さきたま古墳群に隠された北斗七星と「異国の大神様」の謎/西風隆介

文= 西風隆介

関連キーワード:
地域:

    古代の神々が結んだ契約のモニュメント。これらの「証拠」をたどることで、知られざる古代の真実が明らかにされる!

    「異国の大神様」と日本の神が結んだ契約

     ——西暦200年代の初頭、伊豆諸島の小島で神と神とが契約をかわしたのだ。神津(こうづ)島という、いかにも神が寄り集いそうな島でだ。片方は倭(やまと)を代表する大神様だが、もう片方は、なんと異国の大神様なのである。
     契約をした証拠が複数の神殿(神社)に明瞭に残っていて、神と神の契約だから人と人のそれとは違って未来永劫に破られることはない。彼らの一族が伊豆諸島に住むことを快諾し、庇護することを約束したのだ。
     彼らは倭人とは外見が異なり、倭への入植には、混血やその他、相応の手助けを必要としたからだ。
     かわりに異国の大神様は、あたかも《魔法》のような特別な力を授けてくれたのである。そして数々の、まさに《奇跡》としかいえないような物語が編まれていくのであった。卑弥呼が没したとされるのは247年だが、それよりも以前の古代の出来事で、にわかに信じられないような話だろうが、これは全編《実話》である——。

     この文章は構想15年執筆3年を要した拙著『神神の契約・古墳と北斗七星に秘められた真実』のプロローグ部分だが、「ムー」編集部の特別のご厚意により、他に先んじて、いわゆるプレミアム公開とあいなったわけだ。まずは、その《奇跡》のいったんをご紹介しよう。

    『神神の契約古墳と北斗七星に秘められた真実』

    さきたま古墳群から出土した金錯銘鉄剣の文字、関東に栄えた古代国家、そして前方後円墳と日本最古の神社の謎——これらをすべて解明し、「魏志倭人伝」に記された邪馬台国の実像にまで迫る古代史ノンフィクション。西風隆介著/ビジネス社より発売中(本体2000円+税)。(Amazon

     さきたま古墳群と大國魂(おおくにたま)神社は、東経139.4790度の、誤差数メートルという信じがたい精度でもって南北ラインで貫かれているのだ。
     ただし、両者は50キロ以上も離れており、この《奇跡》のような測量の精度にこそ、異国の大神様の《魔法》が関与していたのに他ならないのである。これは無名の古墳群と小っぽけな神社についての話ではない。
     大國魂神社は東京都府中市にあって、武蔵国(現在の東京都・埼玉県・神奈川県の横浜市と川崎市)の「総社」で、東京ドームに匹敵するほどの神域をほこり、創建は第12代景行天皇41年と、関東でも屈指の古社なのである。
     一方、さきたま古墳群は「古代東アジア古墳文化の終着点」として世界遺産登録を目指しているほどの陣容で、とりわけ獲加多支鹵(わかたける)大王(すなわち雄略天皇)の名前を含む115文字が金象嵌(きんぞうがん)で彫られてあった、世にいうところの「金錯銘鉄剣」は、ここ、さきたま古墳群から出土したものなのだ。

     これは日本の古代史を語るうえではかかせない第一級の国宝だが、それと同時に現存する日本最古の文献でもあるのだ。
     さきたま古墳群は、埼玉県行田市にあって、関東平野のほぼ中央だが、古代においては倭の最果ての地・東国で、いわゆるド田舎だったのだ。そんな場所から希代の遺物「金錯銘鉄剣」は出土しており、それひとつとっても奇妙でいかにも秘密めいているではないか!

    埼玉県行田市にあるさきたま古墳群。東京都府中市の大國魂(おおくにたま)神社とは、正確な南北のラインで結ばれている。
    さきたま古墳群のなかでも、ひときわ異彩を放つ丸墓山古墳。実はこの古墳は、天空の北極星になぞらえて造られたものだったのだ(写真=著者提供)。

    謎の巨大円墳・丸墓山は北極星の象徴だった?

