座敷童子の宿「菅原別館」で金縛りに遭うも、目覚めはスッキリ!/辛酸なめ子の魂活巡業
今回は、「座敷わらしの宿」として有名な旅館、菅原別館(岩手県盛岡市)を辛酸なめ子さんが来訪。宿泊中に体験した不思議な出来事をレポートします。
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70年代オカルトブームを語る上で欠かせない存在、「座敷童子」。この妖怪はいかにして恐怖の対象から“いいもの”に変化したのか? 改めて経緯を紐解く!
本年最初のテーマはご存知「座敷童子」である。「富をもたらす福の神」といったイメージで語られることも多いので、一応は年頭にふさわしい「おめでたいネタ」だと言えるかも知れない。次回の後編では少々不穏な展開になる予定だが、波乱の年明けとなってしまった今年最初の本稿では、できるだけ縁起の悪い話は避けつつ論を進めていきたいと思う。
「座敷童子」については、これまで全国規模の大きなブームが二度起こっている。その最初が明治末期。20世紀初頭の欧米におけるオカルトブームが我が国にも波及した時期に重なる。これについては後篇で詳述するが、この第一次ブームのときは主に民俗学者や文学者の間で「座敷童子」が考察の対象としてトレンドとなり、これによってローカルな伝承の主人公が全国的な知名度を得たといわれている。
二度目は本連載が主題としている70年代オカルトブーム期だ。昭和のオカルト本やオカルト特番で「座敷童子」が盛んに取りあげられるようになったのは80年代に入ってから、という論考もあるようだが、いや、70年代には当時の小学生の間でもすでにおなじみのキャラ(?)だった。
確かに80年代に入ってからの方がテレビで扱われる頻度は高くなったが、個人的な記憶では、その時点ですでにネタとして陳腐化しており、「ついに定点カメラが捉えた『座敷童子』の姿!」みたいなお決まりの企画には子どもたちも辟易していた気がする。
この70年代ブームの直接的きっかけとなったのが、同世代にはおなじみ、座敷童子を主題にした児童向けファンタジー小説、三浦哲郎による『ユタとふしぎな仲間たち』だ。この作品の刊行が1971年。NHKでドラマ化され(74年)、ミュージカルも上演されて(77年)、小説もベスト&ロングセラーとなった。僕ら世代には「小学校で読まされた」という人も多いだろう。
個人的な感慨だが、子どもの頃の僕があまり「座敷童子」に関心を持てなかったのは、というかオカルトのネタとして「つまんない!」と思っていたのは、この児童文学をめぐる状況に起因していたような気もする。いや、『ユタとふしぎな仲間たち』はおもしろい小説だと思うが、この作品が「良書」として大人たちにもてはやされたことで、「座敷童子」には「文部省推薦!」「PTAも公認!」みたいな「いいもの・教育的なもの」の烙印が押されてしまった印象がある。本来は神秘的で謎めいた存在であるはずの「座敷童子」は、僕ら世代にとって、少なくとも僕にとっては、親や先生たち、あるは教育制度の側に取り込まれたヌルい優等生的妖怪もしくは心霊……といった印象だったのだ。
実際、特に80年代以降のオカルト特番で放映される「座敷童子」ネタは、なんだか「箸休め」的な内容で、心が「ほっこり」する「ちょっといい怪談」みたいなものが多かった。僕としては「またこれかよ!」と思い、「この隙にトイレに行っとこう」なんてことにもなったのである。
さて、「座敷童子」といえば、当時も今も必ず出てくるのが「緑風荘」のお話。岩手県二戸市金田一温泉郷にある老舗旅館だ。
南北朝時代、北朝方との戦いに敗れた南朝の武将が落ち武者となって金田一に逃れるが、その幼い息子「亀麿」が病のために死去する。息を引き取る際に「末代まで家を守り続ける」と語ったとされ、この「亀麿」の霊が後に「緑風荘」となる家屋敷の奥座敷「槐(えんじゅ)の間」に棲みついた。これが「緑風荘」の「座敷童子」の起源として伝承されている逸話だ。
「槐の間」における「怪現象」は地元では以前から話題になっていたようだが、昭和のオカルトブームをきっかけにメディアの取材が急増し、全国的な脚光を浴びはじめた。この部屋に泊まって「座敷童子」に出会えれば「男は出世、女は玉の輿」といった幸運に恵まれるとの噂が瞬く間に広がり、今でいうところの「パワースポット」的な名所となる。芸能人などがこぞって泊りに来るようにもなったそうだ。
同世代なら記憶していると思うが、特に80年代初頭のオカルト特番における「座敷童子」ルポの定番が、赤外線カメラによる「槐の間」の定点観測である。「槐の間」にレポーター役のタレントを泊まらせ、あるいは無人の状態のまま、固定カメラで一晩室内の様子を撮影、その映像を早回しで見せていくわけだ。後にさまざまな番組が同じスタイルの取材を繰り返すようになったので僕らも食傷気味になったが、初期の映像はそれなりに新鮮味があり、それなりに怖かった記憶がある。
この部屋には宿泊者が持ち寄った玩具などが「座敷童子」へのお供えものとして山と積まれている。定点観測映像では、そうしたお供えものの玩具に混じった風車が急に回りだしたり、電池で動いたり音を出するおもちゃがひとりでに作動しはじめる様子が記録されることが多かった。また、子どもが走りまわる足音が聞こえたり、子どもの歌声のようなものが聞こえたりするというパターンもあった。「オーブ」という非常にテレビ的に便利(?)な概念というか、現象が定番化して以降は、「槐の間」を飛びまわる「オーブ」の映像もおなじみになっていったと思う。
いずれにしろ、この「緑風荘」のブームのなかで一般的な「座敷童子」の印象はより完全に固定されていった。先述したように『ユタとふしぎな仲間たち』によって「座敷童子」は「恐怖の対象」であるよりも「よいもの」「かわいいもの」という文脈で語られることが多くなったが、それでも若干は「心霊」「妖怪」の影を残していたと思う。それが「御利益」をもたらす子どもの姿の「福の神」として観光施設の人気を高めていく存在となることで、2000年代以降のスピ系的な属性、要するに「パワースポット巡り」といった人々の行動を支えるポジティブでカジュアルな幸福(現世利益)追求型オカルト観(?)を先取りしていたようにも思える。
さて、次回の後編では『遠野物語』など、昭和のオカルトブーム以前の民俗学系の文献から「座敷童子」を考察してみたいのだが、そうしたものに記録される伝承では、「座敷童子」はなぜか火事と縁が深いことになっている。「火事の前触れをする」とも言われ、「火防の守」として祭られたり、「座敷童子」が棲みつくとされる家が火災除けの守札を出したりすることもあったそうだ。また、「座敷童子」の去った家は火事で全焼するといった逸話もあり、古来の伝承で語られる「座敷童子」には、やたらと火事のイメージがつきまとっている。
2009年、「緑風荘」は「座敷童子」を祀った中庭の「亀麿神社」“以外”が全焼した(2016年に再建、営業を再開)。こうした不可思議な偶然はあくまで偶然として捉えておくにしても、「座敷童子」の伝承の成り立ちを民俗学的に探っていくと、「かわいらしい福の神」という一面的なイメージではとても把握しきれいない、底の知れぬ部分が多々あるようだ。
初見健一
昭和レトロ系ライター。東京都渋谷区生まれ。主著は『まだある。』『ぼくらの昭和オカルト大百科』『昭和こども図書館』『昭和こどもゴールデン映画劇場』(大空出版)、『昭和ちびっこ怪奇画報』『未来画報』(青幻舎)など。
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