1963年から続く神事「キリスト祭」と謎の舞踊「ナニャドヤラ」! 伝承が伝統となる信仰的文化の現在地
村民自ら「奇祭」と称する「キリスト祭」を現地取材。古史古伝を受け入れ、伝統文化に織り込む神事の実体とは……。
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70年代の大衆的オカルトブーム最後の花火として1979年に打ち上げられた「ムー」。ではそもそも70年代に日本でオカルトがブームとなった背景は? 近代合理主義への対抗が精神世界という言葉以前の現実問題だった当時、世界の変革と理想を「不思議」に託してぶちあげた大人たちがいた——。 ときには政治的にもなりえた熱きムーブメントを振り返る。(全4回予定) 語り手は、日本オカルト界の大御所・武田崇元氏!
目次
さきほども言ったように70年代にはデニケンだとかノストラダムスだとかのおかげでオカルトはポピュラリティは獲得していきますが、そういうのではないガチのオカルト、それも日本的な深層オカルト、神道オカルトが、『ウエツフミ』やら『竹内文献』などの超古代史と連続するかたちで存在することが、だんだんと見えてきたわけです。 実際、70年代に入ると水面下でガチな人々の動きが活発になってきます。それはほとんど共時的といってもよい現象でした。
1970年10月にはカタカムナ(兵庫県六甲山中にかつて存在していたとされる超古代文明の文字を用いて書かれた文献)の楢崎皐月(ならさきさつき)の高弟だった宇野多美恵が主宰する相似象学会から『相似象』誌の刊行がはじまります。今でこそカタカムナのイヤシロチ、ケガレチなんてオカルトとかスピの人ならみんな知ってますが、当時は誰もそんなものは知らなかった。 同じ年の12月に神理研究会という神道系の小さな結社が結成され、機関誌として『さすら』が刊行されます。主宰者の金井南龍という人は来歴がよくわからないのですが、もともとは実業家で自動車の販売店をやっていたようなことを聞いた記憶があります。それを捨てて50年代半ばから全国の山野を跋渉し、「滝の行者」の異名をとった方です。易者でもあり、そちらのほうではけっこう知られていたようです。
もちろん『さすら』誌なんてタイプ印刷の同人誌ですから、その辺の本屋で売ってるわけじゃあない。『相似象』はちゃんとした活版印刷でしたが、宇野さんはそれをうんと売りたいかというとそうではない。選ばれた人だけが読めばいいという姿勢なので、家まで行って名前、住所書かなきゃ売ってくれない。行ってちゃんと彼女の講釈を聞いた人だけが買えたわけです。
蛇の道は蛇と言いますが、年配のガチ一筋の人たちと交流するうちにいろんな情報が入ってきて、そういうところにたどりつくわけです。
当時、下北沢に鴨書店という古本屋があって、そこにこういう方面の古本があるということがわかって、そこで『さすら』誌も売っていました。
実際に金井南龍さんと会ったのはもっと後で、『復刊地球ロマン』をはじめてからかもしれません。いつ頃からか「さすらの会」という月例会をやるようになって、そこへ行くようになってからかもしれません。
神理研究会は小さな団体でしたがその影響力は大きかった。いろんな連中が関係していて、国家神道、神社本庁に対するカウンター神道界の実質的な交換センターとして機能していました。
そのエッセンスは1975年12月から翌76年3月まで3回にわたって行われた「かみさまのおはなし」と題する座談会に集約されています、これは今でも八幡書店で販売してますので、ぜひお読み頂きたいものです。
徳間書店の守屋汎さんから頼まれたわしが「かみさまのおはなし」のエッセンスをまとめたのが『神々の黙示録』で、それはもっと後の1980年のことです。
金井南龍さんはみずからの霊的体験にもとづき天皇制を相対化する視点を持っていました。天皇制が続いたのは天皇が神聖なんではなく倭姫が張り巡らせた元伊勢の結界のおかげなんだけれども明治になって外に出ちゃったからもうダメだとか、はるか古代にあった白山王朝を天皇家が滅ぼし、菊理姫はじめ白山系の神々を幽閉したのを自分が昭和38年8月9日に嵐の中を白山に登って皇軍霊団と戦って解放したとか、すごいんだよ。
だけど、一方でがちがちの天皇主義者の小泉太志命(たいしめい)とかも同志会員になっていた。当時の『さすら』誌は巻末に「原稿募集」と書いてあって、べつに金井南龍さんの霊学の信奉者じゃなくても誰でも投稿できる裏神道の同人誌みたいな感じになって、表紙には毎号、吾郷さんが提供するさまざまな神代文字が掲載されていました。