     さきたま古墳群には際だった謎がある。それは、「丸墓山古墳」に他ならない。
     古墳群は大型古墳9基からなり、他は前方後円墳だが、この丸墓山古墳だけが《円墳》だからである。
     しかも直径105メートル(周濠を含めると約180メートル)と巨大で、高さも約19メートルと古墳群の中では頭抜けて高く、これが日本で最大の円墳だというから事は尋常ではない。
     学術的には、円墳は前方後円墳より格下で、陪臣(ばいしん)の墓とみなされ、小規模なのが通例だ。が、その種の一般常識は丸墓山古墳にはまったく通用しないのだ。しかも、ここにだけ墳丘表面には葺石(ふきいし)が貼られてあって、巨大で丸くて白っぽいのである。他の前方後円墳8基は、丸墓山古墳の東南側の下部にずらりと密に並んでいるのだ。

     以上の説明文を読まれて「ムー」の賢明なる読者諸氏なら、ハタとひらめかれたに違いない。もしや、丸墓山古墳は北極星で、他の前方後円墳は北斗七星ではあるまいか——と。
     事実その通りだったのである。

    さきたま古墳群の古墳の配置(上)と、それぞれの古墳を北斗七星にあてはめた図(中)、北斗七星(下)。見事に一致している(写真=Google Inc./図版はいずれもビジネス社提供)。

    さきたま古墳に見るミザールとアルコル

     前方後円墳は8基あるのに、なぜ北斗七星といえるのか?
     実は、北斗七星の尻尾から数えてふたつめの星は「二重星」なのである。主星のミザールは2等星、伴星のアルコルは4等星だが、この小さなアルコルは、裸眼でもぎりぎり見える星で、古代ローマやギリシアでは徴兵のさいの視力検査に用いられたりした。
     逆に、その見えにくさゆえに神秘主義者たちからは重用され、漫画『北斗の拳』では「死兆星」と称して、この星が見えると死期が迫っていることの証明として描かれた。
     また中国ではアルコルを輔星(ほせい)と呼んで、その精が地上に降臨したのが泰山府君(たいざんふくん)という冥界の大神様だが、それすなわち安倍晴明などで知られる陰陽道の主神となるのだ。

     一方さきたま古墳群では、大小2基の古墳が異様に近接して造られてあって、これも古墳群の謎のひとつだったが、近年の発掘調査で大発見があったのだ。鉄砲山古墳の外側に「濠(ほり)」があることが確認され、ここは従来の調査で二重周濠だったから三重周濠となり、全国でも数例しかないほどの珍しい造りとなるのだ。
     のみならず、この鉄砲山古墳の三重目の濠が、奥の山古墳の周濠と接続してしまい、つまり水域を同じくするひとつの周濠が大小2基の古墳をぐるりと取り囲むといった、古今東西ここにしか絶対にないような希有な造りとなってしまうのだ。

     さきたま古墳群の配置図と北斗七星の星の並びを見比べれば、一目瞭然だ。近接した大小2基の古墳は、二重星をそのまま地上に模しており、その周濠の特異性からいって、これは疑う余地はないだろう。つまり8基の前方後円墳は北斗七星で、巨大な丸墓山古墳は北極星を象徴していたのだ。
     もちろん、これは筆者自身の発見で、十数年前に小説『神の系譜「竜の源」新羅編』の中で概要を述べている。

    古すぎて忘れられた大国魂神社の「決め事」

     大國魂神社の紙垂(しで)では、世にも珍しい折り方をしていることで知られている。いわば「鏡折り」とでも称すべきだろうが、あたかも鏡に映したかのように左右が逆転しているのだ。

    大國魂神社の紙垂(しで)。「鏡折り」とでも称すべきか、あたかも鏡に映したかのように左右が逆転して折られている(写真=著者提供)。

     また、本殿に置かれている狛犬の阿・吽も左右が逆だ。それに大銀杏の御神木も本殿裏の一等さびれた場所に聳えているのだ。
     そもそも大國魂神社の拝殿・本殿は、きわめて珍しいことに真北を向いていて、その正確な延長線上に、さきたま古墳群中最大の前方後円墳・二子山古墳が鎮座し(これは武蔵国でも最大)、各々の中心を東経139・4790度線が貫いているのである。
     古代は、社殿は南向きであったことが示唆され、「鏡折り」の紙垂や狛犬は、いうならばその残像で、現在の北向きの社殿は、なかば無理強いされた結果だと推測できるのである。

