信州「前方後方墳」は日本最古級だった! 古代東日本に栄えた「風の王国」の謎

文・写真=高橋御山人

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    2026年、あらたな調査によって明らかになった「信州に日本最古級の古墳があった」という新事実。それはヤマト王権以前に存在したもうひとつの日本、オルタナティブな古代日本列島の姿を浮かびあがらせるものだった!

    最新調査が塗りかえる古代の新事実

     2026年6月から7月にかけ、長野県松本市にある弘法山古墳という古墳について、市の発表や報道機関によるニュースが相次いだ。それは「弘法山古墳が日本最古級の古墳だと判明した」というものだ。(参考報道

     弘法山古墳は、邪馬台国の女王・卑弥呼の墓ともいわれる奈良県桜井市の箸墓古墳よりも古い、という。
     箸墓古墳の築造時期は3世紀中頃〜後半で、それまでの古墳を圧倒的に上回る規模、埴輪の出現などから、以後の古墳のモデルになったと考えられており、この古墳の築造をもって「古墳時代のはじまり」ともされる前方後円墳だが、弘法山古墳は3世紀前半〜中頃の築造と判明したのだ。

     もともと過去の調査でも3世紀末頃に築造された東日本最古級の古墳とされていたのだが、近年の再調査によりさらに遡ることが判明したのである。

    Google Mapより。
    弘法山古墳前方部より後方部を望む。四角形のみで形成される前方後方墳だが、特に後方部は正四角錐に近い形状で、ピラミッド型に見えるのが特徴。

     この弘法山古墳の大きな特徴として、箸墓古墳のような前方後円墳ではなく「前方後方墳」だということがある。古墳の代名詞ともいうべき前方後円墳は、よく「鍵穴」に例えられる丸と四角を組み合わせた形だが、前方後方墳は四角と四角を組み合わせた形となっている。
     両者の違いは、上に樹木がなく芝生などになっている整備された古墳を見てみると一目瞭然で、特に後方部は正四角錐に近い形であるため、ピラミッドのような印象を受ける。この古墳の形状の差異というものは、政治的・宗教的にも重要なことだった。

     特に、箸墓古墳や、仁徳天皇陵とされている世界最大級の墳墓・大仙陵古墳に代表される前方後円墳というのものは、ヤマト王権のシンボルであり、それが全国に広がっていったことこそがヤマト王権の日本統一を示しているとされている。そのため天皇陵はもちろんのこと、大和と友好関係を結んだり服属した各地の豪族達の墓としても、前方後円墳は造られた。

    大分市の亀塚古墳前方部より後円部を望む。前方後円墳の後円部は円錐に近い形状で、前方後方墳とは大きく印象が異なる。この違いは、政治的・宗教的に大きな意味があった。
    顕著なピラミッド型である島根県松江市の山代二子塚古墳。出雲では方墳や前方後方墳といった四角形の墳墓が非常によく好まれ、特に前方後方墳は他の地方で造られなくなった後も、出雲では築造され続けた。この古墳も6世紀後半の築造で、弘法山古墳の300年以上後である。

     前方後方墳のほうは大和にも存在するが、東海地方や関東地方、北陸地方の石川県など日本の東側に偏って分布している。ただし、西日本では例外的に出雲に多い。そして出雲については顕著な特徴がある。5世紀、ヤマト王権による統一が進んで行くと前方後方墳はほとんど造られなくなるが、出雲では6世紀になっても前方後方墳が造られ続けたのだ。

    神話に残されていた東海と信濃のつながり

     弘法山古墳には、もう一つの大きな特徴がある。それは、出土した土器がそれまでこの地で作られていたものではなく、全て東海地方の様式のものだということだ。これは弘法山古墳に葬られた人物が、東海地方の出身かその子孫ということを示している。ただし、すぐ近くの同時代の集落遺跡では東海系土器と以前から松本周辺地域で作られていた在地系土器が混在して出土しており、東海系の有力者と地元の人々が融和していた様子が窺える。

