平将門を導いた北極星と北斗七星ーー関東の妙見信仰が革命へつながった!

文=古銀剛

    平将門を導いたのは星辰信仰だった! 妙見・将門のつながりから歴史を読む。

    将門の叛乱は星の導きだった

    「将門の乱」は東国の平氏一族間の私闘に端を発したものであった。そしてそれが最終的に国家への反乱へと展開していったわけだが、改めてかえりみると、将門が「新皇」を称してはっきりと国家への叛逆の意を示したのは天慶2年12月であり、将門が誅(ちゅう)されたのは翌年2月である。
     つまり、「将門の乱」が反乱として明確にかたちをとったのは、わずか3か月にすぎない。しかも、将門は朝廷派遣軍が現地に到着する前に、土豪の藤原秀郷(ひでさと)によって呆気なく討たれている。
     このような流れをみると、将門という人物が、賊将でも英雄でもなく、成り行き任せで無謀な戦乱を起こした、無鉄砲な田夫野人(でんぷやじん)のように映るかもしれない。「将門の乱」は、はたしてそれほど重要な歴史的事件だったのだろうか──そういぶかる向きもあろう。

     だが、将門は、じつはある確固たる信念・思想のもとにその行動を起こし、ある崇高な理念を胸に抱いて関東独立国家の樹立に挑んでいた。
     その信念・思想とは何か。理念とは何か。──それは、「妙見信仰」である。「将門の乱」の意義は、この妙見信仰を背景としなければ正しく理解できない。

     妙見信仰とは、端的にいえば、北極星・北斗七星の仏教における神格化である妙見菩薩に対する信仰である。その信仰の詳細についてはのちほど触れるとして、ここではまず、将門と妙見信仰の関わりについて触れておきたい。

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    妙見菩薩。仏教における北極星・北斗七星の神格化である。

    合戦中の将門の前に現れた妙見菩薩

    『平家物語』の異本のひとつに『源平闘諍録』と呼ばれるものがある。坂東平氏の武士団の活躍を詳述しているのが特色で、成立期は13〜14世紀といわれている。
     このなかに、治承(じしょう)4年(1180n)、挙兵するも石橋山の合戦に敗れて房総半島に逃れた源頼朝が、頼朝に与くみして戦功を立てた下総の千葉常胤(つねたね)に対し、妙見菩薩について尋ねる場面がある。
     千葉氏──じつは将門一族の末裔──が、妙見菩薩を篤く信奉していたので、どういう経緯で信仰するようになったのかと聞いたのだ。

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    小貝川(蚕飼川)に掛かる愛国橋(茨城県下妻市)。筑波山を遠望する。将門と良兼が合戦したのはこの付近であったと推測されている。

     以下は、頼朝に対する常胤の説明の要約である。

    「承平(じょうへい)5年(935)、平将門と平良兼(将門の伯父)が蚕飼川(常陸国と下総国の境界を流れ、現在は小貝川と書く)で合戦したとき、将門は苦戦して常陸国側から川べりまで追い詰められてしまいましたが、川を渡ろうにも舟もありません。思案にくれていると、将門の前ににわかに小童が現れました。そして、浅瀬を教え、矢を拾って与え、さらに小童みずから弓をとって一度に10矢を射て敵を討ったため、良兼は兵を引き、将門の勝利となったのです。
     将門が小童の前に跪ひざまずいて『あなたはどなたですか』と尋ねると、その童は『自分は妙見大菩薩である。汝は正直武剛なるがゆえに守護した。上野国の花園寺からわれを迎えとれ』と告げて、姿を消しました。そこで将門は花園から妙見菩薩を迎え、崇敬しました。この妙見の加護により、それからわずか5年のうちに将門は坂東8か国を従えるまでになり、新皇と号するにいたったのです。
     ところが、将門は正直さに歪みが出て、政務を曲げて神慮を恐れず、朝威をはばからなくなってしまいました。そのため、妙見菩薩は将門のもとを離れ、叔父でありかつ将門の養子ともなっていた良文のもとに移ってしまったのです。
     妙見菩薩に見放された将門はまもなく滅びますが、妙見菩薩は良文から子の忠頼へと渡り、代々嫡子しが相伝しました。忠頼から数えて7代目が、千葉常胤なのです(6代目常重から千葉氏を名のる)」

