢心の戒めのために描かせた」という由来譚は完全な虚構だ、と主張する論文が発表され、現在ではそれが定説となりつつある。

    「慢心を戒めるために描かせた」はウソ

     その論文「徳川家康三方ヶ原戦役画像の謎」は、当の図像の所蔵元である徳川美術館が発行した論文集『金鯱叢書』第43輯(2016年発行)に収録されているもので、筆者は同館学芸部に所属する原史彦氏である。

     同論文の内容をごくかいつまんで紹介しておくと、当初「家康画像」は、尾張徳川家のなかではたんに「東照宮尊影」、つまり「家康公の肖像」として伝えられていた。ところが、歯噛みしているような表情をしていたことから「敗戦時の惨めな家康像」と誤解されるようになり、そこから「三方ヶ原の戦いで敗れた家康を描いたもの」→「敗北をもたらした慢心を戒めるため、家康があえて絵師に描かせた」というように話が次第に増幅していった。――原氏はおよそこのように論述している。

     ちなみに、この画像が「三方ヶ原の戦いで敗れた家康の苦難の様を本人が絵師に描かせたもの」として説明されたはじめは、なんと昭和11年(1936)のことだ。前年に開館した徳川美術館でこれが展示された際に、当時の新聞の紹介記事にそう書かれたのだったが、以来この由来譚が流布し、定着してしまったのである。

     また、「家康画像」の制作年代は描法などからすれば17世紀頃とみられるという。それは、三方ヶ原の戦いよりもずっと後の時代にあたる。

     家康は、己の失態を易々とさらけ出すような、柔な人間などでは決してなかったのだ。

    弥勒菩薩として描かれた東照大権現

     それでは、この「家康画像」の真のモチーフは何なのだろうか。

     前掲の論文はこの問題についてはあまり明確な結論を出していないが、「武神として描かれた家康像」ではないか、と指摘している。しかめたようにみえる顔はじつは忿怒(ふんぬ)の表情であり、それは武神として神格化された家康であり、徳川家ではこれを神仏画のように礼拝(らいはい)していたのではないか、というのである。

     それは確かに一理あるが、筆者はここで「片足を上げ、片手を頰にあてる」という像のポーズに注目して、もう一歩踏み出して推理してみたい。このポーズは、京都・広隆寺に伝わる飛鳥時代の弥勒菩薩半跏思惟像にそっくりだ。

    韓国国立中央博物館所蔵の弥勒菩薩半跏思惟像(国宝第83号)。7世紀はじめの朝鮮半島でつくられた金銅仏だが、日本の広隆寺の弥勒像と像容はほぼ同じ。左右が逆になっていることを除けば、「徳川家康三方ヶ原戦役画像(しかみ像)」と弥勒像は酷似している。

     右足を上げ、右手を頰にあてる弥勒像とは左右が逆転しているが、オーソドックスな弥勒像と区別するために、あえてそうしたのかもしれない。

    「家康画像」は、家康を、救世仏である弥勒菩薩になぞらえて描いたものなのではないだろうか。仏典によれば、弥勒は釈迦入滅から56億7000万年後に兜率天(とそつてん)から地上世界に下生(げしょう)し、衆生(しゅじょう)を悟りに導いてくれるという。深い思索にふけっているかのようなその姿は、下生するまで地上世界を静かに見守りつづけている様を表現しているともいわれる。また古代日本では、弥勒菩薩は、聖徳太子を化身としたとされる救世観音と同一視されたらしい。

    救世観音像(『別尊雑記』より)。平安時代の四天王寺本尊を描いたものと考えられていて、聖徳太子はこの観音の化身と信じられた。四天王寺の救世観音は二臂の如意輪観音と同一視されたが、その像容は弥勒菩薩半跏思惟像と酷似しており、本来は弥勒像として拝されていた可能性が高い。

    「家康画像」は武装した弥勒菩薩像であり、武神と弥勒が習合した、究極の神仏としての家康を描き出したものではないだろうか。いわば「弥勒菩薩東照大権現像」だ。そして神君(しんくん)家康を追慕する人々は、この図像を拝しながら、家康が弥勒のごとく、はるか天上から江戸の世を守護しつづけてくれることを乞い願ったのだろう。

    (『ムー』2023年2月号より転載)

    ※ 第1回 徳川家のルーツを覆う深い霧
    ※ 第2回 衝撃の「家康すり替え説」
    ※ 第3回 正妻築山殿と長男信康の悲劇
    ※ 第4回 念仏者家康を支えた秘仏黒本尊
    ※ 第5回 家康の本当の墓はどこか

    東山登天

    歴史ミステリーを追いかける謎のライター。

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