新島「海難法師」から探る伊豆諸島のタブーとは? 恐るべき来訪神を鎮める儀式の謎/松雪治彦
伊豆諸島のタブー風習「海難法師」は、悪霊ではなく神を迎える儀式だったーー。新島取材を軸に、タブーの背景を考察する。
記事を読む
今年1月の連載で展開された「海」の「難」の怪、後半回です。〝海難〟をキーワードに連想される奇譚をお届け! ホラー小説家にして屈指の妖怪研究家・黒史郎が、記録には残されながらも人々から“忘れ去られた妖怪”を発掘する、それが「妖怪補遺々々」だ!
2025年の予測データによると、日本の夏は今年も全国的に猛暑となるそうです。危険な夏の暑さは年々長期化の傾向にあるようで、それに伴いレジャーや自然災害による水難事故の増加が懸念されます。
2025年初回の妖怪補遺々々は「海難」に照準を合わせ、その二字を名に冠する伊豆諸島の【海難法師】をテーマにいたしました。現代まで脈々と受け継がれて息づく風習は大変興味深いものでした。
今回は「海難・水難」のキーワードや要素を入れつつ、連想ゲームのように様々な話へと繋いでいきたいと思います。
さて、5月の最大の行事といえば5月5日の「こどもの日」ですが、この日は「わかめの日」でもあることはご存じでしょうか。わかめの収穫がひと段落して市場に並ぶ時期だということと、栄養満点のわかめを子どもたちにたくさん食べて欲しいという想いから、日本わかめ協会が制定したそうです。
そんな、わかめにまつわる神事があります。
福岡県北九州市門司区で現在も行われる「和布刈(メカリ)神事」です。
江戸中期の書『諸国里人談』によりますと、毎年12月の晦日の子の刻と丑の刻のあいだ、神職の方が宮殿の宝剣を胸に当て、石段を下って海中に入ります。
この時、海が左右にサッと開くので、わかめを一鎌だけ刈るのですが、誤って二鎌刈れば、その人は海で溺れ死んでしまうといいます。
また、この神事を見ると、目が潰れるといわれていたそうです(現在は解禁されています)。
神奈川県三浦市三崎町城ヶ島。ここには三浦半島の総鎮守として創建された「海南神社」があります。ユネスコ文化無形遺産に指定されているチャッキラコという民俗芸能でも知られる神社で、祭神は藤原資盈(ふじわらのすけみつ)と、その妻の盈渡姫(みつわたりひめ)。このふたりが祭神となった経緯ですが、郷土史の伝えるところによりますと次のような出来事があったそうです。
——九州の大宰府にいた資盈は、文徳天皇の皇子である惟喬(これたか)・惟仁(これひと)両親王の皇位継承争いの際、左大臣・源信と対立していた大納言の伴善男(とものよしお)から同志になるように誘われます。しかし、善男が悪人であると知っていた彼は、これをバッサリ断ってしまいました。
そのことを恨んだ善男は文徳天皇に「資盈は謀反の意あり」とウソの告げ口をし、それにより資盈は追討の兵をさし向けられてしまいます。「善」男なのになんて悪いヤツだ! と彼が憤ったかどうかはさておき。
貞観6年11月1日。資盈は妻の盈渡姫とわが子、そして家来たちとともに5隻の舟で海へ出ました。しかし、西風に荒れる海によって彼らの船は散り散りとなり、資盈の乗る船のみが遭難寸前で三浦の三崎に漂着したのです。
磯の付近に仮殿を建てた資盈は、三崎を荒らす海賊どもを打ち倒し、土地の人たちを教化して三崎の漁業の基を開いたとされています。そして資盈の死後、この土地の豪族が彼を【海南明神】として祀ったのでした(資料によって伝承の各部に違いがあります)。
