新島の墓が屋根で覆われている本当の理由とは!? “死者の街”誕生の背後にあった人々の想い

取材・文・写真=小嶋独観

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    珍スポ巡って25年の古参マニアによる全国屈指の“珍寺”紹介! 今回は東京都新島の墓地をレポート。墓が屋根で覆われるようになった本当の理由とは?

    新島の墓にまつわる不思議な風習

     伊豆七島の新島。日本離れした青い海と、白いビーチ。夏になれば大勢の若者が押し寄せる島だ。「ナンパ島」と呼ばれた昭和の頃に比べれば観光客は落ち着いたようだが、それでもこの島の美しさは今も昔も変わらない。

     そんな島に行こうと思ったのは、一冊の古い本との出会いがきっかけだった。『海島民俗誌 伊豆諸島篇』(本山桂川)。昭和9年に出版されたその本には、新島の墓に関する興味深い記述があった。それによると、新島では墓に屋根を架ける風習があるというのだ。日本中の墓を尋ね歩いている私としては、墓に屋根を架けるケースは鹿児島県でしか見たことがない。戦前から墓に屋根を架けるケースがあるとは知らなかったので、今現在どうなっているのかを含め、ぜひとも見に行ってみようと思ったのだ。

     朝、東京・竹芝を出た高速船は3時間足らずで新島港に着く。

     港のすぐ横には、エメラルドグリーンに輝く海が広がっている。これが東京都内だというのがなんとも不思議な感じがする。

     島は南北11.5㎞、東西3.2㎞と南北に細長い。

     主な集落は島南部の本村、北部の若郷のふたつ。人口は2500人で、その多くが本村に集中している。船が着くメインの港も本村にある。さっそく本村の墓に向かう。集落のやや北側に長栄寺という寺があり、その隣が本村の共同墓地になっている。

     長栄寺は日蓮宗の寺院だ。後に紹介するが、若郷にあるのも日蓮宗の寺院で、島民のほとんどがこの2寺の檀家になっている。

     本堂の脇には、歴代住職の墓と思われる墓石が並んでいた。そのうちのひとつには、なぜか鏡が奉納されていた。詳細は不明だが、珍しい奉納だったので印象に残った。

     さて、いよいよ新島の墓、初コンタクトである。本村のほとんどの家がここに墓を構えているだけあってかなりの規模だ。ざっと見て数百基といったところか。そんな中に、チラホラと屋根付きの墓が見える。ああ、今でも屋根付き墓は残っていたんだ!

     墓地の中に入って近くで見てみる。これは比較的本格的な屋根で、社寺建築のような造り。屋根は金属で葺いてある。墓石は新しいが、外柵の感じからすると比較的古い墓のようだ。

     墓石の周囲を単管パイプと角材で囲って、波型のプラスティックのトタンで屋根を渡してある。壁は薄い網が張ってある。

     金属のフレームにプラのトタン。簡素な造りだが、なぜわざわざ墓石を屋根で覆うのか? その理由を推理してみた。単純に思い浮かんだのは、この島の人々が先祖を大切に敬っているから墓石も汚れないように屋根を架けた説。あるいは、島だけに台風や雨が激しいため風雨から墓石を護るためという説。でも、大きな台風がきたらこの華奢な屋根で耐えられるだろうか、という疑問も残る。

     通路にまで屋根が張り出している。ここまでするのだから、それなりの理由が絶対にあるはずだ。

     見渡すと金属やパイプのフレームが多いようだ。先述の『海島民俗誌』によれば、戦前は木で柱を建て、筵で屋根と壁を造っていたようだ。さらに同書ではこの屋根は假屋になぞらえたものであろう、と推測している。假屋とは土葬の頃に埋葬された遺体が犬などに掘り起こされないように、埋葬地の上に置いた祠のようなもので、かつては日本中で見ることができた。しかし、もちろん新島でも現在は火葬が行われているので、あえて假屋を設置する必要もないし、その名残りとはいえ、見たところ近年新たに架けられた屋根も多い。ということは、假屋の名残りとも考えにくい。なにか、今でも必然性があって屋根を架けていると考えるのが自然ではなかろうか。

