朝廷に討たれた麗しき鬼の悲劇! 岩手県奥州市「人首」の鬼伝説/高橋御山人

文・写真=高橋御山人

関連キーワード:
地域:

    人の首と書いて「ひとかべ(ひとこうべ)」。物騒に思える地名には。地元を守った美しい鬼少年の伝説があった。

    人首(ひとかべ)という地名

     岩手県南部の奥州市。その東部に「人首(ひとかべ)」という、いわくありげな地名がある。今は山間の静かな里だが、三陸と北上盆地を結ぶ街道沿いにあって交通の要衝として栄え、近代には教会も建てられた。明治8年、人首村は米里村に改称したが、地名は今も残っており、かの宮沢賢治も訪れ「人首町」という詩を残している。

    奥州市江刺米里人首町。近代には交通の要衝として栄え、宮沢賢治も訪れた。ゆかりの地の案内もある。

     人首の中心部近くには、麓山(はやま)神社が建つが、こちらはもともと白山権現があったところに、東の中沢という集落から勧請して一体となったものだ。その中沢麓山神社は、文字通り山の麓に鎮座する。

    人首の麓山神社。白山権現だったところに、中沢から麓山神社を勧請した為、下段の石碑には「麓山神社」、中段の鳥居の右の石碑には「白山」の文字が見える。
    中沢麓山神社は、文字通り山の麓の、急斜面に鎮座している。聖観音を祀ったことに始まっており、神仏習合の山岳信仰だったのだろう。今は訪れる人も稀な様子だが、楼門などもあり、かつての繫栄が偲ばれる。

     地元の伝承によると、人首の地名は鬼の名前に由来する。
     征夷大将軍・坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)の蝦夷征伐の際、近くの大森山に立て籠もった人首丸(ひとかべまる/ひとこうべまる)を、坂上田村麻呂の娘婿・兼光が討ち、蝦夷が再起しないよう鎮護国家を祈って、聖観音を祀ったのが始まりだという。以降、この地を人首村と呼ぶようになった。
     人首丸は、坂上田村麻呂の討った鬼・悪路王(あくろおう)の甥であり、同じく坂上田村麻呂の討った鬼・大武丸(おおたけまる)の子だという(悪路王や大武丸については「鬼死骸村」の記事参照)。地形に明るい人首丸は、霧に紛れて神出鬼没、朝廷軍を翻弄したが、長い戦いの末、兵糧攻めに遭い、ついには討ち取られた。そんな彼は、15、6歳の美少年だったと伝わる。

     坂上田村麻呂が討った鬼の親族を、坂上田村麻呂の親族が討つというサイドストーリーが、人首の由来という訳だ。しかし、悪路王や大武丸の伝説は、東北の外にまで広く伝わっているが、人首丸の伝説は、他で見ることのない、極めてローカルなものである。その一方で、鬼の親族でありながら、悪逆非道ぶりや超人的な能力の要素はあまりなく、天草四郎のような悲劇の少年英雄といった感がある。

    人首川に架かる人首橋には、人首丸のレリーフがある。地名も河川名も、坂上田村麻呂と戦った蝦夷の武将・人首丸に由来する。

    麗しき人首丸は宗教指導者だったのか

     さて、中沢麓山神社から、大森山の中腹の、人首丸が立て籠もったという場所へは、南東に険しい山道を登って行かなければならない。人首丸の戦いは、坂上田村麻呂による征夷の際の、蝦夷軍最後の抵抗だったというが、それも納得の地形だ。北上盆地と三陸海岸の間に聳える北上高地の、峠に近いような場所にある。

     それにしても、悪路王や大武丸の伝承地と比べると、尋常ではない山奥にある。人首丸の立て籠もった場所へは、かなり険しい道を登って行かなければならない。墓碑の100m手前まで車で行けるが、舗装されていない草の生い茂る道であり、運転には注意が必要だ。

     人首丸の砦跡といわれる一帯には、人首丸の墓碑や、大森観音堂の跡がある。大森観音堂は、あまりにも山深い場所の為、麓山神社とは別に、奥州市内の人首よりも北上盆地に近い場所に移されたが、起源は同じである。

    人首丸の墓碑。碑文はほとんど読み取れないが、傍らの標柱の裏側には「郷土の英雄」とある。元は巨石遺構のメンヒル(立石)であったかもしれない。

     また、大森観音堂跡も、岩が立体的に組み合わされており、まるで古代の巨石遺構・ドルメンのように見える。立て籠もるには好都合ではあり、実際にここで戦があったのかもしれないが、そうだとしても、古代から蝦夷が祭祀を行って来た、磐座を利用したのかもしれない。

     人首丸は、軍事的指導者というより、宗教的指導者だったのではないか。それこそ天草四郎のような。それなら、美少年というプロフィールもきわだってくる。
     民俗学者・中山太郎は「日本巫女史」において、神懸かりになるシャーマンのような巫女は、基本女性であり、少数派ながら男もいたが、その場合も女装等で女に擬することが多く、また女のシャーマンも男性的な性質を持つことが多かった、という主旨のことを述べている。
     要するに、シャーマンは男であれ女であれ中性的だという訳だが、祭祀所を思わせる場所に美少年の人首丸がいたのなら、人首丸はシャーマンだったのではなかろうか。実際、ここは後々まで、大森観音堂という祭祀所だったのだ。蝦夷のアニミズム的、シャーマニズム的古代信仰が、朝廷のもたらした神仏習合的信仰に上書きされていった、そんな歴史を人首丸伝説は伝えているのではないか。

    人首丸が討たれた場所に、その死を悼んで建てられたという、大森観音堂の跡。巨石遺構のドルメンを思わせる造りで、岩屋となっている。

    古代岩手のシャーマンと「風の又三郎」

     ところで、大森山をさらに登ると「種山ヶ原」という高原が広がっている。宮沢賢治が愛し、代表作の一つ「風の又三郎」の舞台ともなった場所だ。主人公の三郎は、不思議な容貌の、人のような精霊のような、神秘的な少年である。また、霧の中、ガラスのマントを着て空を飛ぶような描写もある。霧の中、朝廷軍を翻弄した少年、人首丸の如しだ。

    人首丸の砦があったという大森山の山頂部は、「種山ヶ原」と呼ばれる、なだらかな高原になっている。最高地点の物見山は、朝廷軍が人首丸の砦を攻める際、物見を置いた場所だと伝わり、見晴らしが良い。

     宮沢賢治の著作に人首丸は登場しないようだ。だが人首と同じ奥州市の旧江刺市内に伝わる郷土芸能を見て書いた「原体剣舞連(はらたいけんばいれん)」という詩には悪路王が登場する。人首を訪ね、悪路王を描いた宮沢賢治が、人首丸を知らなかったはずはない。人首丸伝説は、風の又三郎のモデルの一つなのではないか。近隣の出身である宮沢賢治は、人首丸のシャーマンのような本質を感じ取り、風の又三郎として再現させたのかもしれない。
     人首丸は、悪路王の甥であり、「王族」である。鬼剣舞は、蝦夷の鎮魂の為に始まったともいうが、宮沢賢治もそこに「蝦夷の王」を幻視したのだろうか。

    北上・みちのく芸能まつりの谷地鬼剣舞(やちおにけんばい)。
    種山ヶ原の物見山には、風の又三郎の像がある。霧の中でマントを着て飛ぶ少年の姿に、霧の中で朝廷軍を翻弄した少年・人首丸の姿が重なる。

    高橋御山人

    在野の神話伝説研究家。日本の「邪神」考察と伝承地探訪サイト「邪神大神宮」大宮司。

    関連記事

    おすすめ記事