海南神社という社名の由来を調べてみました。
『三崎郷土史考』(1954)によると——『みさき』(1911)という地誌に「社が南向きにあることから海南と称した」という記述があるようです。
しかしながら、『三崎郷土史考』の著者である内海延吉はこれを「安易」と厳しく評しています。というのも、社が南を向いているのは神社では最も典型的な造りであるからです。この神社が「海南」と名づけられた確かな由来は見つかっていないようで、「このような自己断定は郷土研究者として厳に慎まねばならない」と内海は大変怒っています。
また『みさき』には俗説として、「昔舸船にて流寄る神あり 然る処隣村原の者 海藻刈に出て見付是を取上け奉りて海難明神と祟む」と書かれているそうです。原という村の人が海へ海藻を刈りに行くとそこに流れ着いた船があり、中から神様を見つけたので祀った、という話です。
内海を怒らせた『みさき』を確認してみますと、たしかに「社は南に向き居るを以て海南と称す」と書かれていました。ただ俗説のほうは「信拠するに足らず」と疑念も表しています。
この『みさき』に書かれた情報の原拠ですが、実は内海も参加していた郷土研究グループの明治42年の聞き書きノートであるとのこと。そこには次のように記されていたそうです。
『昔ウツロ舟にて流寄神有、村里ノモノ 海藻刈ニ出テ是ヲ取上奉テ海難明神ト崇ム 此ノ社ハ海ノ南ヘ向フ故ニ其后ニ海南明神ト改ムト云』
「ウツロ舟」とは大木をくり抜いて作った「丸木舟」のこと。その中に何らかの御神体があり、海藻を刈っていた村民がこれを見つけて明神として崇めたというのです。
お気づきでしょうか。
先のノートの記録の中で、一部表記が「海南」ではなく「海難」になっています。
「海難明神」は誤字ではありません。そしてどうやら、この聞き書きノートのメモでは、「海難」に「メカリ」と仮名をつけ、「メカリ明神」と読ませていたようなのです。
内海は「海藻刈明神か」と書いています。「海藻刈」は先の神事の「和布刈(メカリ)」と同じで、わかめなどの海藻を刈ることです。
海難によって漂着した船と御神体を、わかめ刈りの村人が発見したことから命名したと思われますが、この表記がどの文献に準拠するものなのかは調査中です。
私は「メカリ」という語から、すぐに連想したものがあります。
【メカリバアサン】です。
事八日(コトヨウカ)と呼ばれる日に来るという妖怪で、その姿は「ひとつ目の老婆」といわれています。家に来ると、箕(みの)を借りていったり、障子の穴から覗き込んで子どもをさらったり、子どもの目を奪い取っていったりします。【ミカリバアサン】【ミケイバアサン】【ミカワリバアサン】など複数の呼称を持ち、関東各地に伝えられていました。
この妖怪がやって来るとされる日は、12月8日と2月8日の事八日。その他、12月1日、12月25日、10月の三隣亡の日、2月の節分に来ると伝える地域もあります。
この妖怪の来る夜は外に出ず、家に閉じこもって針仕事もしないで静かに夜を過ごしました。また妖怪の好物である団子をこしらえ、軒に立てた竹に笊やカゴを掛けておいたといいます。籠や笊は「目」が多いので、目が1つしかない妖怪は恐れて家の中に入ってこないという魔除け・厄除けの意味を持ちます。
では、この妖怪の名にある「メカリ」「ミカリ」「ミカワリ」の意味はなんでしょうか?
