日本最古の巨人伝説記録を物語る巨人像を目撃! 茨城県・大串貝塚のダイダラボウの威容
日本各地に残る超大型巨人の伝説。そんな伝説を体感できる場所が茨城県にあった。
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大河ドラマ『どうする家康』で話題沸騰中の徳川家康。正史からは消された逸話・エピソードに注目しつつ、戦国覇者のタブーに光をあてる!
※ 第1回 徳川家のルーツを覆う深い霧
『駿府政事録』という史料がある。将軍職を秀忠に譲って駿府(静岡市)に引退した、最晩年期の家康の動静を記録したものだ。筆者は家康の書役を務めた後藤光次、あるいは家康に仕えた儒学者林羅山ともいわれているが、同書の慶長17年(1612)8月19日の項に、家康が近侍者たちを前にした雑談の折、次のようなことを語ったとする記述がある。ちなみに、家康はこのとき数え71歳である。
「幼少のとき、又右衛門某という者が銭5貫文で私を売り飛ばした。それで9歳から18、19歳になるまで、駿府に住むことになったのである」
三河の大名・松平広忠の嫡子で竹千代と称していた少年時代の家康が、隣国駿河の大名、今川家のもとに人質として送られたこと、元康と改名して桶狭間の戦い(1560年)に今川方として参加する19歳のときまで、今川の監視下で駿府に住んで忍従の日々を送ったことは、よく知られた話だろう。ちなみに、父広忠は竹千代が8歳のときに亡くなったため、その後は形式上は竹千代(元康)が松平家の当主となっていた。
つまり、一般的な徳川伝にもとづけば、少年時代の家康は、松平家の幼君という地位にあったがゆえに、あくまで大名家の人質として駿府で過ごしたのだ。
ところが、当の家康は「銭5貫で売り飛ばされて駿府に住まわされた」と回顧しているのである。戦国時代は銭1貫がだいたい米2石こく(2000合)だったというので、銭5貫は米10石。米1石(1000合=約150キロ)を現在の貨幣価値に換算すると、米10キロ=4000円として、6万円。したがって5貫は30万円となる。あくまで目安の金額だが、大名の嫡子にしては、随分と買いたたかれたものである。
——いや、そもそも松平の幼主が、名前もよくわからぬ人物によって売り飛ばされることなど、ありえないのではないか!
ならば、この家康本人の告白は、いったい何を意味しているのか……。
『駿府政事録』のこの記述を読んで、そんな疑念に駆られたのが、明治時代の在野の歴史家、村岡素一郎であった。彼は静岡県で教育官を務めたこともあって家康の事蹟に興味を抱き、それで『駿府政事録』をひもといたのだったが、この疑念にぶちあたったことをきっかけとして、彼は家康の出自について、ある仮説を立てた。そして、本職の合間に史料を漁り、旧蹟を訪ね、その成果として、明治35年(1902)に『史疑 徳川家康事蹟』を上梓した。
同書の内容は必ずしもわかりやすいものではない。結論からいうと、村岡によれば、今川家の人質となった松平竹千代、桶狭間の戦いで今川方の先方として織田方と対峙した松平元康、そして織田信長の盟友として武田軍と戦って最終的には天下を制した徳川家康の3人は、驚くべきことに、全くの別人だという。
しかも3人目の徳川家康は、駿府に流れ着いた願人坊主と、同地の下層民の娘とのあいだにできた子であり、三河の松平家とは縁もゆかりもない人物だった。願人坊主とは加持祈禱を生業とした漂泊宗教者のことである。その子供は長じると世良田二郎三郎元信と名乗って乱世の梟雄となり、桶狭間の合戦ののちに松平元康が岡崎城で部下に暗殺されるや、その混乱に乗じて元康その人になりすまして松平家を乗っ取り、天下統一という究極の覇業へと突き進んでいった—— というのである。
この世良田元信(徳川家康)は、寺に預けられていた9歳のとき、悪さをして破門され、駿府城下をうろつきまわっていたところを、又右衛門という人買いにかどわかされ、父親とは別の願人坊主に売り渡されてその弟子にさせられた。『駿府政事録』にみえる家康の回想は、村岡によれば、このときのことをさしているらしい。隠居暮らしの気のゆるみで、それまで周囲にはひた隠しにしていた出自の秘密を、ついポロッともらしてしまったというわけだ。
『史疑 徳川家康事蹟』にみえる村岡の説は、一見すると珍奇ではあるが、さまざまな記録・調査をもとに丁寧に論証されていて、教えられるところも多い。だが、この一書は出版されても、全くといっていいほどに評判にならなかった。ほぼ無視されたといってもいい。徳川治世の記憶がいまだ色あせず残り、旧幕関係者も多く存命していた時代には、あまりに珍奇すぎる、受け入れがたい内容だったのかもしれない。
同書の存在とその「家康すり替え説」が広く知られるようになったのは、昭和30年代以降に同書をネタ本にした小説(南條範夫『三百年のベール』、隆慶一郎『影武者徳川家康』など)が発表されて、話題を呼ぶようになってからのことである。
前項では、徳川・松平の始祖は得体の知れぬ放浪者であったとする説を紹介したが、『史疑』の説がもし真実であれば、家康その人こそが流浪の者であったことになろう。
作家の南條範夫は小説『三百年のベール』のあとがきにおいて、『史疑』にもとづいた自作について、「これは家康に対する評価の引下げを意図するものではない。家康が浮浪の願人坊主だったとすれば、岡崎城主の伜だったよりも、遙かに多くの才能、機略、勇断の持主であったことを示すもの」だと解説し、家康に対しては農民の伜であった豊臣秀吉以上の評価が与えられるべきだ、と鋭い指摘を行っている。
(『ムー』2023年2月号より転載)
※ 第1回 徳川家のルーツを覆う深い霧
東山登天
歴史ミステリーを追いかける謎のライター。
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