「将門塚の祟り」は1976年起源だ! 怨霊を復活させた大河ドラマの衝撃/吉田悠軌・オカルト探偵
江戸の総鎮守、東京の地霊、あるいは日本最大の「祟る神」。さまざまな呼び方で畏怖される古代の武将、平将門。東京大手町の将門塚はその首を供養した聖地、霊域として名高いが、「塚の祟り」が取り沙汰されるように
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関東の英雄・将門は江戸の総鎮守となったーー。北斗七星結界による「結界呪術」の謎に迫る。
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前回の記事で検証したように、将門のバックボーンには革命思想ともいえる妙見信仰があった。しかし、「将門の乱」の鎮圧によって、妙見革命の芽はすっかり摘まれてしまった。
ところが、である。
江戸時代に入ると、妙見信仰を将門霊と合わせて復活させようとするかの如き動きが、江戸幕府のもとで生じた。その復興は表立ったかたちはとらず、政権中枢の人物の主導によって、密に、符牒めいた手法で実行されたらしい。具体的にいうと、それは江戸にある将門ゆかりの霊跡の整備というかたちをとって行われた。
ここでまず、江戸時代以前の例として、14世紀はじめ(鎌倉時代末期)時点での、江戸に存在した将門の霊跡に注目してみよう。もちろん筆頭は、武蔵国豊島郡柴崎村(現・千代田区大手町)の将門塚である。
そして当時、将門塚周辺には、将門関連の寺社が他に3つ存在していた。ひとつは奈良時代創建ともいわれる神田明神である。本来は柴崎村の鎮守であったが、真教上人によって14世紀初頭に将門霊が合祀されたことは、先に記した通りだ。
ふたつめは、日輪寺という時宗寺院である。9世紀創建と伝えられ、もとは天台宗に属していた。だが、将門の亡霊を鎮めた時宗の真教上人が村人に乞われて将門塚のそばにあったこの寺に留まったことを機に、時宗の念仏道場に改められたという。
3つめは、築土(つくど)神社(筑土神社、津久戸神社)で、場所は柴崎村に隣接する上平川村津久土(現在の皇居東御苑・旧三の丸付近か)である。創祀については、「もとは観音堂だったが、京都から将門の首が飛んで来たので、将門を祀って神社に改めた」、「将門塚をつくった際、その傍らに祠を建てて将門霊を祀ったのがはじまり」などと諸説あってはっきりしないが、かなり早い時期から将門を祀っていたらしい。社名の「築土」は、塚の意だとか、「(将門の) 血首(ちくび)」の転訛だ、などともいわれている。
いささかややこしいが、ともかく14世紀はじめの時点では、将門塚・神田明神・日輪寺・築土神社の4つはほぼ同じ場所に存在し、将門霊を鎮魂していたのである。
さらに視野を広げると、当時の江戸には、将門のおもな霊跡として、このほかにつぎのようなものがあった。
鳥越神社:浅草鳥越(台東区鳥越)に鎮座。社伝によると白雉(はくち)2年(651)創建で、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国平定の折に滞在した場所だといい、日本武尊を祭神とする。現在、神社は将門と無関係としているが、将門の霊を祀っているとする俗説があり(織田完之『平将門故蹟考』)、 鳥越を「将門の首が飛び越えたところ」の意とする説もある。神主を世襲した鏑木氏は千葉氏の支族で、将門の末裔にあたる。
兜神社:甲山(中央区日本橋兜町)に鎮座。現在は稲荷神を祀るが、将門の首を斬った藤原秀郷が将門の兜を埋めて塚を築いたことにはじまるとする伝えがあり、境内に「兜岩」が置かれている。
水稲荷神社(高田稲荷):新宿区西早稲田に所在するが、かつては現在の早稲田大学本部キャンパス内の地に鎮座。将門を討った藤原秀郷が「富塚」のうえに稲荷神を勧請(かんじょう)したことにはじまるという。
鎧神社:豊多摩郡柏木村(新宿区北新宿)に鎮座。日本武尊を祭神とし、社名は日本武尊が東征のおりに甲冑をこの地に納めたことに由来するという。一方で、将門の死後その威徳を偲ぶ住民が鎧をここに埋めたとか、将門の残党を追ってこの地に来た藤原秀郷が重病を得て苦しんだとき、将門霊の祟りと恐れて将門の鎧を埋めて一祠を建てたなどという別説もある。
これらの将門の霊跡の当時の場所を現在の東京の地図上に置いてみると、
地図1のようになる。
徳川家康が天下をとって江戸時代になると、これらの霊跡のうちのいくつかに場所の移動が生じた。
将門塚は不動のままであったが、隣接する神田明神は慶長年間(1596〜1615年)に神田山( 駿河台)に遷座したのち、元和2年(1616)に現在地(千代田区外神田)へ遷座した。日輪寺は慶長8年(1603)もしくは明暦3年(1657)の江戸大火後に、浅草(台東区西浅草)へ移転した。築土神社は、家康の江戸入府までに、江戸城の北西(現在の武道館付近)上平川村田安(千代田区九段北)→牛込(千代田区飯田橋駅付近)とすでに転々としていたが、元和2年(1616)には築土八幡社(新宿区筑土八幡町)の隣に遷座し、その後は長く同地に留まった(昭和の大戦で焼失後、旧地に近い千代田区九段北の世継稲荷神社の境内に再建されて現在にいたる)。
鳥越神社・兜神社・水稲荷神社・鎧神社は、ほぼそのままの場所を保ったようだ。
江戸時代の17世紀なかばごろにおけるこれらの霊跡の場所をマッピングすると、地図2のようになる。
つぎに、これらのうち、寺院である日輪寺を除いた7つの霊跡の位置に注目してほしい。すると、ある図柄が浮かび上がってくることに気づかないだろうか。──そう、これらの位置を線でつないでゆくと、柄杓の形、すなわち北斗七星が浮かび上がってくるのだ(地図3)。
北斗七星──それはまさに妙見信仰のシンボルである!