     ところで、大國魂神社の祭神数は9柱なのだ。主祭神の大國魂大神+8柱である。これは、さきたま古墳群の丸墓山古墳+8基の前方後円墳と、ものの見事に対応しているではないか‼
     けれども、神輿は8基しかないのだ。ここの祭神構成は年代によってころころ入れ替わるのだが、祭神数は9柱で神輿は8基、これだけは大國魂神社の絶対の《決め事》らしく、記録に残る限りはずーっと同じなのである。
     つまり神輿1基に2柱が同乗していた格好になるが、これは古来、神秘とされてきて『江戸名所図絵』や『武蔵総社略記』などでは諸説紛々である。だがいうまでなく、さきたま古墳群が模している「二重星」と対応させられていたからなのだ。
     けれど、そもそもの原因が古すぎて(遠方すぎて)今となってはだれひとり知る由はなく、神社の摩訶不思議な《決め事》だけが、後世まで残ってしまっていたのである。

    北斗信仰の証拠となる七曜文が出土していた

     大國魂神社の近く、西へ2キロほど行った場所に特筆すべき遺跡がある。これまで説明してきたことを一瞬にして証明できるような驚愕の遺物が、そこから出土していたのだ。
     武蔵府熊野神社古墳と呼ばれているのがそれで、刀の鞘に装着する鞘尻金具が出土したが、そこに「七曜文」の銀象嵌が施されてあったのだ。

    武蔵府熊野神社古墳から出土した、刀の鞘に装着する鞘尻金具に施されていた「七曜文」の銀象嵌(ぎんぞうがん)の模写図(図版=ビジネス社提供)。
    武蔵府中熊野神社古墳。この地域の首長であり、国府地の選定に対し、大きな影響力のあった人物の墓だと考えられている(写真=著者提供)。

     これは単純に中央に●をひとつ、周囲に6つの●を配した文様で、易学では「曜」とは「星」のことを意味する。すなわち七星文、つまり北斗七星信仰および北極星信仰をあらわす文様なのだ。
     日本最古の銭貨である富本銭にも用いられたが、年代的には富本銭より古く、かつ日本全国で他に類例を見ないきわめて珍しい出土品だそうである。
     また、武蔵府中熊野神社古墳は、この地域の首長墓で、国府地の選定に強い影響力があった人物の墓だと考えられている。
     ちなみに、武蔵の国府は大國魂神社の境内に置かれたのだ(古くからあった大國魂神社を包含するように国府地が選定され、大國魂神社を総社として流用したのである)。

     このことから、一連の流れが証明されるだろう。
     さきたま古墳群と武蔵府中熊野神社古墳は同じ一族が関与し、出土した七曜文の鞘尻金具は、さきたま古墳群が北斗信仰をベースに造られた確固たる証拠で、大國魂神社を支配下に置いて、摩訶不思議な神社の《決め事》を先々まで強要しつづけたのである。
     年代を精査してみると、さきたま古墳群の築造は480〜600年ごろ、丸墓山古墳のそれは500年ごろ、武蔵府中熊野神社古墳は650年ごろで、比較的《新しい》ことがわかるだろう(神神の契約の年代と比較してだが)。
     また、彼らは突如ひらめいて、北極星と北斗七星を地上に模して古墳群を造ったのだろうか?
     いや、それは考えにくい。何かしらの歴史の積み重ねがあったはずで、調べてみると、さらに古代から同種のものを連綿と造っていたことが判明するのだ。
     さきたま古墳群は、彼らにとってのいわば最後の作品で、だから規模が大きくて完成度が高かったのである。
     では特別に、「ムー」の読者諸氏のために《古い》それをいくつか紹介しよう。

    四国に隠されていた日本最古の前方後円墳

     箸墓の原型が、どうやら四国の阿波(徳島県)にありそうだということで、日本の考古学界は昨今、騒然となっているのである。
    「昼は人が造り夜は神が造った」
     ということで知られる箸墓は、奈良県の纏向遺跡群にある日本最古の前方後円墳で、第7代孝霊天皇の皇女・倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の墓だが、築造は250年ごろだから、247年に没した卑弥呼の墓ではないかというのが現在のほぼ通説だ。
     阿波のそれは「萩原二号墓」と呼ばれ、約25メートルと小さいが、形は前方後円墳そのものなのだ。
     最大の関心事は年代だが、考古学者たちは「3世紀前葉」と、曖昧語を駆使して責任逃れにやっきで、地元では「2世紀末」と強気だ。いずれにせよ『神神の契約』の年代とほぼ同じなのである。

