柳田國男が故郷で河童に襲われていた! 民俗学の父に妖怪を体験させた故郷・福崎町の不思議

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    「妖怪の町」はすべてこの人からはじまった。日本の妖怪文化にも大きな功績を残す民俗学者・柳田國男の足跡をめぐる。

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    日本民俗学の父・柳田國男

     ガジロウ誕生のルーツでもあり、福崎町では「町の宝物」ともいわれる柳田國男。しかし、名前は聞いたことあるけれど詳しくは知らない……という人も少なくないのでは。

     ごくごく簡単にまとめれば、柳田國男は日本に民俗学を確立した草分けのひとりで、現代につづく妖怪文化にも大きな影響を与えた人物だ。

    柳田國男像。福崎町立柳田國男・松岡家記念館のそばで町を見守っている。

    「民俗学」とは、ごくざっくりまとめれば、特別ではないふつうの人たちの生活や文化について記録し、研究する学問のこと。柳田國男は、宮崎の山村に伝えられていた狩猟にまつわる文化や、岩手県遠野地域に伝わっていた怪談や伝承を本にまとめているが、柳田たちがはじめたこうした活動がなかったら、日本の各地でふつうの人たちが伝えてきた文化や伝承は、時代の流れとともに忘れられ、失われていたかもしれない。
     柳田の最も有名な著作のひとつ『妖怪談義』は、全国の怪異伝承をまとめた妖怪研究の先駆けとされる本で、その書き出しは「化け物の話を一つ、出来るだけきまじめに又存分にして見たい」となっている。もしも柳田國男が存在しない世界線があったなら、そこでは妖怪の話をきまじめに、存分にしたい人たちは、迷信好きな変わり者扱いされ、河童もザシキワラシも小豆洗いも一つ目小僧も、文明開化以前のしょうもない話として消え去っていたかもしれない。

     そう考えれば、いま日本人が妖怪を楽しみ愛していられることの何割かは、柳田國男先生のおかげといっても過言ではない……かもしれないというくらい、日本の民俗文化の記録、研究に大きな足跡を残した人なのだ。

     と、そんな基本情報をおさらいしてリスペクトを高めたところで、福崎町の史跡をめぐりながら柳田國男の幼き日々に思いをはせてみよう。

    民俗学志向の原点 柳田國男生家

     柳田國男は明治8年(1875)、飾磨県の辻川村、現在の兵庫県福崎町辻川にある松岡家の6男として誕生した。生まれ育った家について、國男は『故郷七十年』という回想録のなかで「日本一小さい家」と書いているのだが、その生家は現在、ガジロウが潜む池のある辻川山公園の一角に移築保存されている。

     昔話にでも出てきそうな、ザ・日本の民家というたたずまい。しかし小さいは小さいながら「日本一」というほどでもなさそうな……。だが、このことばの背景には松岡家をめぐる複雑な環境があったようだ。

     辻川で医師を営んでいた國男の父・操と母・たけの間には、國男含め男ばかり8人もの子供がいて、しかも長男の鼎が結婚してからはこの家に二組の夫婦が同居することになった。必然的にさまざまなトラブルがあり、結果的に兄夫婦は離婚、その後兄も家を出ることになる。國男は『故郷七十年』で、この小さな家に住んだという運命によって「私の民俗学への志も源を発した」とも書いている。民俗学者・柳田國男の根本的なルーツがこの家にあるといえるのかもしれない。

    辻川山公園のガジロウ・ガタロウ物語

     ところで、ガジロウが出没する辻川山公園のため池のほとりに立つ看板には、こんな物語が書かれている。

     福崎町を流れる市川には駒ヶ岩という大きな岩があり、二匹の河童がここで子供を川に引っ張り込んでいた。やがて河童を怖がる子供たちは誰も川遊びをしなくなってしまい、反省した河童の兄弟は柳田國男先生に謝ろうと辻川山公園までやってきた。しかし待ち続けている間に兄河童は頭の皿が乾いて固まって動けなくなってしまった。弟の河童は今でも池につかって柳田先生が帰ってくるのを待っている。

     福崎町の人気者ガジロウはじつは兄弟の河童で、池のほとりで固まってしまったのが兄ガタロウ、弟がガジロウという設定になっているのだ。

    ガジロウの兄ガタロウ。看板には「動くかもしれないので皿に水をかけないでください」との注意が。

     市川の駒ヶ岩周辺は川の流れが急でよく子供が溺れる場所として知られ、昔はこれを河童(地元のことばではガタロ)が川に引きずりこむためだと言い伝えていた。國男もここで溺れかかったことがあり、そんな幼少期の経験がやがて『遠野物語』や『妖怪談義』の誕生につながっていったのだ。

