北信濃の古代「鬼の都」伝説!! 幻の遷都計画と鬼退治の真実/高橋御山人

文=高橋御山人

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    長野県の北西部に残る、鬼女にまつわる伝説。それは古代に計画された遷都伝説ともクロスする。 鬼女伝説とはどういったものか。遷都計画はなぜ頓挫したのか。信濃の山々を舞台に、時空を超えて展開される鬼女伝承の秘密を探る!!

    信濃に「小京都」を創った鬼女紅葉

     北信濃の山奥、鬼無里(きなさ)に「京」がある。四条、五条、清水、高尾といった地名があり、加茂川が流れ、吉田山がそびえる。ここに「京」を築いたのは、能や歌舞伎の演目「紅葉狩」で知られる、鬼女紅葉だとされる。
    「紅葉狩」の筋書きは、平安時代の武将・平維茂(たいらのこれもち)が、戸隠(とがくし)の山中で美女の開く酒宴に招かれ、酒を飲み眠ってしまい、夢のお告げで美女が鬼女と気づき、神より授かった剣で討つ、というものだ。

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    標高1904メートルの戸隠山。この山の向こうに鬼無里がある。

     しかし、北信濃には、もっと詳しい伝説がある。平安時代、失脚して奥州で暮らしていた古代の有力豪族・大伴(おおとも)氏の末裔が、子がなかったため、第六天魔王に祈って生まれたのが、紅葉だという。

    鬼女紅葉 絵巻2
    戸隠(とがくし)の大昌寺(だいしょうじ)にある掛け軸。鬼女紅葉と、彼女を討ち取る平維茂(たいらのこれもち)が描かれている(写真=大昌寺)。

     紅葉は才色兼備のうえ、妖術にも長けており、京に上って芸で身を立て、やがて源氏の祖・経基(つねもと)の妾となる。が、正室に呪詛(じゅそ)をかけたことが発覚し、信濃の山奥へ流刑となった。そこで経基の子を育てつつ、盗賊団の首領となるが、その悪事が朝廷の聞き及ぶところとなり、平維茂が派遣される。紅葉は旧鬼無里村と旧戸隠村(どちらも現在は長野市)の境にそびえる荒倉山(あらくらやま)の岩屋に立て籠もり、妖術を駆使した激しい戦いを繰り広げるが、ついには討ち取られた。鬼無里という地名も、紅葉が討ち取られて「鬼がいなくなった」からだとされる。

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    紅葉が立て籠もったと伝わる 荒倉山(あらくらやま)の岩屋。

     ところが、岩屋の麓にある戸隠の柵(しがらみ)や鬼無里では、里に文化をもたらした祖神とされている。特に鬼無里は紅葉が最も尊ばれる地で、呪術や占い、医療で里人を助け、京を偲んだ地名をつけ、加茂、春日などの神社を建てたという。紅葉が住んだ居館は「内裏(だいり)屋敷」と呼ばれている。

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    鬼女紅葉の屋敷跡といわれる内裏屋敷で行われる「鬼女紅葉太鼓」。右が鬼女紅葉で、左が平維茂。

    紅葉伝説と重なる天武天皇の遷都計画

     実は、この鬼無里の「都伝説」には、もうひとつ、まったく異なる伝承が重なって存在する。それが飛鳥時代の遷都伝説である。天武天皇が信濃遷都を計画し、皇族を派遣して調査させたことは、『日本書紀』にも載る史実である。その候補地こそ、鬼無里だったという伝説があるのだ。当時の鬼無里は、山間にあって平らな盆地であり、都にふさわしい土地だった。しかし、計画を知った鬼が、盆地に山を置いて邪魔をした。そこで白村江の戦いや蝦夷征伐で活躍した将軍・阿倍比羅夫(あべのひらふ)が派遣され、鬼を討った。
    「鬼がいなくなった」から鬼無里だというのは、同じである。