     フレームだけが建てられている。“なにか”の時にだけ上に屋根を架けるのだろう。

     細い鉄パイプに網。最も簡素な形状だ。屋根も網、ということは墓石が濡れたら可哀想だ、とかそういう情緒的なものでもないのかもしれない。謎は深まるばかりだ。

    墓を屋根で覆う本当の理由

     ちょうど屋根が架かった墓にお参りをしている方がいたので話を聞いてみる。

     墓に屋根を架ける理由、それはなんと「花に直射日光が当たらないようにするためだ」と言うのである! よく聞くと、この島では昔から墓参りを毎日するほど御先祖様を大事にしてきた。昔は墓前に樒(しきみ)を供えていたが、時代が下るにつれて花を手向けるのが主流になってきた。しかし、新島には菊をはじめとした仏花が自生していないため、本土から“輸入”するようになった。

     当然本土から輸入する仏花は高価なものだし、今ほど定期便も安定して来なかった。しかも、島の強烈な日差しに晒されては、花は何日も持たない。そこで墓に屋根を架け、日差しから高価な花を守り、なるべく長持ちさせるため屋根を架けた、というのがその理由だったのだ。

     結局、墓石が大事とか假屋の名残りとか全然関係なくて大切なのはお花だったのだ! 冗談なのかと思って他の人にも聞いてみた(確かに毎日墓参りする人が多いようで、墓地には入れ替わり立ち代わり大勢の人がやってくる)。しかし、やはり結果は同様で、「花が傷まないように」とのことだった。

     筆者は軽く衝撃を受けた。花のためにわざわざ屋根まで架けるなんて、なんて大袈裟なんだろう。でも考えてみたら、輸入品の高価な花を墓前に供えるなら、たとえ一日でも長くもってほしい。感覚としては、胡蝶蘭を墓前に供えるようなものなのかもしれない。それなら屋根くらい架けてもおかしくはないだろう。

     それともうひとつ、この墓地を訪れて凄く気になっていたことがある。それは、墓地の中にだけ白い砂が敷き詰められているのだ。新島には白砂のビーチが数か所あるのだが、その中でも島東部の羽伏浦から持ってきているという。

     羽伏浦の近くには白ママ断崖という巨大な白い崖があり、その崖が少しづつ崩れ、白い砂が大量に羽伏浦付近に積もっているのだ。その砂をわざわざ運んでくるというのだから、やはりお墓にかける熱量は並々ならぬものがあるのだろう。

     現在、墓に手向けるのは造花が主流になってきているようだ。屋根を取るか、造花を取るか、究極の選択の末、多くの人は造花を選択したようだ。それと、お墓に屋根を架けるのをお寺サイドがあまり快く思っていないらしい。従って屋根付きの墓は徐々に減っているようだ。特に島内に甚大な被害を出した2019年の台風19号では多くの屋根が「吹っ飛んだ」とか。実際70代位の女性に聞いたら、この墓地も昔は半分ほどは屋根付きだったという。

     墓地の一画には流人墓地があった。この島は江戸時代、流刑地だったので、当然この島で死んだ流人もここに葬られた。もちろん身寄りのない人々なのだが、今でも島民が白い砂を敷き、花を手向けている。

     酒好きだった流人の墓は酒樽の形をしていた。

     流人墓地は一般の墓より一段低い場所にあった。一応罪人だから、ということなのだろうが、島の人にしてみれば島に本土の文化や医療や技術を伝えたり、子どもたちに読み書きを教えたりと、それなりに感謝されていたようだ。

     墓地の一画にあった上木甚兵衛の墓とその息子、三島勘左衛門の石像。上木甚兵衛は流人だったが、流人墓地とは別の場所に墓があった。看病のために来島した息子の親孝行がそうさせたのだろうか。

     立派な百合の花束が手向けられていた。屋根ではなく、簾が花の上にだけ架けられていた。これを見ると、本当に花のために覆いを架けてあるんだな、と納得した。花への執念が他の土地よりも強いからこそこのような光景が生まれたのだろう。

     墓参に来ていた人の多くがこの本村より若郷の方が凄い、と言っていた。一体どう凄いのだろう?…というわけで明日は若郷の集落に行ってみる事にする。

    島北部の墓はどうなっている?