     実は前方後方墳という形式も、東海地方発祥である。愛知県では、日本最古級の前方後方墳や、弥生時代の方形周溝墓が前方後方墳へと発展して行く過程を示す前方後方型墳丘墓というものも発見されている。土器・古墳形状の両面から日本最古級の古墳と判明した弘法山古墳の主は、東海地方にルーツのある人物であったことが強く示されている。

    弘法山古墳の墳頂には、石室の位置が敷石で示されている。手前の案内の右下には、出土品の東海系土器の写真が載る。この古墳からは在地系の土器は出ず、全て東海系だ。
    愛知県清須市の廻間(はさま)遺跡は、弥生時代から古墳時代へ移る過渡期の遺跡で、前方後方墳の起源と見られる前方後方型墳丘墓が発見された。前方後方墳は、東海地方で誕生したのだ。

     そしてなんと、古代、東海から信州に有力者がやって来たことを伝える神話も存在する。

    『伊勢国風土記逸文』によると、神武天皇は熊野に上陸して紀伊半島を北上し大和に入ろうとしている時、配下の天日別命(あめのひわけのみこと)に別の国の平定を命じた。それを受けて天日別命は東に向かい、伊勢津彦(いせつひこ)という神に出会う。そこで天日別命は「お前の国を天皇に献上するか」と問うた。すると伊勢津彦は「私はこの国を求め、居着いて長い年月が経っている。どうしてそんな命令を聞くことが出来ようか」と拒否する。
     そこで天日別命は兵を動かし伊勢津彦を殺そうとした。伊勢津彦は降伏し、国を献上し退去すると誓う。天日別命が「どうやって退去したことを証明するのだ」と問うと、伊勢津彦は「今晩、八風(やかぜ)を起こして、海水を吹き上げ、波に乗って東へ行く。それが証だ」という。
     そうして天日別命が兵を整えて様子を窺っていると、真夜中に四方から大風が起こり、波を打ち上げ、太陽のように光り輝いて海も陸も照らした。そうして伊勢津彦は東国へ去り、信濃まで逃れたという。天日別命が国を平定し神武天皇に報告すると、神の名を取って、国の名を伊勢と名付けることになった、と。また「神風の伊勢」と古くから言うのもこの神話が由来であろう、と述べている。

     さらに『伊勢国風土記逸文』には、別の話として、伊勢津彦が伊賀(飛鳥時代、伊賀国は伊勢国から分立された)に石の砦を築き、阿倍志彦(あへしひこ)という神が奪いに来たが撃退した、という話が載っており、そこでは伊勢津彦は出雲の神の子孫と書かれている。先の神話では伊勢津彦が「この国を求め」と語っていることから、元々出雲から伊勢にやって来て、追われて信濃に去ったということになるだろう。

     なお、このような神話から伊勢津彦は風神としての神格を持っている。伊勢津彦は古事記や日本書紀には登場しないが、級津彦命(しなつひこのみこと)、級長戸辺命(しなとべのみこと)という風神が登場する。伊勢の神宮・内宮の風日祈宮(かざひのみのみや)や、外宮の風宮に祀られているが、この「シナ」とは信濃と関係があるとの説もある。
     長野県には更級(さらしな)や蓼科(たてしな)といった「シナ」の付く地名が多く、樹木のシナノキや、階段状の地形を指すなどの説があるが、いずれにしても信濃の由来は「シナ」とされる。一方信濃国一宮である諏訪大社には古くから風祝(かぜのほうり)という神職が置かれており、風に関する祭祀が行われていた。伊勢も信濃も、風の強い地と認識され、風を祀る国だったのだ。

    三重県菰野町の八風峠(はっぷうとうげ)登山口。伊勢津彦が「八風(やかぜ)」を起こして伊勢から東国へ去る時、この峠を通ったことが地名の由来という。滋賀県との境にあり、かつては交通の要衝であったが、陶器を持って通ると天候が荒れ、洪水になるという言い伝えもある。
    長野市の風間神社。現在の主祭神は級長津彦命だが、古くから伊勢津彦を祀るとも言われてきた。いずれにしても名前の通り風神を祀る神社である。風祝(かぜのほうり)が置かれた諏訪大社との関係も強く、中世には諏訪氏の一族が神職であった。