     遷都伝説の伝承地も、鬼無里には多数残されている。しかし奇妙なことに、その多くは紅葉伝説の伝承地と重複している。紅葉が京を偲んでつけた地名は、同時に遷都の際につけられたものであり、紅葉が建てた神社も、同時に遷都の際に建てられたという伝承がある。紅葉が住んだという内裏屋敷に至っては、まさに遷都時の大内裏候補地であり、その裏にある墳墓は、紅葉の侍女のものでありながら、遷都計画の調査に訪れて客死した皇族のものでもあると伝わる。鬼無里は時代の異なる二重の鬼伝説と都伝説が存在する里なのである。
     もとより伝説であるから、時代考証上の矛盾などが存在するのは当然としても、ふたつの伝説の物語上重要な場所が、名前はそのままにやたらと重複しているのは異様であり、根拠なき妄想だけで作られたものとは、とうてい思えない。内裏屋敷からは、紅葉と同時代の製鉄の痕跡まで発見されているのだ。
     ふたつの伝説の一方は鬼が都を破壊した話であり、一方は鬼が都を造った話なのだが、両者に共通していえるのは「鬼が関わった古の都がここにあった」ということだ。遷都伝説にしても、もともと鬼の土地であったことを暗示している。討たれて「鬼がいなくなった」ということは、その前には鬼がいたということだ。それなら、よそから都が移ってくるのを邪魔するのは当然である。
     鬼無里には、最初から「鬼の都」があったのではないか。そしてそれが、一定以上の期間続いたと。そうであるなら、時代を隔てたふたつの都伝説が存在することにも納得がいく。壬申(じんしん)の乱と関ヶ原の戦いは、同じ場所を戦場とし、どちらも東軍が勝っているが、それが伝説化したようなものだ。

    信濃は鬼=マイノリティの土地だった

     ところで、そもそも鬼とは何だろうか。その起源にはさまざまな説があるが、体制辺縁部、あるいは体制外の、異端やマイノリティというものがひとつある。朝廷勢力圏境界域に住んだ、古代東北の先住民・蝦夷は、古くから角が生えた姿で描かれることがある。稲作農耕定住民ではない、山岳民や、製鉄に関わる者も鬼とされた。岩木山麓・鬼神社の伝承や、桃太郎と戦った鬼の主要なモデルとされる吉備(きび)の温羅(うら)など。その温羅は、出雲や九州、百済(くだら)や新羅(しらぎ)からやってきた外来者といわれるが、それもまた鬼の属性だ。秋田のなまはげなどは、漢の武帝が連れてきたとされる。

     そうしたことを踏まえたうえで、信濃という土地を改めて考えてみると、古代には、初期朝廷と敵対的な土地であったことが窺える。『日本書紀』では、日本武尊(やまとたけるのみこと)が、行く手を遮る邪神の化身たる白鹿を退治する。『伊勢国風土記逸文(いせのくにふどきいつぶん)』では、伊勢津彦(いせつひこ)という出雲にルーツのある土着神が、神武東征軍の圧力に屈し、信濃へ逃れている。
     また、伊勢という地名は伊勢津彦に由来すると説明されている。『古事記』では、大国主神(おおくにぬしのかみ)の子の建御名方神(たけみなかたのかみ)が国譲りに最も激しく抵抗し、敗北して出雲から信濃へ逃れたとある。建御名方神は、諏訪(すわ)から出ないことを誓って許されており、信濃国一宮・諏訪大社の祭神となっている。これらの神話から、信濃は邪神の地であり、また出雲、伊勢という「日本の二大聖地」から神が逃れてきた地となっていることがわかる。

     その古代信濃の核心たる諏訪大社には、鹿や猪の首を供える、特殊な祭儀がある(神道では通常獣の肉は供えない)。中世には、日本で唯一の殺生・肉食免状を発行していた。非常に狩猟文化の色彩が濃いのである。これは、諏訪を含む八ヶ岳周辺が、国宝「縄文のビーナス」に見られるような、縄文文化が最も栄えた地のひとつであり、その影響を色濃く残したためであるといわれる。縄文時代は、農耕より狩猟採集が主体であった。