     で、翌日。島内を巡回するバスに乗って若郷にやって来た。若郷は島の北部にあり、かつては若郷村という独立した自治体であった。南部の本村とは同じ島ではあるがあまり行き来はなく、文化的にも本村とは隔絶した土地だった。今でも本村と若郷は一本の自動車専用のトンネルのみが繋がっているだけで、交流が盛んとは言い難い。

     そんな若郷の集落の中に、妙蓮寺という日蓮宗の寺院がある。本村の長栄寺の末寺だという。

     その隣に若郷の共同墓地はある。こちらは本村の墓地より規模は小さいが、ほとんどの墓が屋根付きだ。

     本村の墓と違って、墓地全体を石やブロックで完全に囲っているものが多かった。

     ここの屋根もやはり網などの透過性のあるものが使われていた。

     つまり、雨風は通っても日差しだけ遮ればいい、という命題の最適解なのだろう。

     究極はこちら。網目の大きいネット。ここまでくると日陰になるのかすら怪しいのでは。

     石で囲われた墓。この石は新島特産のコーガ石という石材で、島の古い家や塀などに使われている。コーガとは「抗火」の意味で、火に強い石材だという。本村では見なかったが、若郷ではこのコーガ石で作られた墓が数多く見られた。

     もちろん軽量鉄骨で組んだ墓も。屋根は波型トタンと農業用ネットのハイブリッド型。石塔を見る限り、かなり古く格式の高い墓だ。

     ちなみに、この墓地で一番古い墓石は元禄年間のものだとか。

     お参りに来ていた方に話を伺う。やはり若郷でも毎日墓参りに来る人が多いという。花は生花と自分の庭で育てている樒と造花のハイブリッドだそうだ。屋根が架かっていると生花はもちろん、造花も色褪せないから良い、と言っていた。 

     コーガ石の上から丸い模様をペイントした墓。伝統とアバンギャルドが融合した素敵な墓だ。

     簡素型。木のフレームに、青いのは網戸の網?

     コーガ石で組まれた小屋の窓には、網戸の網が張られていた。

     大きな一枚網が張られていたが、台風の時の負荷を軽減するためかところどころ四角く穴が空いていた。

     網の中はこんな感じ。波打つ網を透過した激しい日差し。幻想的な眺めだ。

    「死者の街」の過去と未来を想う

     こうして見てみると、墓地というよりは「死者の街」と言った方がしっくりくる。『海島民俗誌』によると、当時は本村の墓は恒久的に屋根を架けていたが、若郷ではお盆の時だけ臨時に屋根を架けていたという。今は逆転して本村の墓は仮設的だが、若郷は常設的だ。若郷の人に聞いたが、若郷は本村に比べて盆行事などの死者供養に関しては古い習俗が色濃く残っているそうだ。

     墓地の一画にある納骨堂。墓参りに来ていた方が「これから若い世代には毎日墓参りしろとか強制はできない。だったら、いっそのこと墓終いして納骨堂に入った方が子どもたちのためかも知れない」と寂しそうに語っていた。

     妙蓮寺の関係者の墓。こちらは屋根が架かっていない。墓参に来ていた人の多くが、やはりお寺では屋根を架けることを良く思っていない、と言っていた。

     お寺の鐘楼。背後には屏風のような崖が聳えている。改めてこの若郷という集落自体が巨大な崖と海に挟まれた厳しい場所だということを実感した。

     強い日差しに強い風という島の気候。生花が手に入り難い地理的条件。墓参りを毎日する祖霊崇拝的マインド。そんな三者が入り組んで生み出されたのがこの不思議な光景の正体だったのだ。長いスパンで考えればこの屋根付き墓の習俗はいずれ消えてしまうのかもしれない。今はただ、この不思議な光景を目に焼き付けていたい、と思うのであった。

    小嶋独観

    ウェブサイト「珍寺大道場」道場主。神社仏閣ライター。日本やアジアのユニークな社寺、不思議な信仰、巨大な仏像等々を求めて精力的な取材を続けている。著書に『ヘンな神社&仏閣巡礼』(宝島社)、『珍寺大道場』(イーストプレス)、共著に『お寺に行こう!』(扶桑社)、『考える「珍スポット」知的ワンダーランドを巡る旅』(文芸社)。
    珍寺大道場 http://chindera.com/

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