徳川将軍家「葵の御紋」の謎 徳川家康の正体は賀茂氏の陰陽師だった!!/MUTube&特集紹介

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    徳川家の家紋といえば、葵紋である。ところが奇妙なことに、将軍家が葵を家紋とした理由はよくわかっていない。 ひょっとして、家康は意図的に曖昧にしたのだろうか。 絶大な威光を放ったこの紋章の背景を探ってゆくと、近世日本を支配した将軍家のルーツをめぐる、衝撃的な真実が浮かび上がってきた!!

    徳川家以外には使用が禁じられた葵紋

    「この紋所が目に入らぬか〜!」
     黄門様のお供をつとめる格さんが、そういって懐から印籠を取り出す。すると、その印籠に「葵の御紋」が描かれているのを見た悪代官たちは、いっせいに地面にひれ伏した。
    「ここにおわす御方をどなたと心得る。畏れ多くも先の副将軍、水戸光圀公にあらせられるぞ! 皆の者、頭が高い、控えおろう!!」
     もはや若い読者にはあまりなじみがないかもしれないが、水戸藩主徳川光圀(水戸黄門)の漫遊伝説に材をとった、往年の人気時代劇シリーズ「水戸黄門」のクライマックスで必ず聞かれた名台詞である。
     それまで刀を抜いていた悪人たちが、葵紋を目にして態度を一変させたのは、それが、江戸幕府に君臨する徳川家の家紋であったからだ。江戸時代においては、葵紋は徳川家・将軍家が有した絶大な権威のシンボルであり、徳川家以外には使用が制限され、一般庶民がみだりに用いると罰せられた。葵紋は、まことに畏れ多き御紋であったのである。
     来年はNHK大河ドラマが「どうする家康」ということで、今ふたたび徳川家が脚光を浴びつつあるが、本記事では、この「葵紋」に隠された徳川家の秘史に迫ってみたい。

    じつはよくわからない徳川葵紋の由来

     徳川家の家紋としての葵紋は、正確には「三つ葉葵紋」という。山中の木陰に生えるウマノスズクサ科のフタバアオイを紋章化したものなのだが、その名が示すように、フタバアオイ自体は茎の先端にハート形の2枚の葉っぱを対称につけるのが特徴である。それをあえて3枚の葉っぱにし、巴形に並べたのが、三つ葉葵紋なのである。そのほうがデザイン的に見栄えがいいからだろう。
     フタバアオイは地上を這うようにして生えるが、それ自体は小さな植物であり、淡い色の小さな花を咲かせるにすぎず、植物としては非常に地味である。そんな草を、なぜ、徳川家はわざわざ家紋に採用したのだろうか。
     意外なことに、信頼できる史料には、徳川家の葵紋の由来について明確に記したものがなく、徳川家がいつからこれを家紋としたのかもよくわからない。
     徳川の前身である松平家の時代から
    用いていたとする説もあるが、確証はない。ちなみに、三河国(愛知県中部・東部)の戦国大名であった松平家康が、新田源氏系の徳(得)川氏が遠祖であるという名目のもと、姓を徳川に改めたのは永禄9年(1566)のことである。
     江戸幕府が編纂した公式の徳川家伝である『徳川実紀』にも、家紋の由来は明記されていない。
     つまり、徳川が葵を家紋とした理由は、大きな謎に包まれているのだ。
     そのため、江戸時代前期から、由来をめぐってさまざまな説が乱立してきた。そうした諸説のうち、おもだったものを挙げてみよう。
     ①家康の祖父・松平清康が三河国の吉田城を攻め落した際、家臣の本多正忠が戦勝祝いに伊奈城へ清康を招き、城内の池にあった水葵を器にして肴を差し出すと、清康がこれを喜び、家紋とした(『藩翰譜』)。葵紋は元来は本多家の家紋だったとする説もある。
     ②葵紋は松平家が庶流の酒井家に与えたものだったが、松平長親(家康の高祖父)の代になって、酒井家が合戦で見事な働きをして戦勝したので、それを酒井家から譲り受けた(『新編柳営続秘鑑』『改正三河風土記』)。
     ③松平家はかつて賀茂氏とも称していたと伝えられていたので、京都・賀茂神社の神紋である葵紋をアレンジして家紋とした(『塩尻』他)。この説には、松平時代からすでに葵紋を使用していたとする説と、こうした伝承を根拠に家康の時代から用いはじめたとする説のふたつがみられる。

    葵紋を神紋とした京都・賀茂神社

     この他にも説があるが、このうち有力視され、筆者としても興味があるのは③の「賀茂神社神紋起源説」である。
     まずはじめに、「なぜ賀茂神社は葵を神紋としたのか」という問題から説明しておきたい。
     平安遷都以前から京都に鎮座する賀茂神社は、上賀茂神社(正称・賀上茂別雷神社)と下鴨神社(賀茂御祖神社)に分かれているが、先に成立したのは賀茂川上流の東岸に鎮まる上賀茂神社だと考えられている。
     賀茂神社は、社伝によれば、往古いったん天に昇った賀茂別雷神が賀茂山に降臨したことにはじまるという。
     賀茂別雷神は、賀茂川上流に住み着いた賀茂建角身命の娘・玉依姫が雷神の化身である丹塗り矢を川で拾ったことから生まれた神で、上賀茂神社の主祭神であり、同社の祭祀は賀茂建角身命を祖とする賀茂氏が司ってきた。おそらく、このあたり一帯に古くから住んだ豪族・賀茂氏が雷神を奉斎したのが、上賀茂神社のルーツなのだろう。
     では、上賀茂神社と葵紋のゆかりについてはどうか。鎌倉時代初期成立『年中行事秘抄』に引用されている通称『賀茂旧記』に、概略次のような記述がある。
    「いったん天に昇った賀茂別雷神の降臨を母親の玉依姫が請うと、賀茂別雷神がこう告げた。『もし私に会いたければ、天衣をつくり、馬を用意し、かがり火をたき、榊を立て、葵と楓(桂)で蘰をつくり、待て。そうすれば降臨する』」
     つまり、賀茂別雷神は厳粛な神事を行って神の来臨を仰げと命じたわけだが、その命令のなかに、神聖な植物である葵を材料として蘰をつくれというものがあった。蘰とは、頭に巻きつける髪飾りのことである。上賀茂神社が葵を神紋としているのは、これに由来するとされ、下鴨神社をはじめとして、全国各地の賀茂神社もこれにならっている。ただし、神紋としての葵紋は、フタバアオイの名にふわさしく、2枚の葉が立った姿で描かれていて、徳川の三つ葉葵紋とはデザインが異なる。
     というわけで、徳川の葵紋が生じる以前、葵紋といえば、まずは賀茂神社の神紋を指すのが通念であった。

    (文=古銀 剛)

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