柳田國男は、多摩丘陵で事八日に来るとされる【ミカエリバアサン】に言及し、ミカエリはミカワリ(身代わり)であって、これがミカリやミカエリに変化したと言っています。
ミカワリは「物忌み」——つまり一定期間、飲食や言動を慎んで不浄を避けることであり、自身の肉体を「神を祭るのに適したもの」へと変える「身変わり」なのではないかというのです。
牧野眞一「ミカリ伝承について」によると、千葉県袖ケ浦市のいくつかの地域では、12月26日を【オミカリサマ】、27日を【オミカリサマの日】といって大変恐れていたそうです。同市根形地区の三ツ作という集落では、12月26日の晩は、外をオミカリサマが通るので家からは出ず、明かりもつけないで夜なべ仕事もしなかったそうです。
どうもメカリバアサンの名前のルーツは、このあたりにありそうです。先に「ミカワリ」「ミカリ」という語があり、後から「ミカリ→箕借り」「メカリ→目借り」といった変換が起きて、妖怪的な性質がつけられたのではないでしょうか。
「メカリ」から連想しただけで、わかめとの関係はまったくない【メカリバアサン】ですが、実は「水難・海難」の属性があります。
神奈川県横浜市港北区の【ミカリバアサン】は、村々を廻って箱根まで飛んでいった際、山にぶつかって海に落ちてしまい、箱根より西へは行けなくなったのだそうです。
横浜市都筑区には、佐江戸という場所へ渡ろうとした【ミカリバアサン】が落合橋から恩田川に落ちてしまい、以来、佐江戸方面には行かなくなったという話もあります。
彼女は他の地域でも橋から川に落ちているので、ただドジっ子なだけかもしれません。
ですが、東京都大田区の【ミカリバアサン】は、とても可哀そうな方でした。
彼女は3人の子と一緒に住んでいました。ある晩、箕を借りに行くため家を留守にしている間、3人の子を火事で喪ってしまいます。
悲しみに暮れ、多摩川を渡って北方面へと向かっていた彼女は、誤って六郷橋から転落し、川で溺れ死んでしまったのです。だから川向こうに、彼女の名は伝承されていないのです。
また、これはバアサンではありませんが——先の三ツ作の【オミカリサマ】の夜は、家の外に出てはならないと言われています。出るとミカリサマの通行の邪魔となって、堰や川の中に放り込まれてしまうのだそうです。
物忌みの夜に、笊やカゴを外に掛けておくことは、「ひとつ目の妖怪」を避けるためだけのものではありませんでした。
【海難法師】の回でも書きましたが、伊豆諸島の泉津村、利島、神津島では、正月24日は日忌で、夜になると【海難坊(カイナンボウ)】または【カンナンボウシ】というものが来るので、門戸を閉じて柊やトベラの枝を入り口に挿し、その上にザルをかぶせたといいます。
神奈川県川崎市川崎区殿町では、旧正月の1月23日は軒に目カゴを出し、できるだけ外へ出ないようにしたそうです。同日の四時頃、海は干潮となり、必ず北風が吹いたからです。この風は【オサヨナライ】と呼ばれ、恐れられていました。
昔、オサヨという女性が漁に出て、三浦市三崎の沖で「ナライの風」に流されて死んで以来、この風を忌むようになったのです。
これは漁撈習俗調査報告書にあった、大師河原という土地の調査記録に見られる俗信です。ナライとは北風のことで、オサヨナライとは「オサヨの北風」という意味になります。
海難死者の名を冠するとは、なんて不吉な風なのでしょうか。
なぜ、三浦の海難死者の名が、川崎の一地域で忌むべき風の名となっていたのでしょう? 調べてみると、なかなか興味深い話が続々と見つかりました。
川崎区観音にある「潮音殿石観音堂」というお寺に、《海中溺死者男女塚》と刻まれた供養塔があります。風土記によると、天明5年3月7日、三浦半島から出た船が難破し、大師河原の浜に流れ着いた溺死者27名の碑であるとのこと。その犠牲者の中に「さよ」という娘の名があるというのです。
オサヨナライは大師河原で調査された俗信。この「さよ」が、オサヨナライの「オサヨ」ではないか。私は石観音堂へ赴き、《海中溺死者男女塚》供養碑を確認してまいりました。
しかし、碑に犠牲者の名が刻まれていましたが、そこに「さよ」の名前はありません。
この供養塔についてさらに詳しい資料にあたりますと——天明5年3月7日、遠藤野(現在の川崎市川崎区観音町)付近の海で遭難事故が起きておりました。