それで1975年あたりからこのような状況に対して介入していくことになるわけです。まず大陸書房から武内裕というペンネームで『日本のピラミッド』を出した。これは日本超古代史の脱構築の試みでした。
新左翼も70年代になると分解していきます。最初はスターリン主義、既存の共産党に対する批判からはじまって、わしらこそほんまのマルクス主義なんや、というスタンスだったわけですが、いやマルクス主義そのものもあかんのとちゃうか、という人たちも出てきたわけです。
先進国のプロレタリアートは堕落しとる、もうあかん、資本主義を打倒する変革の主体はマイノリティであり先住民やと、そういう流れで太田竜さんなんかはアイヌ問題にのめりこんでいくわけです。
それでわしは先住民とは何ぞやと考えた。そうするとどうも『ウエツフミ』とか『竹内文献』とかが臭うわけです。ああいう文献が主張する超古代王朝こそが日本先住民の王朝とちゃうんかと。たしかに『ウエツフミ』にしても『竹内文献』にしても『富士宮下文書』にしても、ベタに読むと天皇家が神武天皇以前からあったという超皇国史観で構成されている、しかしそれは後世のカモフラージュだろと、そういう理路をふつふつと考えとったわけやな。
そうするとうまいぐあいに1975年に『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』が「市浦村史資料」として刊行された。
これ、ビンゴやないか!
というわけで、『東日流外三郡誌』とカタカムナと藤森栄一の縄文農耕論を媒介にして、酒井勝軍(かつとき)の『太古日本のピラミッド』、『竹内文献』、日本ユダヤ同祖論を脱構築して『日本のピラミッド』をちゃっちゃっちゃっと書きあげた。
ざっくりいうと、かつて日本列島に原ユダヤ=原日本人が統治する理想郷があった。それはカタカムナ超科学にもとづき造営するピラミッドやストーンサークル、磐境(いわさか)をエネルギー源とする高度な共産主義社会で、1万2000年前の天変地異によって崩壊する。その末裔は退化して縄文人となり断片的に継承された古代科学で一定の文明を維持するが、大陸から渡来した天皇家によって征服されたという内容でした。
超古代王朝と天皇制を切断するというこのスキームは、大枠としてそれ以降のオカルト的な古代史のベースとなったと思います。
『日本のピラミッド』が1975年12月で、翌76年7月には『日本の宇宙人遺跡』を出し、8月から『復刊地球ロマン』の編集に携わることになります。これ振り返ってみれば、ものすごい濃密な時間軸のなかでやっていたわけです。
当時、絃映社という出版社がありました。オーナーは林宗宏さんという人で、これがなかなか凄い人で、日本のエロ本業界を作ったみたいな人でした。その一方で彼は『幻想と怪奇』創刊号の版元(三崎書房)でもあり、探偵小説専門誌『幻影城』も途中まで絃映社が版元でした。
それでその林宗宏さんから「オカルトブームなのでこういう雑誌を作ったんだけど、ぜんぜん売れなくて」と言って見せられたのが『地球ロマン』でした。「これはあかんだろう」という見本みたいな雑誌でした。もう目次を見ただけでわかりますが、大陸書房の本とかを適当につまみ食いして要約したような記事ばかりで、しかも70年代だというのに、いまだに「恐怖の首狩り族」まであるわけです。ところが林さんはその『地球ロマン』で雑誌コードをとっていた。雑誌コードには縛りがあって、赤字だろうがなんだろうがある程度は続けなければならないというルールがあるわけです。
林さんも、このままでは売れないうえに内容的にもクソだということはわかっていたわけです。彼としてはそれを続けて赤字になるのは耐えられない、せめてもっと文化的に画期をなすような有意義なものしたいという相談があって、じゃあというので全面リメイクして、8月から「本邦初の異端文化総合研究誌」と銘打って、『復刊地球ロマン』として隔月間で刊行することになったわけです。リメイクというか、表紙から何からまったく別の雑誌をぜんぶで6号まで作ったのです。
これは雑誌というより、それぞれが独立したテーマの単行本のような感じでした。ただ継続的に購読してもらうために連載が2本あって、1本はグルジェフの「注目すべき人々の出会い」、1本が有賀龍太「戸来村キリスト伝説の謎」でした。有賀龍太というのも自分のペンネームです。これは「日本のピラミッド」とは真逆にキリスト伝説がどういうふうに作られていったのか、その過程を考証したものなんですね。