     また、諏訪には『古事記』とはまったく別の「国譲り」の神話があることにも注目したい。諏訪にはもともと洩矢神(もりやのかみ)という土着の神がおり、外来の建御名方神に敗北して、洩矢神は子々孫々、建御名方神を祀ることになったと伝わる。このとき、洩矢神は鉄の輪を持って戦ったという。洩矢神の子孫・守矢(もりや)氏が、精霊的存在のミシャグジ神を祀るときも、鉄鐸(てったく)が用いられた。信濃にかかる枕詞(まくらことば)は「みすずかる」だが、みすずとは葦の類いであり、その根元で鉄バクテリアが生成した、褐鉄鉱(かってっこう)の採取を念頭に置いたものだともいわれる。褐鉄鉱は低温でも加工できるため、出雲のような砂鉄による製鉄よりも古いという。信濃は鉄の国でもある。

     邪神がおり、朝廷と敵対的で、外来者がやってきて、農耕文化が希薄で、鉄を重視する。これではまるで鬼の国だ。そうなった理由は、全土を山に囲まれた険しい地形により、大和朝廷の勢力が及びにくかったためと考えられる。それでも、持統天皇の治世には諏訪大社が国家祭祀に与った記録があり、次第に古代日本の統一国家に組み込まれていった。なお、その記録は歴史上の諏訪大社の初見であり、天武天皇による信濃遷都調査のための皇族派遣の7年後である。
     一方で律令制初期には、信濃国の中に別途「諏方国(すわのくに)」が置かれており、統治上取り扱いに注意すべきエリアであったことが窺われる。

    奴奈川姫と山姥伝説

     ところで、信濃の北西、越後の糸魚川(いといがわ)には、建御名方神が生まれたという神話がある。
     出雲の大国主神が、越後の奴奈川姫(ぬなかわひめ)に求婚し、紆余曲折あって結ばれたことは『古事記』にも載るが、糸魚川には奴奈川姫ゆかりの神社や伝承地がさまざまに存在する。そして、大国主神と奴奈川姫の間の子が、建御名方神であり、その後南下して諏訪に入ったというのだ。

     糸魚川は日本最大のヒスイ産地であり、その宝玉の生産は縄文時代から行われ、奴奈川姫の「奴」とは「宝玉」を意味する古代語である。糸魚川は縄文以来の、ヒスイの宝玉生産によって一定の力を持った、シャーマン女王の治める国だったようだが、その国は出雲とは微妙な関係を経て合流し、最終的に諏訪へと継承されていったらしい。ここにも土着と出雲の合流、信濃への流入が認められる。

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    糸魚川(いといがわ)市大町の駅前海望公園にある奴奈川姫(ぬなかわひめ)の像。大国主神(おおくにぬしのかみ)との子供である建御名方神(たけみなかたのかみ)がしがみついている。

     この糸魚川と諏訪を結ぶルートの周辺には、紅葉のような鬼女や、山姥(やまんば)の伝承が多い。

     旧鬼無里村は、長野県の北西に位置し、新潟県と境を接している。
     旧鬼無里村南東端の虫倉山(むしくらやま)にも山姥の伝説がある。糸魚川市の上路(あげろ)は、能「山姥」の舞台で、元になった伝承がある。大町市の上篭(あげろう)にある大姥山(おおうばやま)には、山姥の住んだ洞穴があり、上路まで通じているという伝説がある。その山姥の別名を「紅葉鬼人」といい、安曇野(あずみの)の「八面大王(はちめんだいおう)」と結ばれて金太郎を産んだが、八面大王が討たれたのを悲しみ、鬼無里へ行って自害したという。
     なお、紅葉が住んだという鬼無里の内裏屋敷から製鉄の跡が発見されたのは先述の通りだが、大姥山では鉄の鎌を供える。
     八面大王が現れたという安曇野は、糸魚川と諏訪の中間にあって、古代に九州から移住してきた海洋民・安曇氏が開拓したと伝わる。安曇氏の雄・安曇比羅夫(あずみのひらふ)と、鬼無里遷都の邪魔をした鬼を討ったという阿倍比羅夫は、ともに白村江を戦った将軍であり、同一人物ともいわれる。安曇氏は朝廷に仕えた氏族で、八面大王は安曇氏が祖神を祀る穂高(ほたか)神社の神領を掠め、また八面大王を討ったのは征夷大将軍・坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)とされていて、八面大王は朝敵として伝えられている。