三浦郡の村に住む男女を乗せた船が大師河原沖で沈没。13名が溺死。犠牲になった人たちの中には、屋敷奉公にあがるために江戸へ向かっていた娘さんもいたそうです。
大師河原に流れ着いた遺体は、石観音堂の堂守が境内に埋葬しました。供養碑には「天明五巳年」「三月七日」「海中溺死男女塚」「相州三浦郡鴨居村」「同城ヶ島村川間村」と刻んで、犠牲となった「すて」「きち」「志け」といった人物の名前を入れました。ここにも「さよ」の名は出てきません。
そこで私は、彼女たちの乗った船が出港した、ある島にまつわる伝説を捜しました。
その島とは、城ヶ島。あの海南神社のある島だったのです。
城ヶ島には竜の住む淵がありました。その淵の見張り人は「さち」という娘でした。
竜は台風が来るのを察すると、淵に渦を作って知らせてくれます。さちは、その兆しがあると大声で村に伝え、漁師たちはその声を聞いて漁に出るのを止めました。
そんな彼女が、江戸へ嫁ぐことになりました。
天明5年の3月6日。さちと26名の乗った船は城ヶ島の港を出ます。しかし、それを許さないものがいます。さちに恋愛感情をいだいていた、竜です。
旋風と雨を引き連れた竜は、さちの乗った船を追いかけました。
そして、3月7日。
さちを含めた27人の溺死体が大師河原の浜に流れ着いたのです。
台風の襲来を伝える娘さち——彼女がオサヨナライという風の俗信に変化したのかもしれません。
竜のいたという淵がどこにあったのかは特定できておりませんが、竜にまつわるものが城ヶ島にはいくつかあります。
そのひとつは海難神社の宝物であった【龍神面】です。もともとは雨乞いに使われる面でしたが、池の水を面にかけると必ず大雨が降ったという凄まじい霊験から俗に「雨の面」「風の面」と呼ばれ、大風で沖から船が戻らない時や長雨で漁に出られない時などは漁師たちがそれぞれの面を使って神仏に祈願したといいます。
雨と風を司る龍神の面。さちの乗る船を風雨で沈めた竜。気になる竜たちです。
この付近の海では春先、北の空が真っ赤になって突風が襲うことがありました。
それを【赤ン坊ナライ】と呼び、この風から逃げ遅れて船の帰りが遅くなると、海南神社の【風の面】で神官に神楽をあげてもらい、大勢の人がお百度を踏んだといいます。
【参考資料】
辻井善弥『ふるさとをみなおそう』《1987》
内海延吉『三崎郷土史考』三崎郷土史考刊行後援會《1954》
横須賀文化協会『横須賀雑考』《1968》
牧野眞一「ミカリ伝承について」『日本民俗学』196号《1993》
下里昇『みさき』三崎名所案内発行所《1911/1922第六版》
『東京内湾漁撈習俗調査報告書』神奈川県教育委員会
古江亮仁『潮音史伝——石観音の由来を探る——』多摩川新聞社《1998》
高木秋風「北九州の旅と伝説」『旅と伝説』
黒史郎
作家、怪異蒐集家。1974年、神奈川県生まれ。2007年「夜は一緒に散歩 しよ」で第1回「幽」怪談文学賞長編部門大賞を受賞してデビュー。実話怪談、怪奇文学などの著書多数。
関連記事
新島「海難法師」から探る伊豆諸島のタブーとは? 恐るべき来訪神を鎮める儀式の謎/松雪治彦
伊豆諸島のタブー風習「海難法師」は、悪霊ではなく神を迎える儀式だったーー。新島取材を軸に、タブーの背景を考察する。
記事を読む
新島の秘祭「海難法師」に神霊出現!? 外出禁止の夜に現れるのは悪霊か妖怪か?/うえまつそう
伊豆諸島で江戸時代から行われているといわれる、外出禁止の風習「海難法師」。現在も多分に伝説のヴェールに覆われたその謎に、新島出身の怪談師が迫る。
記事を読む
UFO現象の今昔!? 石川県に伝わる「空飛ぶ鍋」「巨大な鳥・鶏」「アブダクション」怪奇譚/妖怪補遺々々
UFOで町を盛り上げる羽咋市をはじめ、石川県の妖怪譚を補遺々々してみると、UFO現象を思わせるものが数多く見られます。そんな奇妙なお話をお届けいたします。ホラー小説家にして屈指の妖怪研究家・黒史郎が、
記事を読む
太陽信仰の拠点か、異世界との交信基地か? インカの空中都市マチュピチュの基礎知識
毎回、「ムー」的な視点から、世界中にあふれる不可思議な事象や謎めいた事件を振り返っていくムーペディア。 今回は、南米ペルーの急峻な山頂に築かれたインカ帝国の空中都市マチュピチュについて取りあげる。
記事を読む
おすすめ記事