    特異な墳墓の分布が物語る「出雲−伊勢−信濃」ライン

     さて、伊勢国は現在の三重県東部であり、言うまでもなく東海地方の一部である。愛知県とは隣接しており、伊勢湾は三重県と愛知県に面している。伊勢湾岸・濃尾平野は、古代には一体の文化圏を形成しており、弥生時代から東海系土器を用いていた。
     前方後方墳は三重県にはあまりないが、集中している場所がある。それが松阪市北部、旧嬉野町(うれしのちょう)だ。三重県内の前方後方墳7基のうち5基までが存在するというので、異常なまでの集中具合だろう。

     そして嬉野の前方後方墳密集地に、出雲との深いつながりを示すものもある。四隅突出型墳丘墓というもので、弥生時代の出雲の墳墓として名高いものである。出雲地方である島根県東部の他、隣接する鳥取県や広島県、岡山県、さらには大国主命の求婚など神話でもつながりが深く、古代出雲の影響下にあった北陸地方にもある。
     そんな四隅突出型墳丘墓が三重県にあり、しかも古墳時代になってからのもので、極めて特異なのだが、それが出雲で後々まで好まれた前方後方墳の集中する地にある。

     前方後方墳は先述のように東海地方で発生したものであり、出雲発祥ではないが、出雲には四隅突出型墳丘墓が古墳時代の「方墳」になって行く過程を示す古墳がある。方墳は名前の通り四角形の古墳であり、これもピラミッドのような見た目をしている。方墳も前方後方墳とともに出雲では特に好まれ、密集地となっている。出雲では弥生時代の四隅突出型墳丘墓にはじまり、方墳や前方後方墳まで、ピラミッド状の四角い墓に強いこだわりがあった。

     このように見て行くと、出雲─東海(伊勢)─信濃に、古墳や土器、神話によって深い結び付きがあったことが浮かんで来る。出雲と信濃のつながりとしては、伊勢津彦の他にも(というよりこちらの方が有名だが)、大国主命の子で諏訪大社の祭神である建御名方命(たけみなかたのみこと)が国譲りの際に出雲から追われて、諏訪に逃げて来たという神話が古事記に載っている。建御名方命は北陸経由で信濃に入ったという伝承も残っている。なお、本居宣長をはじめ、伊勢津彦と建御名方命の同一説も古くから唱えられて来た。

    横穴式石室が露出する長野市の八雲台古墳。中世、麓に遷座するまでは、ここに伊豆毛(いずも)神社があり、やはり古くから伊勢津彦を祀るとも言われて来た。何にせよ、信濃の八雲という地の古墳に、「出雲」を万葉仮名で表記する神社があったことは、古墳時代から信濃と出雲に深いつながりがあったことを窺わせる。

     一方出雲と東海を見てみると、出雲で八岐大蛇の尾から出て来たという天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)があり、これは愛知県名古屋市の熱田神宮に祀られている。由緒を紐解けば、高天原の天照大神に献上された後、天孫降臨の際に三種の神器の一つとして授けられ大和の皇居にあったものが、伊勢の神宮創建時に移され、さらに東征に向かう日本武尊に授けられた。
     そして東海地方の駿河(現在の静岡県)で賊を退けた際に「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」の名を得て、東征とともに東国を巡り、信濃を経て熱田に留まっている。ここから日本武尊は草薙剣を持たぬまま東海と近畿の境に聳える伊吹山の神の討伐に向かい、それが命取りになるのだが、この伊吹山の神の正体は八岐大蛇だという古い伝承もある。

     このような出雲─東海─信濃の結び付きは、大和王権成立と同じ頃かそれよりも古い時代からのものであることが窺える。それは邪馬台国の時代でもあり、前方後円墳が西日本に拠点を置く邪馬台国のシンボルであるのに対して、前方後方墳は邪馬台国と争い東日本に拠点を置いた狗奴国(くなこく)のシンボルとする説もある。

