新宿・歌舞伎町で消えた鬼と出くわし、水神の記憶をたどるーー「東京異界めぐり」
神仏探偵・本田不二雄の新刊「東京異界めぐり」刊行記念! 新宿の歌舞伎町の裏面を覗き、地霊とふれあう散歩コースをご案内しよう。
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その土地に残存する霊的な存在、染みついた記憶、その原点となる物語を宿した「地霊」を巡って歩いて、呼び覚ます。神仏探偵が「東京の地霊」をご案内。今回は渋谷区猿楽町の「猿楽塚」へ。
「地霊」とは、その土地に残存する(かもしれない)霊的な存在のみならず、土地に染みついた記憶を伝え、その原点となる物語を宿し、ときに秘めやかに残され、ときに畏怖すべき対象として浮上する「場」が醸し出すナニモノかを言いあらわしたワードです。
本書『東京異界めぐり』(12月23日発売、本田不二雄 著。駒草出版 刊)は、東京の11エリアから、その土地に潜む地霊スポットを探索し、案内する内容ですが、そのなかから選りすぐりの「場」を紹介するのが本稿。初回は、渋谷駅周辺の再開発で装いを一変しつつある渋谷区の「奥宮」です。
では、さっそく参りましょう。

東急東横線「代官山」ほど近くの代官山交番前交差点から旧山手通りを北西に200メートルほど進むと、左に「猿楽塚」があらわれます。
グーグルマップの表記では、「猿楽神社(猿楽塚古墳)。それは、ヒルサイドテラスという代官山のまちを代表する複合施設の敷地内にありました。
猿楽塚古墳は6~7世紀の古墳時代末期の円墳で、高さ約5メートル・幅約20メートル。旧山手通りの歩道からその半分ほどを覗かせててます。その手前には鳥居が建てられ、そこから石段が延びて奥へと誘っています。