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    出雲から来た鬼が住んでいたという青木湖(長野県大町市)。

     これらの伝承を概観すると、縄文に遡る糸魚川の巫女王の文化の影響が、鬼女や山姥という形で、糸魚川と諏訪を結ぶあたりに見られる。そしてそのラインには鬼や出雲に関わる伝承があって、朝廷とは敵対的傾向にあるということが、浮かび上がってくる。さらにそれが、鬼無里に向かって収束しているような節もある。
     その他の例として、糸魚川と諏訪の間にある、長野県大町市の青木湖には、出雲から来たという鬼の伝承がある。大町市の北、白馬村の青鬼(あおに)集落には、鬼無里に現れ人々を苦しめた鬼を山の穴に封じたが、抜けだして戸隠に行き、善なる鬼に変わったという伝承もある。

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    大姥山(おおうばやま)の洞穴。この穴は糸魚川の上路(あげろ)に通じているともいわれている。

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    糸魚川市上路にある山姥(やまんば)神社。

    鬼として追われた「落人の里」

     それでは、鬼無里には、諏訪や出雲の影響は見られるのだろうか。実は、紅葉伝説のふたつの伝承地の核心である、鬼無里も戸隠の柵も、中心的鎮守社は諏訪系の神社で、御柱なども立つ。鬼無里神社は、かつて湖の底にあって、水が流れでたときに去った龍神を、諏訪明神として祀っている。諏訪明神は、蛇神、龍神としての属性が強く、諏訪の原初の精霊たるミシャグジ神も、蛇体といわれる。
     そのミシャグジ神だが、諏訪では第六天魔王と習合している場合がある。両者の信仰の分布域も、中部・関東と、概ね同じである。第六天魔王は、かの織田信長の異名である仏教説話の悪魔だが、このエリアでは、素朴な道祖神的存在として、その名が石碑に刻まれていたりする。そして序盤で述べたように、北信濃の伝説では、紅葉は第六天魔王の申し子とされているのだが、第六天魔王=ミシャグジ神が成り立つならば、紅葉はミシャグジ神の申し子ということにもなる。

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    第六天魔王を祀る岩波大六天社(諏訪市中州)。この先に御頭御社宮司社(おんとうみしゃぐじしゃ)がある。

     出雲との関係では、紅葉伝説と遷都伝説が交錯する加茂神社が注目される。現在の祭神とは異なるが、天武天皇の時代に、遷都のために加茂神社を建てたのであれば、その祭神は天武天皇の命で編纂された『古事記』に「迦毛大御神(かものおおみかみ)」と、最高位の尊称(「大御神」が用いられるのはほかに天照大御神[あまてらすおおみかみ]と伊邪那岐大御神[いざなぎのおおみかみ]のみ)で書かれる、阿遅鉏高日子根神(あじすきたかひこねのかみ)以外にはないだろう。
     大和・葛城(かつらぎ)の高鴨神社に鎮まる神で、大国主神の子であり、『出雲国風土記』や『出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこかむよごと)』といった出雲由来の古代文献にも登場する、極めて出雲と関係の深い神である。先述の内裏屋敷の製鉄跡も、鉄の文化圏である出雲や諏訪との関係を彷彿とさせる。平安時代となれば製鉄もそこまで珍しくはないだろうが、「内裏」で行うからには、宗教的な意味があるだろう。

