京城帝都がありえたら…歴史的検討点から揺らぐ「日本のかたち」の不確実性/大日本帝国「聖地拡大」計画

文=鹿角崇彦

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    この世に不変不動のものなどない。大日本帝国の中枢であった帝都東京でさえ、その地位が変わりうる可能性は一度ならずあった。大日本帝国が生んだ数々の「幻」たちから見えてくるものは……。

    あり得たかもしれない「幻の帝都」候補地

     ここまで、「聖地」を軸にありえたかもしれない大日本帝国の「幻」たちを追ってみた。さまざまな「幻」が実現していた世界では、バタフライエフェクトのようにそれらが連鎖しあい、全く異なる世界線が展開していたかもしれない。たとえば3府72県のそれぞれに伊勢神宮の分社をつくる「府県神宮」計画が実現していた世界線では、大量に生まれた分社が「神宮」のありがたみそのものを相対的に低下させ、官幣大社、国幣中社などの序列をさだめる近代社格制度にも大きな方針転換を余儀なくさせていたかもしれない。

     広島の比婆山にイザナミを祀る官幣大社が実現していたら、比婆山は記紀神話の正統な聖地として崇敬をうけ、半世紀ほどのちにその近辺で目撃情報が相次ぐことになる謎の大型類人猿は、イザナミの使い、黄泉醜女(よもつしこめ)の出現として近隣の人々を恐れおののかせていたかもしれない。

     さまざまな「ありえたかもしれない日本」に想像が飛躍してしまうが、そもそも明治初期と、昭和10年代、そして今とでは地図にみる「日本」の姿でさえ全く違っている。そんな視点からイフを想像するならば、たとえば「首都が東京ではない日本」になる可能性でさえ過去にはいくらでもあり得たのだ。

    明治天皇の行幸により事実上の首都になった江戸(東京)。しかしその地位が変わっていた可能性も(東京都立中央図書館蔵)

     明治の最初期、大久保利通が京都から大阪への遷都を建言したことはよく知られるが、明治19年には井上馨と三島通庸の連名で「上州遷都」の建議がなされた事実がある。ざっくりいえば、東京は諸々問題が多いので思い切って群馬県に都をうつしてはどうか、という提言である。

     東京が事実上の首都になって20年も経たないうちに出された遷都の提案。
    「一 東京近傍ニ於テ便宜ノ地ヲ選ヒ本都移遷ノ事」との一文からはじまる建言では、なぜ東京が首都ではだめなのかという理由が以下のように挙げられている(一部意訳)。

    ・土地に湿地が多すぎる
    ・水質がよくない
    ・地震が頻繁におこる
    ・疫病がおびただしい
    ・もし外国と戦争になった場合、海に近すぎるため敵国の艦隊からたちまち砲弾を浴びせかけられることになり、皇居をまもることができず、敵のあなどりをうける

     そんな東京にかえて都を移すべき場所はどこか。それは東京に近い範囲で、

    ・海から20〜30里(80〜100キロメートルほど)離れている
    ・川など水運の利便性がある
    ・土地に起伏がなく平坦である
    ・各地への交通の便がよい
    ・肥沃な土地で水質もよい

    といった条件を備えていなければならない。そしてこれらに合致する場所として候補にあげられたのが、利根川をはさんだ上州(群馬県)の新田郡から武蔵(埼玉県)の児玉郡あたりだったのだ。

     これに先立つ明治11年にも、のちに日本赤十字の創始者として知られることになる佐野常民がほぼ同じ理由で上州への遷都を構想していた。その「遷都之議」の冒頭はこう始められている(読みやすいよう原文を適宜調整)。

    帝都は至尊(天皇)の居る所、政府の建つ所にして以て全国を控制(統制すること、コントロール)する所なり 故に最形勝の地を択(えら)びてこれを奠(さだ)めざるべからず
    東京は我が邦(くに)の中央に位し徳川氏の之に拠て四方を鎮圧す 曩(さき)に維新の際京都を去りて東京に遷るは誠に当れり 然れども臣ひそかに思へらく 東京は永久都を奠むるの地にあらず 今その然る所以(ゆえん)を具陳せん

