陰陽師・安倍晴明と新皇・平将門の因縁を探る!立石・熊野神社の謎/菅田正昭

文=菅田正昭

    東京に伝説的陰陽師・安倍晴明とゆかりの深い神社がある。正五角形の境内は陰陽五行説にもとづいているのだという。一方で、この神社一帯には太古の霊石信仰の痕跡も残されていた!

    正五角形にかたどられた境内

    熊野神社の社地は、上空から見ると、たしかに正五角形になっている。現在、右半分は神社に併設される幼稚園の敷地になっている(©Google Inc.)。

     東京都葛飾かつしか立石たていしに鎮座する五方山熊野ごほうざんくまの神社は、陰陽師の安倍晴明(921〜1005)が勧請かんじょうした神社として最近、注目されてきた。安倍晴明の紋は陰陽五行説に基づく五芒星ごぼうせいだが、立石熊野神社の社地は一辺が30けん(約55メートル)の正五角形なのだ。
     江戸時代の文化ぶんか文政ぶんせいのころ(1804〜1830)、幕府の昌平坂しょうへいざか学問所地理局が編纂した地誌『新編武蔵風土記稿しんぺんむさしふどきこう』(以下『記稿』と略す)には、「社地は五行にかたどりて五角なりしと、今もそのかたち残れり」と出てくる。

     同神社のHPを見ると、ドローンが見下ろした映像が載っているが、社地はたしかに正五角形=聖五角形である。
     そのあたりの不思議感や霊性がパワースポットして注目されるのだろう。

    東京東部の葛飾区立石に鎮座する五方山熊野神社。創建は今から1000 年以上前の平安時代中期で、熊野大神を勧請かんじょうしたのはこの地に立ち寄った安倍晴明だったと伝えられている。現在の主祭神は伊邪那岐いざなぎの神。

    熊野本宮大社を彷彿させる「洲」の光景

     まずは土地の霊性である。社殿を背に鳥居を望むと、まっすぐ参道が延びている。その突き当たりに土手が見えるが、その向こう側は中川である。隅田川と利根川の間を流れているからだ、といわれている。

     少々ややこしくなるが、中川は、江戸初期からはじまった、利根川下流域の付け替え河川工事の東遷とうせん鹿島灘かしまなだに注ぐようになるまでは、利根川の本流だった。当然、上流からはたくさんの土砂が流れ込んでくる。
     京成青砥けいせいあおと駅から中川の土手に沿って歩いてくると、青戸1丁目に旧地名の「淡野須あわのす」を冠した福森稲荷神社があるが、その旧地名は「泡のような」の意だ。もちろん、熊野神社の鎮座地も古代は洲だった。

     全国の熊野神社の総本宮の熊野大社(熊野本宮ほんぐう大社・熊野速玉はやたま大社・熊野那智なち大社)の根本宮の、和歌山県田辺市本宮町の熊野本宮大社(式内しきない紀伊きい牟婁むろ郡 熊野にます神社」)は、明治22年(1889)の大出水まで熊野川の中洲(大斎原おおゆのはら)に鎮座していた。安倍晴明が立石の地に熊野神社を勧請したのも、熊野の大斎原と彷彿とさせる光景が展開されていたからではないか、と推測される。
     ちなみに、安倍晴明と熊野との関係は、立石熊野神社の社伝によれば、花山かざん上皇が那智山中で修行をされていると、天狗が邪魔をしたので、それを封じるため呼び寄せられ、上皇とともに3年間の滝行と山籠もりの行をしたことにはじまったという。

     じつは、熊野系や権現系の神々は、国と国、郡と郡、村と村の境の神として祀られることが多い。立石熊野神社の場合は、旧葛飾郡の西葛西かさい領と東葛西領の境に位置している。というよりも、古江戸湾(東京湾)の、海と陸地の境にあるといったほうがよい。とりわけ、海と陸地の境の汽水域の洲は、伊邪那岐命いざなぎのみこと黄泉国よみのくにの穢れを筑紫つくし日向ひむかたちばな小門おど阿波岐原あわぎはら禊祓みそぎはらえされたように、清浄な場所だった。まさに安倍晴明が選定した場所としてふさわしいものだった。

    江戸時代の立石。図の左 上付近に小さく「くまの」 とあるのが熊野神社。水量の豊かな中川の西岸に古くから鎮座していた。『江戸名所図会』より。
    五方山熊野神社のご神紋。熊野神の神使である八咫烏やたがらすを、安倍晴明の陰陽五行説を象徴する正五角形が囲んでいる。
    和歌山県の熊野本宮大社近くにある大斎原おおゆのはら斎庭ゆにわ。明治時代なかばまで本宮大社は大斎原に鎮座し、当時そこは熊野川の中洲になっていた。熊野信仰の本源は、「洲」であったのだ。

    ご神体の「石剣」と「立石様」が示す石信仰

     次なる霊性は地名の「立石」だが、立石の名称は同神社のご神体に由来している。
    『記稿』巻之二十三・葛飾郡之四・西葛西領「立石村」によれば、「立石村は村内熊野社の神体立石なるより起これる村名なり」と出てくる。そして「神体は石剣せきけんけんにしてたけ二尺あまり」とある。