    頭の皿が乾かないよう、池の中で柳田國男を待つガジロウ。

    勉学の原点 大庄屋三木家住宅

     幼い頃の國男はかなりのやんちゃ坊主で、手を焼いた父によって一年ほど近所の旧家、三木家に預けられたことがあった。三木家の蔵には先代当主が収集した膨大な蔵書が残されていて、國男はその書物蔵に自由に出入りし、家の人が心配してのぞきにくるほど読書に没頭した。
     のちに「私の雑学風の基礎はこの一年ばかりの間で形作られたやふに思ふ」「三木家の恩誼を終生忘れることができない」と回想しているように、何千冊もの本を読みふけったこの家での経験も、民俗学者・柳田國男を誕生させる大きなきっかけとなったようだ。

    NIPPONIA 播磨福崎蔵書の館。

     三木家は現在、県指定文化財・大庄屋三木家住宅として保存、公開されている。またその一部は「NIPPONIA 播磨福崎蔵書の館」という宿泊飲食の総合施設に改修されている。

     宿泊棟は蔵を改装したもので、壁には妖怪や民俗学関係の本がずらっと並ぶ。柳田國男になった気分で泊まりながらたっぷり本が読めてしまうお宿は、日本でもここだけだろう。

    書籍に囲まれた空間づくりは幼少期の國男に通じる体験となりそうだ。

    怪談収集のはじまり? 鈴の森神社

     鈴の森神社は、柳田國男ファンのあいだでは有名な神社だそう。幼い柳田國男がここの狛犬にまたがって遊んだのだとか。また國男は、鈴の森神社にまつわるこんな不思議な話を聞かされて育った。

     辻川村では、子供たちが夕方まで遊んでいると白髪のおじいさんが現れて「我は鈴の森じゃ、家で心配しているからはよう戻れよ」と声をかけていく、ということがしばしば起こっていた。そして、それを聞いた大人たちは「ああ、それは明神さんに違いない」と納得していた。

     遅くまで遊ぶ子を怖がらせるための大人の作り話だったのか、國男はこんな話をいくつも聞かされたという。もし本当であれば今なら即「事案」扱いだが、昔はおおらかだったということだろうか。またこうした思い出は國男を「神隠し」伝承への興味にも導いていく。辻川には、柳田國男を妖怪や民俗学の道に向かわせるさまざまな不思議があったのだ。

     鈴の森神社の話も『故郷七十年』で触れられている。柳田國男がいた頃からあった境内のヤマモモの木も健在。

     この薬師堂は村の犬が子供を産む場所になっていて、國男は子犬が生まれるたびに見にきていたそう。薬師堂のすぐ横には空井戸があり、國男の父・操は明治維新前後に一時期心を病んでいた頃、一晩中この井戸の底にこもっていたことがあったという。

    福崎町立柳田國男・松岡家記念館

     國男は27歳で柳田家に養子に入り「柳田國男」となるのだが、國男のほかも松岡家の兄弟はそろって超優秀だった。長男の松岡鼎は小学校の校長や医者、議員などを歴任した名士で、3男の井上通泰は眼科医から貴族院議員に。6男が柳田國男で、7男松岡静雄は海軍大佐、8男松岡映丘(輝夫)は日本画家として活躍、多くの弟子を育てた(2、4、5男は早世)。

     そんな松岡五兄弟の事績を詳しく学べるのが、生家のすぐそばにある福崎町立柳田國男・松岡家記念館だ。柳田國男の蔵書や写真、貴重なインタビュー映像などをじっくりとみることができる。

    福崎町立柳田國男・松岡家記念館。

     生家をはじめこれらのスポットはすべて辻川山公園を中心に徒歩10分ほどの範囲にあって、見てまわりやすいのもありがたいところ。『故郷七十年』や『妖怪談義』を読んでから福崎町を訪れたら、より楽しむことができそう。

     妖怪の町、そして柳田國男生誕の地・福崎。「妖怪町おこし」成功の先に、まだまだ大きなポテンシャルが秘められているようだ。

    鈴の森神社に奉納された絵馬にも、松岡五兄弟を描いたものが。地域での敬愛が伝わってくる。

    webムー編集部

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