     京都から東京に遷都(奠都)したのはもっともなことだが、しかし「東京は永久都を奠むるの地」ではない、とはっきり東京に首都不適格を宣告しているのだ。

     その理由として挙げられているのは、やはり東京が江戸湾に近すぎて艦砲射撃に対して無防備であること、また東京は江戸時代を通じて泰平だった名残で風俗が乱れており、学校や軍を置くのにふさわい気風でないことなど。

     そして奠都先として挙げられたのが、武蔵と上野の国境あたり、現在の本庄市を中心とした一帯だった。理由はやはり広い平坦地があり、利根川などの水運が便利なこと、水質、交通の便、東京との距離なども問題ないことなどとされている。

     ふたつの提言をみていると、上州奠都は本当にアリかもしれない、という気持ちになってくる。実際に本庄市を訪れてみるとたしかに土地は広くなだらかで、関東平野の北西端という位置は防衛にも有利そう。軍事や交通の事情は130年前と今では全く異なっているものの、決して荒唐無稽ではないかなり「ありえる遷都案」だったのではと感じられる。もしもこの遷都が実現していたら、本庄、高崎、前橋あたりは大規模に発展し、上州帝都と東京はたとえばブラジリアとリオデジャネイロのような関係性になっていたのかもしれない。

    佐野常民の「上州遷都」構想。井上馨らも同じく群馬県〜埼玉県の関東平野北西部を遷都候補地に挙げていた(国立国会図書館デジタルコレクション)。
    本庄城、本庄市役所周辺。「上州遷都」が実現した別の世界線があれば、この辺りが日本の中心地になっているのだろう(筆者撮影)。

     上州遷都の建言からさらにさかのぼる明治7年には、北海道・奥羽開拓のため北方への遷都を望む請願があったことも確認できるが、北への遷都というアイディアがより具体的に示されたのは、明治19年、岩村通俊によって起案された「北京遷都」構想だ。

     北京とは北の都という意味で、現在の旭川市上川近辺に北方開拓の拠点となる一大都市の建設を提言したもの。岩村は自身で上川の神楽岡という場所を訪れさまざまな検討のうえに提言をしているのだが、残念ながら案は却下される。
     しかしこの動きは全くのムダには終わらず、上川の神楽岡はその後御料地として皇室が所有することとなり、離宮の造営が決定される。明治44年には嘉仁皇太子(のちの大正天皇)の北海道行啓の際に神楽岡にも行啓があり離宮予定地の視察まで行われたのだが、残念ながらその計画はついに離宮が実現することはなかった。現在、御料地の跡地は神楽岡公園、上川神社として市民の憩いの場になっている。

    上川御料地に建てられた皇太子御便殿(北海道大学北方資料データベース)
    上川離宮予定地。「北京遷都」案が通っていれば、ここが新たな帝都になっていたのかもしれない(北海道大学北方資料データベース)

     国のかたちに動きがあれば、首都も不変とは限らない。その点では現実に幕府の崩壊というリアルを目の当たりに体験した明治人のほうが、現代人よりもよほどバイアスなく東京を客観視できていただろうとも思える。

     そして、佐野や井上らが抱いていた不安は、半世紀後に現実のものとなる。

    繰り返された「京城遷都」論

     大正12年9月1日、関東大震災発生。ここにまさしく佐野たちが危惧していた東京の脆さが露呈したわけだが、のちに陸軍大将となった今村均は、震災当時陸軍内部で遷都案が持ち上がったことを伝えている。

     その回想によれば、東京はおよそ70年周期で大地震が起こる場所であり、万一の場合は戦争遂行どころではなくなる。また土地が平坦すぎ防空上も無防備である。ならば震災を期に都を遷し、理想の帝都をつくるべきだろうとかなり具体的な動きがあったというのだ。

     起案の実務を任された今村は3か所の候補地を選出しているが、その第一候補は、なんと京城南の龍山、現在のソウル市ヨンサンだ。第二は加古川(兵庫県)で、これが叶わない場合は最低限宮城(皇居)と政府機関を八王子に移す、という。国防のためなら東京を手放しても構わないという軍隊的リアリズムに目をみはるが、当時の陸軍は朝鮮半島が領土でなくなる可能性を微塵も想定していなかったであろうことにも驚きがある。

