徳川家康の先祖は謎の放浪の念仏僧!? 通説「新田源氏の末裔」に疑問の目/東山登天・家康ミステリー(1)
大河ドラマ『どうする家康』で話題沸騰中の徳川家康の謎に迫るシリーズ。正史からは消された逸話・エピソードに注目しつつ、戦国覇者のタブーに光をあてる。
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大河ドラマ『どうする家康』で話題沸騰中の徳川家康だが、その性格は、忍耐強く慎重な用心家という評価が定番である。だが彼は一面では「タヌキ親父」とも揶揄され、時に策謀をめぐらして敵対者をことごとく排除してゆく、冷酷な人格も持ち合わせていたらしい。正史からは消された逸話・エピソードに注目しつつ、戦国覇者のタブーに光をあて、江戸幕府260年の秘密をあばく!
※ 第1回 徳川家のルーツを覆う深い霧
※ 第2回 衝撃の「家康すり替え説」
※ 第3回 正妻築山殿と長男信康の悲劇
※ 第4回 念仏者家康を支えた秘仏黒本尊
金装飾がまぶしい陽明門、花鳥の彫刻が施された極彩色の回廊、拝殿・石の間・本殿の3つからなる壮麗な本社――。日光東照宮の絢爛豪華さは、家康を神として荘厳するにいかにもふさわしい威光を今なお醸している。
家康を「東照大権現」という神として祀る日光東照宮が創建されたのは、元和3年(1617)である。家康の遺言にもとづき、家康の1周忌にあわせて、江戸幕府2代将軍秀忠によって造営された。ただし現存する建物のほとんどは、3代将軍家光の手によって改修されたものである。ちなみに「東照大権現」という神号は、家康が帰依した天台僧天海の考案によるもので、「東から照らす」「東の天照大神」といった意味が込められているとされる。
だが、この神社の真の中心が、本社のさらに奥に建つ奥宮宝塔であることを見逃す人は多い。この塔には何が納められているのか。
――それは、家康の遺体である。要するに、「家康の墓所」というのが日光東照宮の威光の由って来るところなのである。
ところが近年、「日光東照宮には家康の遺体は存在しない。家康の本当の墓は静岡にある」という説が唱えられ、注目を集めている。つまり、「日光東照宮は家康の墓ではない」というのである。
この異説を紹介する前に、まず家康の死と東照宮創建の経緯をたどっておこう。
家康は元和2年(1616)4月17日、家康は駿府城で生涯を閉じた。享年75。正月に鷹狩りに出かけた際、鯛の天ぷらを食べて食中毒になったのが直接の原因とされている。
死去の2週間ほど前、死期を悟った家康は、ブレーンであった臨済僧の金地院崇伝に、次のような内容の遺言を託した(『本光国師日記』)。
①遺体は駿河国の久能山に葬れ。
②葬儀は江戸の増上寺で行え。
③ 位牌は三河国の大樹寺(松平・徳川家の菩提寺)に納めよ。
④1周忌が過ぎたら日光に小堂を建てて勧請し、関東八か国の鎮守とせよ。
家康死去後、この遺言は次々に実行された。遺体はただちに駿府城から東に8キロほどの久能山へ移され、19日には同地に仮殿が営まれて埋葬(土葬)された(のちに本殿が建てられて久能山東照宮となる)。5月には増上寺で葬儀が行われ、大樹寺には位牌が納められた。
こうして、家康の遺言のうち①~③は遅滞なく実現されたが、問題は④だ。通説では、元和3年4月4日、久能山から運ばれてきた家康の「霊柩」が日光に到着し、17日には遷宮祭が執り行われて、日光東照宮が正式に誕生した、ということになっている。
一見すると、家康の遺言通りにみえるかもしれない。だが、「霊柩」という言葉に注目してほしい。「柩」とあるからには、普通に考えれば、その中に家康の遺体が入っていたことになる。しかし、家康は「日光に勧請せよ」と命じたのであって、「遺体を日光に埋葬し直せ」と命じたわけではない。「勧請」は神道用語で、神の分霊を他の場所に遷し祀ることを意味する。この家康のケースでいえば、久能山に神として葬られた家康の霊を幣(ぬさ)や鏡などの御霊代(みたましろ)に遷し迎え、それを新たな「御神体」として日光に鎮祭することである。つまり、遺体の移動は必要ない。必要なのは、あくまで「神霊」の移動である。
こうしたことを踏まえ、近年、静岡の家康研究者の間では、「家康の遺言が厳密に履行されたのであれば、家康の遺体は久能山に留め置かれ、日光には神霊だけが遷し祀られたはず。家康の本当の墓は久能山だ!」という主張がなされるようになっているのだ。