これはいったい、どういうことなのか?
江戸の大地にきらめく北斗七星についてはじめて公言したのは、作家の加門七海氏である。加門氏は平成5年(1993)に刊行された著書『平将門は神になれたか』の中でこの問題を検証し、詳細に論じている(同書は平成8年に『平将門魔方陣』と改題のうえ、河出文庫として再刊された)。
加門氏によれば、この北斗七星になぞらえた霊跡の配置は、江戸幕府の「呪術プロジェクト」であり、「将門は大いなる祟り神故、幕府は慎重に祀る一方、江戸外に彼が逃げないように、呪術の石垣を築いた」のだという。いうなれば、江戸に北斗七星による結界が施されたのだ。
忌まわしい怨霊を江戸に閉じ込めることは、かえって不幸の種を将軍のお膝元にため込むようなものではないかとも勘繰ってしまうが、加門氏は、この呪術プロジェクトの本質を「封じ祀り」と評している。怨霊をたんに封じるのではなく、さらに祀り上げることで、その強力な霊的パワーを自分たちの加護と繁栄に転用させてもらおう、という発想である。
また加門氏は、同書の中で、この江戸の北斗七星についてユニークな分析も加えている。
これら7つの霊跡は、①将門の首に関係するもの(鳥越神社、兜神社、将門塚、神田明神、築土神社)、②将門調伏に関係するもの(水稲荷神社)、③将門の胴に関係するもの(鎧神社)の3つに分類でき、地図で見ると、②の水稲荷神社によって、将門の首(①)と胴(②)が断ち切られているように映る。加門氏によれば、これは偶然ではなく、将門の強烈な霊力をコントロールしようとした幕府の意図的な仕掛けであるという。
さらに、もうひとつ非常に興味深い指摘もしている。北斗七星でいえば柄の側にある武曲星(ぶきょくせい)にあたる水稲荷神社から南西に2キロ弱の場所(新宿区歌舞伎町)に、鬼王(きおう)神社がある(正式には稲荷鬼王神社という)。社伝によれば承応(じょうおう)2年(1653)に稲荷神社として創建され、宝暦(ほうれき)2年(1752)紀州熊野より鬼王権現(ごんげん)を勧請して合祀したのだという。
だが、この地は神社が建つ以前から大久保村の聖地として尊ばれてきたところだったともいわれており、さらに、鬼王とは熊野にあったという鬼王権現のことではなく、将門の幼名「外都鬼王(げつおにおう)」をさし、じつは将門を祀っているのだという異説もあるのだ。
加門氏によれば、武曲星のそばに輝いている小さな星を輔星(ほせい)というが、陰陽道の秘説に、これを単独の妙見菩薩の化神(= 摩多羅神)として解するものがあり、鬼王神社はまさにこれにあたるのだという。
おもしろい見方だが、そもそも鬼王神社が将門の霊跡でなければ、この論は成り立たない。それに、将門が「鬼王」などという幼名をもっていたという話は、筆者は寡聞(かぶん)にして知らない。
はたして鬼王神社はほんとうに将門とゆかりがあるのだろうか。
同社の社家・大久保家の16世で、現在宮司を務める大久保直倫氏に話を伺ってみた。すると同氏は、「鬼王神社側の記録には、将門との関係を示すものはいっさい残っていません」と将門との関わりをにべもなく否定したが、こんな意味深な情報を語ってくれた。
「ただし、どういうわけか、大久保家の口伝に、『成田山(新勝寺)にお参りしてはいけない』というものがあるのです……」
成田山新勝寺(千葉県成田市)といえば、「将門の乱」と因縁深い寺院として有名だ。乱のとき、京都の寛朝僧正(かんちょうそうじょう)は将門調伏の勅命を受けて下総に下向し、調伏祈禱の不動明王法を厳修(ごんしゅ)。するとその霊験か将門は討伐され、これが縁となって祈禱所の成田に不動明王を本尊とする新勝寺が開山された、という伝説がある。