    三重県松阪市北部の旧嬉野町は、前方後方墳の集中する地域で、そこには、四隅突出墳の八幡古墳もある。弥生時代の出雲や、その影響の強い地域で造られた四隅突出型墳丘墓と酷似しており、極めて特異だ。なお、案内には嬉野町に前方後方墳が四基とあるが、後にもう一基発見されている。
    島根県出雲市の西谷墳墓群は、四隅突出型墳丘墓が多数存在することで知られる。名前の通り四隅が飛び出す特異な形状だが、正四角錐に近いピラミッド型の墳墓でもある。これが古墳時代の方墳に変化して行く過程を示すものもあり、出雲で好まれた四角い墳墓のルーツとなっている。

    弘法山古墳が明かした「もうひとつの日本」の姿

     卑弥呼の墓ともされる大和の箸墓古墳よりも古いことが明らかになった信州松本の弘法山古墳は、ヤマト王権による統一が成る前の「もう一つの日本」を偲ばせる。それは、どのような国であったのか。
     最新の考古学の研究によると、古墳はなんと東日本で発生して西日本に伝わったのだという。だが、それは信州にある弘法山古墳が日本最古級の古墳ということと合致する。その理由は、弥生時代、九州から入って来た稲作が広がった結果、西日本では水田が密集してしまったが、濃尾平野で水田開発技術を高度化させた人々は、従来人が住んでいなかった関東の低湿地などに大々的に移住して開発を進めたことにあるらしい。

     つまりそこは「フロンティア」であり、流動性と自由度の高い社会であった。遠隔地交易やその拠点集落の発達も拍車をかけた。そうした「自由競争社会」の中で、連携と競争が同時に生まれ、連携は同じ墓を並べることとして、競争はその規模を競い合うこととして顕在化したという。そうして古墳が生まれた。まるで高度経済成長でビル群が建ったかのような話であり、どれもこれも、古墳時代に対する既成概念を覆すようなものばかりだ。

     だが、思い出して欲しい。弘法山古墳のすぐ近くの同時代の集落遺跡では、東海系土器と以前から松本周辺地域で作られていた在地系土器が混在して出土しており、東海系の有力者と地元の人々が融和していたことを示している、ということを。

     これこそまさに、弥生時代末期から古墳時代初頭にかけての、東日本の「フロンティア」における「自由競争社会」の象徴ではないか。

    出雲と関係の深い前方後方墳群や四隅突出墳がある嬉野の北側を、「雲出川(くもずがわ)」が流れている。名の由来は出雲とは関係ないようだが、果たして本当にそうだろうか。

     大王・天皇を頂点に頂き、後に日本を統一した西のヤマトとは異なる、伊勢津彦が象徴する風のような東の自由競争フロンティア。そんな姿が浮かんで来る。そのような社会が日本列島の覇権を握るには余りにも時代が早かったのだろうが、ヤマト王権がそれを併呑して日本を統一したことは、日本という国の形成に大きな影響を与えただろう。それは何らかの形で日本文化に溶け込み、我々へとつながっているはずだ。例えばそれは、殺伐としながらもダイナミズムに溢れた、東日本から始まった中世武家社会などとして顕在化したのかもしれない。

    島根県奥出雲町の船通山(せんつうざん)山頂に立つ「天叢雲剣出顕之地」碑。須佐之男命が降臨し、八岐大蛇を退治した「鳥上峰(とりかみのたけ)」はこの山だと言われ、その尾から三種の神器の一つ・天叢雲剣が出て来たことを記念するもの。その後、天叢雲剣は今に至るまで、名古屋の熱田神宮に祀られており、この石碑には揮毫した熱田神宮宮司の名が刻まれている。出雲と東海には、神話上の重大な結び付きがあるのだ。

    高橋御山人

    在野の神話伝説研究家。日本の「邪神」考察と伝承地探訪サイト「邪神大神宮」大宮司。

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