徳川家康と将軍家を支えた秘仏「黒本尊」霊験と「念仏」のご利益 /東山登天

文=東山登天

    大河ドラマ『どうする家康』で話題沸騰中の徳川家康だが、その性格は、忍耐強く慎重な用心家という評価が定番である。だが彼は一面では「タヌキ親父」とも揶揄され、時に策謀をめぐらして敵対者をことごとく排除してゆく、冷酷な人格も持ち合わせていたらしい。正史からは消された逸話・エピソードに注目しつつ、戦国覇者のタブーに光をあて、江戸幕府260年の秘密をあばく!

    ※ 第1回 徳川家のルーツを覆う深い霧
    ※ 第2回 衝撃の「家康すり替え説」
    ※ 第3回 正妻築山殿と長男信康の悲劇

    「南無阿弥陀仏」を日々称えた家康

     浄土宗に、「日課念仏」という念仏行がある。たとえば1000回とか1万回とか、自ら1日に称える念仏の回数を定め、日々その回数分、念仏すなわち「南無阿弥陀仏」の6字を称えつづけることである。阿弥陀仏へのひたむきな帰依を表明することによって、極楽浄土に往生することを乞い願うわけである。

     家康はそんな念仏行を、若年の頃から実践していたらしいのだが、そのきっかけについては、こんな話が伝えられている。

    揚州周延画「桶狭間之戦」(桶狭間古戦場保存会『桶狭間の戦い関連写真集』より)。永禄3年(1560)、2万5000の大軍を引き連れた今川義元は、尾張の桶狭間(名古屋市緑区桶狭間)で織田信長の奇襲に遭い、敗死してしまった。

     桶狭間の戦いで織田信長の奇襲を受けて今川義元が敗死したときのこと。今川方に従っていた当時若干19歳の家康は、わずかの残兵を率いて敗走を余儀なくされた。そして岡崎の大樹寺に逃げ込み、一族の墓前で切腹を遂げようとした。大樹寺は松平家の菩提寺で、浄土宗寺院である。するとこのとき、住職の登誉上人が家康にこう告げたという。

    「念仏を称えて奮起なされよ」

     そして上人はにわか仕立ての道場で家康に「五重相伝」という浄土宗の秘儀を授け、さらに日課念仏を誓約させた。これによって覚悟を固めた家康は、寺門を出るや敵を蹴散らかし、活路を得た。以来、家康は熱烈な念仏者となり、日課念仏を生涯一日も欠かすことはなかったという。

     晩年になると、念仏をただ口で称えるのではなく、紙に「南無阿弥陀仏」をひたすらいくつも書き連ねることをもって「日課念仏」とするようにもなった。一種の写経である。家康自筆のものと伝えられる日課念仏の墨書が何点か現存しているが、それをみると、横長の紙に「南無阿弥陀仏」の6字がいくつも小さな字でびっしりと書き連ねられていて、信仰の篤さが伺える。

     晩年の家康が日課念仏の墨書をはじめたのは、将軍就任後のあるとき、彼が帰依していた天台僧の天海にこう諭されたためだという話がある。

    「多くの戦で殺戮が繰り返され、誠に幾多の罪なき人々の命が奪われてしまいました。もし極楽往生を願うのであれば、滅罪の祈りをこめて写経に取り組むのがよろしいでしょう」

     だが家康の念仏信仰、より正確にいうならば、阿弥陀仏に対する信仰が堅固なものとなったことには、もうひとつ大きな理由があったとおぼしい。

     それは、念持仏「黒本尊」の霊験にまつわるものだ。

    阿弥陀像の霊験で命拾い

    阿弥陀如来立像(図版=仏教美術 天竺)。家康は阿弥陀仏を熱心に信仰し、念仏に日々励んでいたという。
    明治5年(1872)の増上寺御開帳時の黒本尊を撮影した貴重な写真。『幕末・明治・大正回顧八十年史』第9輯(1933年刊)より。

    「黒本尊」というのは家康が奉じた阿弥陀如来立像の俗称で、香煙に薫じて黒く変じたためにそう呼ばれるようになったとか、あるいは、かつては源九郎義経の守り本尊で、「九郎本尊」と呼ばれていたことにちなむなどといわれている。平安時代に浄土教を興隆させた源信の作と伝えられているが、まだ家康が三河の一城主であった頃には、桑子(愛知県岡崎市大和町)の明眼寺という真宗寺院の本尊として門徒の信仰を集めていた。