     現実にはこのわずか20年後には朝鮮半島は「日本」でなくなったのだから、もしこの京城遷都案が実現している世界線があったなら、敗戦時の混乱はこの現実世界以上に凄まじいことになっていただろう。あるいは逆に「帝都京城」がなった大日本帝国ではその後の戦争遂行にもより慎重な検討がなされ(なにしろ絶対に外地を失うわけにいかないのだから)帝都はじめ主要都市がことごとく焦土化するような壊滅的敗北は迎えない歴史が刻まれていたのかもしれない。

    昭和初期の京城。もしもここが帝都になっていたら、その後の歴史はどう動いていたのだろう(国立国会図書館デジタルコレクション)。

     この京城遷都は陸軍といういわば一部局内で沙汰止みになった例だが、昭和18年には「大東亜共栄圏大業完遂」のための計画として、より政府中枢に近い部局で遷都案が構想されていた。このとき遷都先の候補にあがったのは、岡山県の御幸村(現在の瀬戸内市)、福岡県の福島町(現在の八女市)、そしてやはり朝鮮半島の京城付近だった。

     計画のレベルを超えて現実に遷都構想が進められた例としては、昭和19年以降、本土決戦が濃厚になるなかで長野県松代町(現長野市)に戦争遂行機能を移す「松代大本営」造営が進められたことはあまりにも有名だ。

     天皇の居所である御所、皇后はじめ皇族の居室、陸海軍の拠点などが極秘裏に建造され、現在にまで残されているものも少なくない。真相は定かでないが戦時決戦都市として信州が選ばれたのは防衛上の理由とともに「信州は神州に通じる」との験担ぎもあったといわれ、大日本帝国という組織の核にあるなにかが露呈しているようでもある。

    長野県松代の舞鶴山麓に造られた「松代大本営天皇御座所」。降伏が遅れていれば実際に使われた可能性もゼロではない(筆者撮影)。

    幻の計画が映し出す、この世界の不確実性

     今では疑われることもない都道府県という範囲でさえ、決して不変ではない。明治36年には全国を28の道府県に再編する「府県廃置法案」がつくられていたのだが、日露関係に絡む政府議会の混乱がなければ、この法案にもとづいて府県が28に再編されていた可能性は低くない、むしろかなり高かったともいえる。

     もしこの案が可決していたら、四国は高知県、愛媛県、高松県の三県構成になっていたし、福岡県は大分県とさらに関門海峡をはさんだ山口県の一部も含む広大な県になっていた。京都府は滋賀県、福井県嶺南をあわせて日本海に広大な海岸線を有することになり、東京府は埼玉県と山梨県をのみこみ、北陸には石川、富山、福井に岐阜県北部までを併合した巨大な金沢県が誕生……と、日本の地域のかたちは大きく変わることになっていただろう。

     また昭和5年には、東京府から東京市を独立させ、その他の部分を千代田県あるいは武蔵県に再編、同様に大阪府を分割して大阪市と浪速県に、京都府を分割し京都市と平安県あるいは西京県とする幻の府県改正案が検討されたこともあった。

     おおむね今の23区エリアが東京市、それ以西の多摩地区が武蔵県になっていた世界線を想像してみていただきたい。そこでの「県民意識」はどのように育まれることになっただろう。浪速県民、平安県民は大阪市民、京都市民にどんなまなざしを向け、どんなセルフアイデンティティを持つことになったのだろう……?

     幻の伊勢神宮遷座計画から、全国に展開した「幻の神宮」創建運動、戦争のためにはかなく消えた幻のイベント、そしてありえたかもしれない幻の帝都プラン。
     明治以降150年の間に生まれては消えた数々の「幻」を眺めていると、今の日本のかたち、この現実世界は数え切れない偶然の上にある可能性のひとつにすぎないのだとの思いが強くなる。手を伸ばせば届くほどのすぐ隣に、別の可能性を歩んだ数多の日本たちが存在しているのかもしれない。

    (終)

    浪速県、西京県、千代田県、多摩県の設置法案。パラレルワールドに迷い込んだような幻惑感のある文字列だ(国立公文書館)。
    明治36年の府県廃置案図。宇都宮県、金沢県、名古屋県など「イフの世界線」めいた県名があちこちに(国立公文書館)。

    鹿角崇彦

    古文献リサーチ系ライター。天皇陵からローカルな皇族伝説、天皇が登場するマンガ作品まで天皇にまつわることを全方位的に探求する「ミサンザイ」代表。

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