     鬼無里は「鬼の都」であった。その鬼とは、古代日本において主流の座を追われ、主流に従うことを不服とし、逃亡した「落人」たちであったのではないか。主流の「神」に従わぬ「神」は「邪神」であり、「魔」であり、「鬼」である。そして、かつては主流であったという誇りが、「都」や「内裏」という意識を生みだしたのではないか。

    謎の遷都計画に隠された重要な意味

     出雲の神の一部は追われて諏訪へ逃げた。伊勢にもともといた出雲系の神も信濃へ逃げた。出雲と伊勢という「二大聖地」は、大和朝廷成立以前に遡る聖地であり、その流れの一部は、信濃へ遷(うつ)った。出雲と関係の深い越の巫女王の流れも、諏訪へと遷った。そのライン上にも、「出雲の鬼」や八面大王など、追われた形跡がある。

     諏訪にも圧迫はあった。『古事記』では建御名方神は諏訪で降伏しているし、地元の伝承では洩矢神が建御名方神に降伏している。信濃遷都計画や律令制初期の「諏方国」設置も、相当な圧迫になったろう。そうして圧迫を受けた、本流を自認する人々が、長い間に、重層的にたびたび鬼無里へと落ち延びてきたのではなかろうか。新しい時代には、紅葉の出自とされる大伴氏のような、かつての名族なども合流したであろう。

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    善なる神に変わった鬼を祀る青鬼(あおに)神社(長野県白馬村)。

     都を追われた物部守屋(もののべもりや)の子孫も、ミシャグジ神を祀る守矢氏に合流したという伝承もある。
    「外来者」もまた鬼の属性のひとつである。新たな外来者は、「本流」の住む山里に新たな文化をもたらす。そうして太古の「本流」意識は、「京」という意識へと更新されていく。
     その「京」意識を最初にもたらしたのは、遷都計画に間違いない。謎とされる遷都計画の理由は、「本流」を手中に収めるためだったのではないか。天武天皇は、壬申の乱で加護を受けた伊勢の神宮を格別に重視し、式年遷宮や斎宮の制度を整えたとされる。その天武天皇が、伊勢津彦の逃げた信濃に遷都を計画したというのは、神宮を宗教的に完成させる重要な意味があったのではないか。
     斎宮という古の巫女王の流れを汲む制度を固定化したことにも、重大な意図があるように思われる。奴奈川姫から紅葉に至るような、「本流」が受け継ぐ巫女王の流れを意識していたのではないか。紅葉の「紅」という色を負う名は、太陽の象徴かもしれない。

     ここで「戸隠」という地名の由来に触れたい。太陽の女神・天照大神が隠れた「天の岩戸」が落ちてきたからだという。岩戸が山になったという戸隠山の東側には、戸隠神社があるが、西側には、鬼無里がある。岩戸の向こうが、鬼無里なのだ。天の岩戸の落下神話は、「本流」が落ち延びてきたことを、象徴的に語っているのではないか。
     天武天皇は、「鬼」の妨害により、それを手中にはできなかった。紅葉を討ったのが平維茂なら、平家も手にしようとしたのかもしれないが、それをついに手にしたのは、源氏なのではないか。紅葉は源氏始祖の子を産んでいる。「紅葉鬼人」の子・金太郎は、源頼光(みなもとのよりみつ)に仕えた。鬼無里には源義仲(よしなか)の伝説もある。
     鬼無里の松巌寺(しょうがんじ)は紅葉と義仲の持仏を祀っている。
     その義仲や、平家や、蝦夷の末裔たる奥州藤原氏をも討って、東西日本の完全なる統一を成し遂げたのは、源頼朝(よりとも)であった。

    (ムー 2018年8月号掲載)

    高橋御山人

    在野の神話伝説研究家。日本の「邪神」考察と伝承地探訪サイト「邪神大神宮」大宮司。

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