     天保てんぽう年間(1830〜1844)に刊行された江戸とその周辺についての、地誌を兼ねた観光案内事典でもあった『江戸名所図会ずえ』の巻之七(揺光ようこう之部)「熊野権現」には、「神体は一箇の霊石れいせきにして〔長二尺八寸ばかり、囲みもとにて二尺ばかり、末にて六寸あまり、その形傘からかさをつぼめたるがごとし〕、その余、武州練馬ぶしゅうねりま石神井しゃくじい村石神井のやしろ、及び多磨郡たまぐん阿佐ヶ谷あさがや神明しんめい等の神体の霊石、いずれも其形あい似たり」と紹介されている。つまり、石剣じたいが石神しゃくじんなのである。

     じつは、立石熊野神社の西250メートルに「立石様」と呼ばれる東京都指定史跡がある。史跡の前には小さな鳥居があり、稲荷神社として祀られている。
    『記稿』には、「立石稲荷と号す。これも神体石にて直径二尺ばかり、高さ一尺程、下は土中に埋り、其形伏し牛に似たり。この石冬は欠け損じ、夏に至れば元の如くなれり。かくさむさにかけあつさいえるという活蘇かつそ石なるへし」とある。
     すなわち、こちらも立石の地名起源となっている。この立石稲荷神社は小さな児童公園の中の、社殿もない小さな稲荷で、肝心の立石様もほとんど土中に埋まっている。それは戦時中、立石様が弾除けになると削られて御守りになったことにも原因があるらしい。

     葛飾区教育委員会が設置した立石様の案内掲示にはつぎのようにある。
    「立石は、中川右岸に形成された自然堤防上に位置する石標です。石材は千葉県鋸山のこぎりやま周辺の海岸部で採集された、いわゆる房州石ぼうしゅういしで…(中略)…もともとは、古墳時代の石室を作るためにこの地に持ち込まれた石材と考えられます。
     一般的に『立石』という地名は、古代交通路と関係が深い地名で、岐路や渡河点などに設置された石標に因むとされています。…(中略)…この立石は古代東海道の道標として建てられたと考えられます」

    五方山熊野神社のご神体である石剣を描いた、非常に珍しい江戸時代の図。「立石」という地名の起こりは、この石剣だという。熊野神社の社誌より。
    立石という地名のもうひとつのルーツである「立石(様)」と呼ばれる奇岩を描いた図。熊野神社から歩いて数分の場所にある。『江戸名所図会』より。
    現在の「立石」。児童遊園地内に、祠のようなかたちで保存されている。
    「立石」そのものは、かなり削り取られてしまったため、ご覧の通り、地上部分はほとんど残されていない。

    周辺一帯にみえる立石信仰の痕跡

     じつは、立石熊野神社の鳥居の前にはかつて古墳(熊野神社古墳)があり、明治の初めまで別当だった真言宗( 豊山ぶざん派)南蔵院なんぞういん(山号・五方山)にも南蔵院裏古墳があった。当然、石室もあったはずだが、立石様を石室の石材と決めつけるのはどうかと思う。それというのも、立石様や石剣を縄文信仰の男根状の陽石と考える人が多いからだ。

     たしかに、立石周辺の土地は弥生やよい時代ごろ形成されたと考えられる。だが、それ以前の土地がまだ水母くらげなす状態のとき、伊邪那岐と伊邪那美の両神があめ沼矛ぬほけを降ろしたように、石剣を立てて漂う土地の修理固成しゅりこせいを行ったのではないだろうか。ちなみに、中川の源流は埼玉県羽生はにゅう市にあるが、ハニュウ(埴生)のはには「質の緻密な黄赤色の粘土」(広辞苑)のことである。
     熊野神社古墳からは土師器はじき須恵器すえきが出土しているが、埴を捏こね、器を作るとき石棒が使われたのかもしれない。
     というよりも、立石周辺には、広く立石信仰があったと想像できる。たとえば、京成立石駅近くの立石8丁目に鎮座する(立石)諏訪すわ神社がそうだ。

     ここは立石熊野神社の兼務社だが、諏訪信仰の根っこにはミシャグジ信仰がある。長野県の諏訪地方一帯に広く分布する民間信仰で、御射宮司・御佐口神・御社宮司・釈護子……等々、さまざまに表記される。かつて全国の諏訪神社の本宮の、諏訪大社(式内「信濃しなの国諏訪郡 南方刀美みなかたとみ神社二座〔名神大みょうじんだい〕」)の神長官じんちょうかんだった守矢もりや氏のやしき( 茅野ちの宮川高部みやがわたかべ)には、御頭御射宮司総社おとうみしゃぐじそうじゃがあり、ミシャグジ神が祀られている。守矢氏は物部守屋もののべもりやの末裔と称し、建御名方神たけみなかたのかみの入諏以前から国津神洩矢もれやの神を奉祭してきたが、石神はミシャグジ神で、縄文信仰の神だといわれている。葛飾区には諏訪神社が4社もあるのは、ミシャグジの石神が立石信仰圏に隠されているためと考えられる。

