正室と長男を死に追いやった非情な家康が隠した”真の素性”疑惑/東山登天

文=東山登天

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    大河ドラマ『どうする家康』で話題沸騰中の徳川家康だが、その性格は、忍耐強く慎重な用心家という評価が定番である。だが彼は一面では「タヌキ親父」とも揶揄され、時に策謀をめぐらして敵対者をことごとく排除してゆく、冷酷な人格も持ち合わせていたらしい。正史からは消された逸話・エピソードに注目しつつ、戦国覇者のタブーに光をあて、江戸幕府260年の秘密をあばく!

    ※ 第1回 徳川家のルーツを覆う深い霧
    ※ 第2回 衝撃の「家康すり替え説」

    妻子には極端に冷淡だった家康

     家康の性格といえば「冷静で辛抱強い慎重家」という評価が定番だろう。
    「鳴かぬなら、鳴くまで待とう時鳥(ほととぎす)」という句や、「人の一生は、重荷負うて遠き道を行くが如し。急ぐべからず」という家康が説いたと伝えられる人生訓は、そんな性格を表すものとしてよく引かれる。

     だが、それはあくまで後世につくられたイメージだ。たしかに家康は苦労人ではあったが、その事蹟をつぶさに見てゆくと、彼もまた他の戦国乱世の武将の例にもれず、生き残るためには非道を顧みない、残忍で冷酷な性格の持ち主であったことがよくわかる。
     そのことを確とわからせてくれるのが、彼が正室築山殿の殺害を命じ、長男信康を自害に追いやったという事実である。

     この惨劇のあらましは、こうだ。

     家康は、まだ松平を称し、人質として今川家が治める駿府で暮らしていた16歳のとき、今川義元の命で今川一門の関口親永の娘築山殿と結婚した。彼女は義元の姪でもあった。結婚から2年後の永禄2年(1559)、2人の間に生まれた長子が、信康だ。しかし桶狭間の戦い(1560年)で義元が討ち死にし、家康が今川から離反して織田信長と会盟すると、この母子の運命は暗転しはじめる。

     まず彼女たちは一時、今川方に捕らわれの身となるが、永禄5年(1562)人質交換が成って、家康の住む岡崎城に迎えられた。しかし家康は信長をはばかってか、築山殿を城外の屋敷に住まわせ、会おうとしなかった。信康は信長の娘徳姫を妻に迎えるが、2人の結婚が信長・家康同盟の担保とさせられたことはいうまでもない。

    現在の岡崎城天守閣(写真=岡崎市観光協会)。家康はこの城で生まれ、一時期ここを本城とした。

    信長の命で正室・長男を死に追いやる

     天正7年(1579)、一大事件が起こる。この頃、38歳の家康は浜松城を拠点として武田家と攻防を繰り返していて、岡崎城は当時21歳の信康に譲っていたが、夫家康と不和になっていた築山殿も岡崎城で暮らしていた。しかし築山殿は信康の嫁徳姫との折り合いが悪く、これが影響してか、信康と徳姫の関係も冷え切っていた。そんなとき、徳姫が父信長に信康の不行状を訴え、加えて、真偽のほどは不明だが、信康と築山殿が武田方に内通していると密告した。すると信長はこの訴えを真に受けて母子に強い不信感を抱き、家康に対して、築山殿と信康の殺害を命じたのである。

    静岡県浜松市天竜区の清瀧寺にある信康廟(写真=三木光/アフロ)。家康の長男、信康はこの場所の近くにあった二俣城で自害した。

     家康は、何ら抗弁することなく、この非情な命令に唯々諾々と従った。8月、信康は岡崎城を出され
    て遠州二俣城(静岡県浜松市天竜区二俣町)に移送され、9月15日、自害して果てた。「父親に切腹を強要された」と表現した方が適切だろう。築山殿の方は、息子自刃の半月ほど前に、岡崎から浜松に向かう途中、家康が放った刺客によって殺されている。

     いくら戦国の世とはいえ、なぜ家康は自分の妻と息子をむざむざと見捨て、冷淡な処置を断行したのだろうか。この問題に対しては、「強敵に囲まれているなか、唯一の頼りとなっていた織田信長の意
    向には家康は逆らうことはできず、泣く泣く指示に従った」というのが通説的な見方となっている。

    本当は赤の他人同士だったのか

     しかしそれでも、「本当にそうだろうか」という疑念が浮かんでしまう。たとえば信康に対しては、義絶するという程度に止めて、命だけは救うという方法もありえたのではないか――。

    愛知県岡崎市に鎮座する八柱神社(写真=三木光/アフロ)。家康が放った刺客によって殺害された。家康の正室、築山殿の首塚がある。

     そんな疑念をすっかり霧消させるのが、前項で紹介した「家康すり替え説」なのである。村岡素一郎の『史疑 徳川家康事蹟』にもとづけば、築山殿は松平元康の正室であって、桶狭間の合戦後に元康が横死したのち彼にすり替わった家康とは何ら縁がない。もちろん信康は家康の子ではない。つまり、家康と築山殿・信康母子は、赤の他人同士だったのだ。そうであるならば、家康が妻と息子を遠ざけ、最後はあまりにも苛烈な態度をとったこともよく理解できる。むしろ、出自を包み隠そうとする家康からすれば、築山殿・信康母子を処分せよという信長の命令は、秘密の暴露を防ぐうえで、きわめて好都合であったとすらいえよう。

     そしてまた、家康による妻子殺害の動機をきわめて合理的に説明できるというのが、『史疑 徳川家康事蹟』を安易に無下にすることのできない理由のひとつでもあるのだ。

     信康の遺骸は二俣城近くの清瀧寺(長安院)に葬られたが、家康がここにみずから香華を手向けたという記録はないという。

    (『ムー』2023年2月号より転載)

    ※ 第1回 徳川家のルーツを覆う深い霧
    ※ 第2回 衝撃の「家康すり替え説」

    東山登天

    歴史ミステリーを追いかける謎のライター。

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