そうした研究者のひとりである興津諦氏によれば、元和3年に久能山から日光へ運ばれた霊柩の中に納められていたのは、遺体ではなく家康霊の御霊代(おそらく鏡)だという(『余ハ此處ニ居ル』)。さらに同氏は、その御霊代が日光東照宮の神殿に安置され、一方、奥宮宝塔の中に安置されたのは御霊代の容れ物としての霊柩で、その霊柩には、たとえば家康の遺髪や久能山墓所の土などが納められていたのではないか、と推理している。
久能山東照宮の境内奥には、家康廟として家光が造営した巨大な石造の宝塔が建っているが、同氏の見解によれば、家康の遺体はこの中に眠っていることになる。
そもそも、この「家康墓静岡」説を最初に唱えたのは、平成14年(2002)に久能山東照宮の宮司に就任した落合偉洲氏だが、なんと同氏はかつてこの宝塔の中に入ったことがあるという。そこには厨子があり、中央には家康の坐像、左右には山王権現と摩多羅神と思われる像が安置されていた。家康の遺体はこの厨子の下の、地中深くに眠っているはず――と落合氏は考えているようだが、さすがに実際に掘り返すまでには至っていない。
たしかに、江戸期の信頼できる史料をよく見てみると、家康の「遺体」が日光に改葬されたと明記するものはひとつもない。元和3年の日光への「家康移送」に随行した公家の烏丸光弘は『日光山紀行』(『御鎮座之記』とも)という記録を残しているが、この中で彼は、運ばれた霊柩のことを、「神体」
を乗せた「金輿」または「神輿」と表現している。つまり、大行列が供奉していたのは、神霊の御霊代が安置された「おみこし」だったかもしれないのだ。
さらに驚くべき話がある。明治維新時、将軍職を退いて静岡に移り住んだ徳川慶喜が旧幕臣の勝海舟、山岡鉄舟らとともに久能山の宝塔を詣で、家康の遺骸を実際に目にした――という話が、静岡の旧家に言い伝えられていたのだ(『余ハ此處ニ居ル』)。
家康の本当の墓は大阪にあった――という話もある。
大阪・堺市に南宗寺という弘治2年(1556)開創の禅刹があるが、大正11 年(1922)刊の『大阪府全志』第5巻の「南宗寺」の項には、「寺の旧記」に拠るとして、次のような驚くべきことが書かれている。
豊臣秀頼・淀君が籠る大坂城を攻めた慶長20年(1615)の大坂夏の陣の直前、家康は平野(大阪市平野区)で豊臣軍がしかけた地雷火(じらいか)に襲われ、駕籠(かご)に乗って和泉の半田寺山(大阪府堺市八田寺町のあたりか)まで逃走。しかし紀州方面からやって来た豊臣方の後藤又兵衛の槍に突かれて深手を負い、そのまま亡くなってしまった。遺骸は侍臣たちによって密かに堺の南宗寺へ運ばれ、開山堂の下に葬られた。夏の陣が徳川方の勝利に終わると、遺骸は久能山に改葬されたという。「遺体は密かに日光に運ばれた」とする異説もあるという。
家康の死は離反者が陸続と現れることを恐れた側近たちによってひた隠しにされ、家康とそっくりの信濃松本藩主、小笠原秀政が影武者を務めた――という話もある。
同寺の開山堂の床下には無銘の塔があり、それが家康の墓と伝えられたらしい。昭和20年(1945)の空襲で開山堂は焼失したが、塔の方はかろうじて難を免れた。昭和42年(1967)には、こうした伝承にもとづき、新たに立派な家康の墓が境内に建立されている。
元和9年(1623)には2代将軍秀忠、3代将軍家光が相次いで南宗寺を訪れているが、前掲書はこれを「無銘塔」、すなわち家康の墓を詣でるためであったとしている。
徳川正史は、家康は夏の陣から1年後の元和2年(1616)4月に駿府で没したとするが、じつはこのとき死んだ人物は家康の替え玉で、幕府が久能山と日光の双方に壮麗な家康の廟所を築いたのは、家康が大坂で戦死したという事実を隠すための、目くらましのようなものだったのか。
家康の本当の墓はどこなのか、本物の家康の遺体はどこに眠っているのか。その真相は、その出自をめぐる謎と同じく、濃い靄に包まれている。
(『ムー』2023年2月号より転載)
※ 第1回 徳川家のルーツを覆う深い霧
※ 第2回 衝撃の「家康すり替え説」
※ 第3回 正妻築山殿と長男信康の悲劇
※ 第4回 念仏者家康を支えた秘仏黒本尊
東山登天
歴史ミステリーを追いかける謎のライター。
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