    奈良県の纏向遺跡群にある日本最古の前方後円墳、箸墓。247年に没した卑弥呼の墓ではないかというのが現在の通説だ。

     実は、この「萩原二号墓」から真南へまっすぐ線を下ろしていくと、同じ年代の古代遺跡に当たるのだ。
     それは「若杉山遺跡」と呼ばれ、2019年「丹に(古代の赤色顔料)の採掘所で日本最古の坑道跡を発見」と各種ニュース報道で紹介された旬なもので、従来は山口県の秋吉台に隣接する長登銅山(奈良の大仏用の銅の産地)が国内最古の坑道跡だったのを、一気に500年以上も遡った、いわばオーパーツのような遺跡なのである。
     両者は約29キロ離れているが、東経134.5219というきわめて正確な南北線で貫かれていたのだ。
     なお、若杉山遺跡は四国山脈の山中にあるので、現在の測量技術でも難しく、それこそ異国の大神様の《魔法》だったのだ。

    田園調布に残された東国最古の前方後円墳

     仮に、地方に前方後円墳が出現すれば、それすなわち倭の傘下に入ったことを意味する。東国最古のそれは、高級住宅街で知られる東京都大田区の田園調布にあり、多摩川沿いの崖に立ち並んでいる荏原台古墳群の「宝莱山古墳」がそれで、約98メートルと大きく、西暦300年ごろの築造だ。

     そして同様に、この宝莱山古墳から真南へまっすぐ線を下ろしていくと、約11キロ離れているが、とある古い神社にピタリと当たるのだ。
     それは横浜市鶴見区岸谷にある「杉山神社」だ。阿波の古代遺跡は「若杉山」である。この種の偶然は起こりえない‼ ともに古い地名・古い名称で、同じ一族が関与していたのだ。
     東国では多摩川沿いが最も古くから開拓されており、それは武蔵野台地という堅固な台地があったからで、実は大國魂神社も、この多摩川沿いにあるのだ。

    東京都大田区の田園調布、多摩川沿いの崖にある荏原台古墳群の宝莱山(ほうらいさん)古墳。関東最古の前方後円墳と考えられる。西暦300年ごろの築造だ(写真=著者提供)。

    日本各地に見られる「異国の神」の古代国家

     七曜文が出土した武蔵府中熊野神社古墳は、最古の「上円下方墳」で、これは従来にない新しい墓型なのだ。しかも1:√2:2という高度な数学的比率で造られており、インカのマチュ・ピチュかと見まごうほど見事な石組みなのである。
     前方後円墳という墓型を新たに創出したのも同じ一族で、日本で最大の円墳を造り、三重周濠で大小2基の古墳を囲んで、他より500年も先行するオーパーツな坑道を造ったりもしていたのだ。

     ——彼らの素顔が見えてきたではないか‼

     さしずめエーリッヒ・フォン・デニケンなら、迷うことなく《異星人》説を唱えたに違いない。
     四国の「阿波」と「讃岐(さぬき)」、房総半島の「安房(あわ)」、大國魂神社や宝莱山古墳の「南武蔵」、さきたま古墳群の「北武蔵」——古代、これらは知られざる同一国だったのだ。さらに神神の契約による異国の大神様の《魔法》も加味され、東アジア世界では最も進んだ文明を誇った人たちなのである。
     ところで、「ムー」のマスコットはご存じ「モアイ像」だ。
     奇しくも、異国の大神様はこれと関係するのだ。拙著『神神の契約』はムーの読者諸氏を決して裏切らない。1月吉日発売なので、ぜひ、お読みいただきたい。

    宝莱山古墳から真南へ線を下ろしたところにある、横浜市鶴見区岸谷の杉山神社。阿波の古代遺跡と同じ一族が関与していたと思われる(写真=著者提供)。

    (月刊ムー2021年2月号掲載記事)

    関連記事

    おすすめ記事