     つまり、将門は合戦のさなかに妙見菩薩の影向(ようごう)に遭い、その妙見の加護を受けて戦勝し、関東全域を支配するまでにいたった。そして、妙見菩薩守り本尊として熱心に信仰した。
     ところが、驕慢(きょうまん)に陥ったため、妙見の利生を失い、たちまち横死したというのである。

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    鎌倉幕府創立に貢献した千葉常胤の像(千葉市中央区中央の通町公園内)。千葉氏は将門の末裔で、将門ゆかりの妙見信仰を継承した。

    星辰信仰が古くから根づいた関東地方

     蚕飼川の合戦は『将門記』にも言及されているが、千葉氏の遠祖である平良文のことは触れられておらず、良文と「将門の乱」の関係ははっきりしない。したがって、『源平闘諍録』の妙見奇瑞譚が、自家の系譜を将門と結びつけるために千葉氏によって創作されたものである可能性も排除できない。
     だが仮にそうだったとしても、将門が妙見信仰を抱いていた可能性は十分にある。
     なぜなら、将門が根城とした利根川流域の関東平野は、はやくから妙見信仰が根づいた土地柄だったからだ。
     妙見信仰は仏教と中国の民族宗教である道教が習合して発展したものだが、日本へは、飛鳥時代の7世紀に朝鮮半島からの渡来人によってもちこまれたとみられ、当初は畿内を中心に広まった。だがその後、関東にも広まりはじめる。妙見を信奉する渡来人が関東に移住したことが、その主たる要因と考えられている。

     このことを証しするように、関東地方には妙見信仰に由来する寺社が数多い。現在は表向きは妙見信仰と関係ないような神社でも、「星」「星宮」を社名に含む神社は、じつは江戸時代までは妙見菩薩を祀る妙見宮だったところが多いのだ。
     そして、そうした関東の妙見寺社のオリジンとなっているのが、8世紀初頭の創建とされる群馬県高崎市引間町花園の妙見寺(古くは七星山息災寺といった)で、この寺こそが、将門に示現した妙見菩薩が鎮座していた「上野国の花園寺」にほかならない。
     もちろん、関東の妙見寺社はすべて将門の時代以前からあったわけではなく、将門やその後裔の妙見信仰の影響を受けてつくられたものも当然多いだろう。だが、これだけの広まりをみたのは、やはり関東に妙見信仰が古くから浸透し、素地をなしていたからではないだろうか。

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    花園の妙見寺の妙見堂(群馬県高崎市引間町)。古くは七星山息災寺(しちせいざんさいそくじ)と称し、奈良時代の創建と伝えられる。妙見菩薩を本尊として、関東の妙見信仰の震源となった。

     ちなみに、「関東には、妙見信仰に先行して北斗七星信仰が奈良時代以前から広まっていた」とする興味深い説が近年出されて注目を集めている。この説を唱えるのは古代史に造詣の深い作家の西風隆介(ならいりゅうすけ)氏で、同氏によれば、埼玉県行田市のさきたま古墳群(5〜7世紀の築造)の古墳配置は北斗七星の形を模したものだという。
     関東には星辰信仰の土壌が太古から整っていた。だからこそ、妙見信仰がまたたくまに広まったと考えることもできよう。

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    西風隆介氏の『神神の契約』(ビジネス社)より、さきたま古墳群(埼玉県行田市)と北斗七星の関係図(図上)と、北斗七星図(図下)。尻尾(下端)から2番目の星がふたつの古墳の狭間になっているのは、この星が二重(アルコルとミザール)であることを示しているのだという。関東には太古の昔から星辰信仰があったのだ。https://web-mu.jp/history/11028/