     おそらく、葛飾区と江戸川区にまたがる小岩(新小岩と東・西新小岩は葛飾区、小岩と東・西・南小岩は江戸川区)にも、「立石」形式による石神信仰があったと思われる。

     じつは、葛飾郡は17世紀まで武蔵むさし国ではなく下総しもうら国に属していた。 
     奈良東大寺の正倉院御物しょうそういんぎょぶつに「養老ようろう五年(721)下総国葛餝かつしか大嶋郷戸籍おおしまごうこせき」があるが、そこには大嶋郷1191人中612人の名前・年齢が記載されている。そして、大嶋郷には甲和かわわ里・仲村なかむら里・嶋俣しままた里の3つの里(邑=村)があった。このうち嶋俣はフーテンの寅さん所縁の柴又(葛飾区)、甲和は小岩に比定されている。
     すなわち、柴又は嶋俣の音韻変化で本来は「島が股のように複雑に入り組んだ地形」を意味し、甲和は「河輪かわわ」の意で周囲が水に囲まれた「輪中わじゅう」地形をさす。その甲和が音読みされてコウワとなり、立石信仰に引きずられて「小岩」になったものと考えられる。
     下総国大嶋郷は中川・荒川・江戸川に囲まれた、まさに島(=洲)だったのである。

    長野県茅野市に鎮座する御射宮司総社。石神信仰の一種であるミシャグジ信仰の本源である。

    立石・熊野・晴明を囲む平将門の霊性

     ところで、下総国といえば、東国王朝の樹立を目前にして挫折した平将門(903?〜940)の影がチラつく。
    新皇しんのう」を名乗り、幻の「坂東ばんどう王国」「東国王朝」の首謀者(皇帝)だったが、朝敵となって滅ぼされた。作家・荒俣宏氏は『帝都物語』およびその系列の作品で、帝都東京の守護神、関東の大地霊として描いている。江戸っ子とその末裔にはショーモン(将門)様は今なお人気なのである。なにせ「江戸っ子だってね、こちとら神田の生まれよ」の、神田明神の祭神だ。その新皇将門は下総を中心に、常陸ひたち・武蔵・下野しもつけ上野こうずけの5か国を統治しようとしたわけである。

    将門の本拠地があった茨城県坂東市にある、平将門の騎馬像。 将門は朝廷に反乱して関東に独立王国を築こうとした。

     討たれて首を取られて京都に送られ獄門に架けられたが、3日後には白光を放って東方に飛び去り、武蔵国豊島としま柴崎しばさき村に落下した。現在の東京都千代田区大手町1丁目である。ここは神田神社の発祥地であるとともに、都旧跡・将門塚(将門の首塚)がある。

    東京・大手町のビル街にある将門塚。 朝廷側に敗れた将門の首がここに埋められたと伝えられている。

     将門は若いころ、相馬そうま小二郎を名乗ったが、その子どもの将国(別名、信田しのだ小太郎)が、にわかには信じがたいが、安倍晴明だという伝説がある。
     
     晴明は人間の父(安倍保名やすな)と白狐びゃっこの化身の女(葛の葉)との間に生まれた子どもという伝承があるが、母が5歳の童子丸どうじまる(晴明)と別れるとき詠んだ歌が有名な「恋しく尋ね来て見よ和泉いずみなる 信太しのだの森のうらみ葛の葉」である。この「和泉なる 信太の森」は和泉国和泉郡(大阪府和泉市)の信太の森のことだが、「晴明=将門の子」説は、常陸国の霞ヶ浦かすみがうらの古名を信太浦といい、その西南部に信太郡(のち稲敷いなしき郡)があり、和泉という地名はそこにもある、ということを根拠にしている。ちなみに、信太郡は現在の土浦市・牛久市・稲敷市・稲敷郡美浦みほ村・阿見あみ町の周辺である。

     将門に発する相馬氏や、関東平氏の千葉氏は妙見みょうけん信仰を持っている。北極星あるいは北斗七星を神格化した妙見菩薩を祀る信仰である。おそらく、その淵源は『日本書紀』神代じんだい下・第九段の本文「注」と第二の「一書あるふみ」に登場する埋没神の星神香香背男かかせおにたどりつくのではないだろうか。立石の五方山熊野神社の五角形も、その星に由来していると考えられる。
     ところで、立石の五方山熊野神社の千島俊司ちしまじゅんじ宮司は、日本中央競馬会職員を経て神職となった異色の経歴の持ち主だが、権禰宜ごんねぎとして神田神社に奉職していたことがある。義父の先代宮司大鳥居信史師は神田神社の宮司の経歴を持つ。立石熊野神社は安倍晴明だけでなく、平将門の霊性にも囲まれているのだ。

    安倍晴明像(五方山熊野神社蔵)。晴明は将門の子孫だったという伝説がある。
    茨城県筑西市猫島にある晴明井戸。晴明の産湯に用いられたと伝えられ、五角形になっている。将門の本拠に近い猫島には、ここを晴明出生地とする伝承がある。
    晴明紋(桔梗紋)。 五芒星の形は陰陽五行説を表していて、 5つの突起を直線でつないでゆけば五角形になる。

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