こんもりとした塚の上には広葉樹が数本高く繁っており、小さな森の風情。参道はいったん右に折れ、再び上り道にさしかかったところでお社が見えてきます。猿楽神社です。
案内板の「猿楽神社縁起」によると、創祀は大正4年(1915)、旧山手通り沿いに地所をもつ朝倉家によって祀られたとあります。
歴史的には比較的最近の話で、考えてみれば、神社が古墳の上に鎮座していた例はありますが、近代になって古墳に神社が祀られるのは異例なことといえるでしょう。
ところで、筆者の手元には朝倉家の近代史をまとめた『代官山考察 猿楽雑記』という私家本かあり、こんなことが書かれていました。
「大正六年本宅を造った時、庭もすっかり立派に造園した。その時広い敷地内に昔から四個あった塚の一つが邪魔になるので取り壊した。するとまもなく(当主の)虎次郎と請け負った棟梁とが奇病にかかった。二人とも同じ容体で何病とも分からなかったそうである」
のちに古墳は渋谷区指定の史蹟になります(1976年)が、まだそれとは知られぬ敷地の「塚」を取り崩したところ、予期せぬ災厄が降りかかったわけというのです。
その奇病とはどのようなものだったかは記されてはいないませんが、『雑記』によれば、「塚の内から人骨らしき物や武具などが出たので皆きれいに取出し前の塚に丁寧におさめて御供養をしたあと、お宮を建てておまつりした。それが今の猿楽様である」とあり、つづいて、「「残ったあとの三つの塚は以後絶対に手をつけてはならないという事で、今、猿楽様とあと二つ残っている」(「叔母眞砂子の覚書」)と。
ともあれ、「塚」に葬られていた何者かの御霊を供養するために神社が建立されたわけです。気になるのは、昔は古墳が四基あり、覚書が書かれた昭和の戦後には「猿楽様(北塚と称される)とあと二つ残って」いたとされること。実は公開されていないもうひとつの古墳(南塚)の存在はわかっているのですが、この間、ほか二基は消失してしまったようです。
とはいえ、開発が著しい渋谷区で高塚古墳が二基残されていたこと自体が貴重で、「猿楽塚」案内板には、二基の古墳の間を初期の鎌倉道が通っていて、目黒川に下っていたと書かれています。
確かに、ヒルサイドテラスの南西側は急崖になっており、ここは台地の縁にして三方を見下ろす要害の地でした。そのような場所に墳墓を築くのは古代人にとっていわば定石だったようで、時代が下ると、その高塚はランドマークの役割を担うようになります。
伝説では、猿楽塚(北塚)は、源頼朝がここで猿楽を催して、そのときの道具を埋めたことからその名がある(『新編武蔵風土記稿』)と伝え、『江戸名所図会』は、渋谷長者の某が塚のあたりで酒宴を催して日頃のうさを払い、〃我が苦が去る〃ことから「去我苦塚」と呼ばれたと伝えています。
つまり、「塚」は歴史を通じて特別な場所と認識されていたようですが、諸説紛々といった状況でした。しかし、朝倉家当事者の「覚書」を読めば、そこがしかるべき人が葬られた古墳だったことはまちがいありません。
こうして20世紀に入り、「塚」を無用のものとする力がはたらいたとき、眠っていた土地の霊威がついに発動した。
「覚書」をそう理解すれば、その”事件”は、近代以前の地霊観が思い起こされた瞬間でもあったでしょう。
そんななか、ヒルサイドテラスは、1969年の第一期竣工から約30年をかけて建てられました。それは昭和・平成の建築遺産というべきプロジェクトだったのですが、当初より、オーナーの朝倉家にとって、猿楽塚を取り崩すとなく未来へとつなげていくことは、重要な懸案事項だったと思われます。
その意を受け、設計を担当したのは建築家・槇文彦(一九二八~二○二四)でした。
ヒルサイドテラスのHPによれば、その設計は「えられた敷地の特殊性と限界を考慮し尊重することを統合する試み」だったとして、こう書かれています。
「そこにはかなり歴史的な場所も含まれている。それは古代の古墳の上にある小さな神社で、東京が小さな一漁村に過ぎなかった7世紀頃に代官山に人が住んでいた証拠となっている。段階的に開発しようと考えたとき、場所の持つ精神(ゲニウス・ロキ)を守っていくことはほぼ暗黙のうちに了解されていた」(HILLSIDE TERRACE「ストーリー」)
「ゲニウス・ロキ」とは、ローマ神話でいう土地の守護精霊で、「地霊」と訳されます。
槇氏が出した答えが眼の前にありました。
”塚“は、ヒルサイドテラスのC棟とD棟に挟まれ、E棟の目隠しをするような位置に配置されました。ですが、決して閉じ込められることはなく、三棟のあいだには空間が設けられ、三方から風が通りかつ人流も確保されるとともに、外部からはその半分が”見えがくれする”設計。閉鎖系と開放系が絶妙にバランスされています。
のみならず、塚のD棟側の半周には傾斜付きの回廊が設けられており、湾曲した猿楽神社の参道は正面からお社を見えにくくするとともに、全体として、塚の内と外を立体的につなぎ、回遊できるしくみになっています。
結果として、猿楽塚はヒルサイドテラスの”古墳回遊式”中庭にして、外部からもアクセス(お詣り)できる鎮守の森として蘇ったのです。


実のところ、槇文彦は現代日本を代表する建築士のひとりであるとともに、都市景観に潜む”奥”を見つめ、その意味と深みを読み解くすぐれた地相家でした。
1980年に編まれた『見えがくれする都市』(鹿島出版会)に、槇氏は「奥の思想」という一文を載せ、こう述べています。
「日本人にとって土地は生きているものであり、その基盤に土俗信仰に深く根差した土地への畏敬の姿勢がある。『奥』は構築されたもの(中心のように)ではなく本来土地そのものに与えられた原点なのではなかろうか」
「たとえ部分的であれ、現在の状況の中でも、再び都市の空間に奥性を附与すべく、利用しうる古い、あるいは新しい空間言語と技術を使ってその再生を試みることができる…(略)…望ましき空間の質は、単にひろがりだけではなく深みの創造にある」
槇氏は、「奥」というキーワードで東京に潜む「地霊」を見出し、そこに積極的な意義を与えた唯一のアーキテクト(建築家・設計者)として記憶されるべきでしょう。
なお、朝倉家は渋谷の鎮守社である金王八幡宮と、渋谷最古の由緒を伝える渋谷氷川神社の氏子・崇敬者であり、猿楽神社の祭祀も氷川神社の神職によって行われています。
であれば、代官山猿楽神社は、現代に出現した「渋谷の奥宮」と呼んで差し支えないのではないか。筆者はそう思うのです。

「東京異界めぐり」(本田不二雄・著)/税込み1980円/駒草出版
https://www.amazon.co.jp/dp/4909646876/
本田不二雄
ノンフィクションライター、神仏探偵あるいは神木探偵の異名でも知られる。神社や仏像など、日本の神仏世界の魅力を伝える書籍・雑誌の編集制作に携わる。
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