     ところが永禄7年(1564)、この像が霊験あらたかであるという噂を聞きつけた家康は、懇望してこれを岡崎城に遷座。以来、彼はこの霊像を念持仏とし、陣中にもこの像をかならず奉持したというのだが、『黒本尊縁起』にはこんなエピソードが記されている。

     激戦があった夜、陣所で家康がぐっすりと寝込んでいると、「家康、家康」という声がする。目を覚ました家康は、さては敵が忍び込んだかと身構えたが、その声は「日課念仏を忘れていようが」と戒めた。ハッと思った家康は床を抜け出し、隣室に安置してあった黒本尊の前に座し、念仏を称えはじめた。
     するとそのとき、隣の寝所で「ヤッ!」と掛け声がした。敵方に通じた間者が家康の寝所を襲い、空の夜具に刀を突き刺したのだった。直ちに不寝番の武将たちが馳せつけて、その刺客を召し捕らえたことはいうまでもない。

     家康は、黒本尊の霊告によって、すんでのところで難を逃れたのである。

     また大坂の冬の陣(1614年)で、家康が真田幸村の手勢に鉄砲で襲われて万事休すとなったとき、謎の黒衣の武者が現れて敵を退けたが、その武者、じつは黒本尊の化身であった。黒本尊をみると弾痕があり、足にはつくはずのない泥がついていたからである。

    徳川家の菩寺、増上寺の三解脱門(東京都港区芝公園)。家康の念持仏であった黒本尊は最終的にはここに安置された。

     かくして勝運の仏としても崇敬された黒本尊は、やがて徳川将軍家の菩提寺となった江戸増上寺に遷され、将軍家の守護仏となった。今も同寺の安国殿に秘仏として奉安されている。

     家康の一途な念仏信仰・阿弥陀信仰は、このような黒本尊の確たる利益にも支えられていたのである。

    怨霊・亡霊への恐怖を念仏で収めた

     家康の念仏信仰の真摯さを語るエピソードを、もうひとつ挙げておこう。

     静岡県浜松市一帯には「遠州大念仏」という盆行事が伝えられている。念仏を唱和する集団が初盆を迎えた家々を訪れ、鉦(かね)や太鼓を打ち鳴らして踊り、死者を供養するという、ユニークな郷土芸能である。その起源についてはいくつかの説があるが、最も有力なのが、家康が創始したというものだ。

    歌川芳虎画「元亀三年十二月味方ヶ原戦争之図」(1874年)。元亀3年(1572)の三方ヶ原の戦いで家康は敗北したが、勝利した武田方にも多くの死者が出た。

     浜松市北区三方原町近辺で繰り広げられた、武田信玄と家康が対決した三方ヶ原の戦い(1572年)は武田方の圧勝に終わったが、それでも戦場近くの犀ヶ崖という断崖からは、地理に不案内な武田軍の将兵が次々に迷い落ち、多くの命が失われた。

     戦から2年後、この犀ヶ崖の底から呻き声や鬨(とき)の声のようなものが聞こえるという噂が広まり、やがてイナゴの大群が発生して田畑を食い荒らした。人々は「武田軍の戦死者の祟りではないか」とおびえたが、これを知った家康は、七日七夜にわたる大念仏を催して戦死者の供養と怨霊済度を大々的に執り行った。すると怪異はぴたりと収まったという。

    昭和初期の遠州大念仏の様子を撮影した写真(写真=毎日フォトバンク)。浜名湖北岸一帯で盆に行われる念仏踊りである。

     家康の神仏に対する敬虔な信仰は、彼が葬り去った幾多の亡霊に対する恐怖心の裏返しでもあった。

     家康が軍旗に「厭離穢土 欣求浄土」という文を記させたのは有名な話だが、これは「汚れたこの世を離れて、何としてでも極楽浄土に往生したい」という意味である。

    (『ムー』2023年2月号より転載)

    ※ 第1回 徳川家のルーツを覆う深い霧
    ※ 第2回 衝撃の「家康すり替え説」
    ※ 第3回 正妻築山殿と長男信康の悲劇

    東山登天

    歴史ミステリーを追いかける謎のライター。

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