つまり、新勝寺は将門にとっては怨敵ともいえる寺院である。そうすると、そこをタブー視する秘伝が鬼王神社にあるのは、鬼王神社が将門の霊を祀っているからではないのか──そんな推測が成り立つわけである。
今回、取材してみて改めて感じたが、将門とゆかりがあるとされる寺社には、公式にはそれを否定したり、俗説としてしまっているところが多い。筆者の邪推かもしれないが、「ほんとうはたしかに将門とゆかりがあるが、朝敵とされた将門との関係を喧伝することが憚られたのでそれを隠し、公的な記録から消した」というケースも少なからずあったのではないだろうか。鬼王神社も、そうした寺社のケースのひとつに含められるのではないだろうか。
だとすれば、江戸には、やはり北斗七星結界が施されていたのだ!
だが、北斗七星結界が実際に江戸にあったとしても、そもそもこれを発案したのはだれなのか。首謀者はいったい誰か。
筆者は今回、加門氏に直接、話を伺うことができた。
同氏が旧著を執筆したのは今からもう30年近く前だが、将門に興味をもって江戸の霊跡を調べてゆくうちに北斗七星結界に気づいたときは、「最初は自分でも信じられなかった」そうだ。そして、このプロジェクトの仕掛人については、「文献的な裏づけはありませんが、天海だと思っています」と答えてくれた。
周知のように、天海は家康・初期江戸幕府の宗教ブレーンとして活躍した天台僧で、亡くなった家康を東照大権現として日光に祀ることを発案したのも彼だった。また山王一実神道という、天台宗と比叡山の鎮守・日吉大社の山王信仰に東照権現祭祀を習合させた神道流派の創唱者でもあったが、この神道のベースになった山王神道には、日吉大社に祀られる7神(山王七社)を北斗七星と同一視するなど、星辰信仰を重視する姿勢がある。
こうしたことからすれば、天海が江戸の北斗七星結界の発案者だったとしても、まったく矛盾はない。彼は江戸にある旧来の将門霊跡に目をつけ、その位置を調整することで強固な北斗七星結界を施すことを考えついたのだろう。
また加門氏は現在、北斗七星結界の霊跡のなかでは、鬼王神社に注目しているという。
「鬼王神社は、輔星といっても予備の星というような軽い存在ではなく、万が一のことがあったとき、7星のすべての役割を肩代わりできるだけの力を持っているのではないでしょうか。将門ゆかりの江戸の霊跡のなかでは、鬼王神社がいちばん強いパワーをもっているのかもしれません」
余談になるが、加門氏は旧著が刊行されてまもなく、夜だったが、神田明神のそばを通ったので、お参りに寄った。すると、だれもいないはずの本殿の中から、バタバタゴトゴトと、人が歩き回るようなものすごい音が聞こえて、びっくりしたことがあったそうだ。北斗七星結界を〝発掘〟した作家を迎えて、将門霊がはげしく鳴動したのだろうか。
ここからは筆者の仮説になるが、江戸の北斗七星結界の根底には、天海の思想や「封じ祀り」のほかに、やはり、北斗七星信仰を内包する将門由来の妙見革命思想への関心もあったのではないだろうか。
家康や江戸幕府が将門を祀る神田明神を篤く崇敬して江戸の総鎮守としたことの背景に、かつての東国の覇者であった武家としての将門に対する尊崇や、朝敵とされた将門を保護することで京都の朝廷を牽制しようとする思惑があったのだろう、というのはよくいわれることである。
だが、その背景のさらに奥には、武家政権や天海が抱いた、革命思想としての妙見信仰へのシンパシーがあったのではないだろうか。そのシンパシーが、北斗七星結界というかたちで表出されたのではないか。
さらにいえば、その北斗七星の柄杓の先に輝く北極星、すなわち宇宙の中心として意識されたのが、江戸の北方に鎮座する、家康の霊廟=日光東照宮だったと思われるのだ。
(2021年6月9日記事を再編集)
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