    「将門の乱」を支えた革命思想=妙見信仰

     さて、ここで何よりも重要なのは、将門が妙見信仰を抱いていたと仮定すれば、「将門の乱」の本質をすんなり理解できる、ということだ。

     どういうことか、説明してみよう。
     妙見信仰のひとつのルーツは古代中国の北極星信仰にある。天の北極にあって不動を保つ北極星は北の方位を知る重要な星とされ、また至高の星ということで信仰の対象ともなってきた。中国では北極星は北辰(ほくしん)とも呼ばれ、天界の王になぞらえられて崇拝された。北極星のそばを周回する柄杓形の北斗七星も、北辰とならんで神聖視された。のちに北極星と北斗七星は混同視されるようになり、両者への信仰は習合してゆく。
     この北辰・北斗七星の化現(けげん)とされたのが、妙見菩薩なのである。
     妙見菩薩は天の中心を座所とすることから、人の運命を支配し、国土を守護する至高の神として信仰され、その霊験が説かれた。また、北斗七星の第7星が「破軍星(はぐんせい)」と呼ばれたことから、妙見菩薩は軍神としての崇拝も受け、武家の信仰も集めた。

     しかし、妙見信仰にはもっと重要な性格があった。『妙見菩薩陀羅尼経(だらにきょう)』という経典に、つぎのような一節がある。
    「若し諸の人王、正法を以て臣下を任用せず、心に慚愧なく、暴虐濁乱を恣ままにして、諸の群臣・百姓を酷虐すれば、我れ能く之を退け、賢能を徴召して其の王位に代らしめん」
     もし王が正しい仏法の教えにもとづいて部下を任用せず、それを恥じ入らずに暴虐にふけり、家来や人民を苦しめ虐げるのであれば、私はこれを退け、賢く才能のある者を召し出し、新たな王に据えるだろう。──妙見菩薩は、そう説いているのである。

     要するに、「もし私によく帰依(きえ)するならば、この妙見が民衆を抑圧する為政者を追放し、もっと有能な王を連れてきてあげよう」といっているわけだ。

    2_6・アタリ北斗七星図
    北極星と北斗七星。妙見菩薩はこれらの化現とされた。

     さらに同経は「もし民を慈しむ賢者が国にいたら、私はその者を選び出して用いるだろう」とも述べている。これはいうなれば専制君主政治の否定であり、王朝交替をも辞さない、デモクラシーすら連想させる社会改革的な思想である。革命思想を秘めているといっても過言ではない。 

     侠気(きょうき)に富んだ将門を魅了したのは、妙見信仰のそんな革命性ではなかったか。「将門の乱」とは、妙見信仰を核とした革命闘争ではなかったか。
     翻って「将門の乱」当時の関東の政治状況を考えてみると、各国では中央から派遣された平安朝貴族が国司となって統治を行っていた。だが、国司たちは、中央からの目が届かないことをいいことに、往々にして私欲に汲々とし、善政を忘れて民衆の収奪にふけった。そして治安は乱れ、盗賊・流人が横行した。
     そこで立ち上がったのが、デモクラシー的な妙見信仰に支えられた兵・平将門であったのだろう。彼は事実、次次に国司を追放し、妙見の霊験にあずかって、わずかな期間とはいえ、新たな王となったのだ。
     だが旧来の保守層からすれば、妙見信仰とは自身の地位を脅かす危険思想以外のなにものでもない。天皇・朝廷が将門の妙見革命に震えあがり、躍起になって彼を抹殺しようとしたのも、ある意味では当然のことであった。
     その一方、妙見菩薩は、新皇を称して正直さを失って驕だした将門に不信を抱き、結局は彼を見捨ててしまったのである。
     将門の首塚とは、封印された妙見信仰の墓標でもあったのだ。

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    希代の英傑・将門を描いたレリーフ。将門の生誕地とされる豊田館の跡地に建つ(茨城県常総市向石下)。

    青森の北斗七星結界

     ちなみに、青森の津軽地方のいい伝えに「大北斗七星伝説」というものがある。北斗七星の形に7つの神社が配置されているというもので、それは大星神社(青森市)、浪岡八幡宮(青森市)、猿賀神社(平川市)、熊野奥照宮(弘前市)、岩木山神社(弘前市)、鹿島神社(西目屋村)、乳井神社(弘前市)からなる。平安時代、東北を平定した坂上田村麻呂は、岩木山を中心にして7社を建て、それぞれに武器を奉納した。
     その際、彼はそれらの位置が北斗七星をかたどるようにし、津軽の鬼神を封じたのだという。伝説の域を出ない話だが、地図上でみると、7社の配置はたしかに北斗七星形をなしている。とても偶然とは思えない。妙見信仰は関東だけでなく、東北にまで広まっていたのだろうか。

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    (2021年6月9日記事を再編集)

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