編集方針としては、特集ごとに出来るだけ過激でガチな人の原稿を生ものとして掲載し、生の資料を可能なかぎり収集し充実した資料編を構成し、全体としてラディカルな批評誌としての性格をもたせました。これはオカルトの枠を超えて波紋を投げかけました。
当時の知的な読書人や左派にとってオカルトいうのは、澁澤龍彦に代表される文学の世界だったわけですが、そういう層に対して生ものの衝迫性を突きつけたいという欲望が前からありました。
「願わくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ」というところでした。
生ものを突きつけつつ、批評性と資料性と政治性をもたせることで、そういう層をもターゲットにしながら、それまでほとんど知られていなかった異端的な起源論異説、超古代史、神代文字、言霊学、熊沢天皇、カタカムナ、さらにぶっとんだ窪田志一の易断政権の物語だとかをクローズアップしていったわけです。ですから、「吾輩ハ天皇也」では熊沢天皇、三浦天皇と奥崎謙三が並びました。UFOにしても宇宙友好協会(CBA)というすごい集団があったんで、そういうものの運動史を発掘していきました。
ちょうど当時、1970年代になってくるとシュタイナーが出てきました。シュタイナーを日本に紹介したのは当時、慶応大学の教授だった高橋巌さんでした。知的世界においてそれまでのオカルトというのは文学の話だったんだけど、そうじゃない、オカルトは世界の読み方を変えるポテンシャルをもつ、ひとつの思想であり運動であるという方向と『復刊地球ロマン』はリンクするものでもあったわけです。
オカルトが一定のポピュラリティを獲得すると、とうぜんそこに特化した雑誌という発想が出てきます。『地球ロマン』もそうして生まれて、我々が引き取ってバージョンアップしたわけですが、1976年9月にはそのものずばり『オカルト時代』という雑誌が刊行されます。これ『復刊地球ロマン』が8月だからほとんど同時期なんですね。すっかり忘れてましたが、これにも武内裕名義でけっこう書いてるんですね。創刊号から「アイヌ宇宙人説を探る」というのを書いている。『復刊地球ロマン』やりながら書いている。
ぜんぜんコンセプト違うので、ライバル誌という意識はありませんし、対抗的に研究しようとも思わなかったので、よく覚えてませんが、これあらためて見ると変な雑誌ですよね。
これ、やっぱり大陸書房と同じ文化、いまだに60年代の秘境雑誌の文化を引きずってますね。こちらがリメイクする前の『地球ロマン』よりはましだけど、なんていうかごった煮なんですね。五島勉から中岡俊哉から矢追さんから斎藤守弘さんからわしに至るまで書いてるけど、ごった煮なんですね。
あっ、これそもそも表紙のイラストがまた秋吉巒やないか。しかし、秋吉巒のこの絵はよくないな。この絵じゃ惹きこまれない。やっぱり、秋吉巒は『不思議な雑誌』の表紙が名作だと思います。
創刊号の「出口王仁三郎研究」というのが注目されますが、これ読むとぜんぜん面白くない。言ったら悪いですが、よくこんなに面白くなく書けるよねという感じなんですね。これは「日本の教祖シリーズ」と銘打って「中山ミキ研究」「黒住宗忠研究」「川手文治郎研究」と続くわけですが、宗教方面にウィングを広げれば読者が増えると思ったのかな。真ん中に黒田みのりの漫画がありますが、これは真光(まひかり)の岡田光玉の伝記なんですね。
それにしても連載が団鬼六の小説というのは、どういう層を狙ったのかよくわからない。SM小説ではなくて「本格心霊小説」とありますが。
ともかく全体に内容がごった煮のうえに、新しい方向性を模索しようとして余計にぐちゃぐちゃになってひたすら空転したという感じですね。『不思議な雑誌』は3年続いたのに、『オカルト時代』は1年しか続かなかった。オカルトブームだったのにダメだったわけですが、これはブームだからこそ難しいということもあったと思います。
多くの人は大陸書房なり角川文庫なりでオカルトに触れることができれば、それで満足してしまうわけです。とりあえず定食で腹八分目になりましたというところに、綺麗にもりつけたものを出すならともかく、乱雑なごった煮を出しても誰も食べないわけです。
一般的に雑誌の特集というのはあるテーマに対して、複数の著者が複数の切り口で複数の記事を書いて構成されます。しかし多くの読者がオカルトに欲するのは、たんなる不思議な話の羅列ではないわけです。世界や宇宙や歴史の謎をめぐる壮大な物語なんですね。だから、いろんな人があれやこれや書いたって、ダメなんだ。
そいうことに気がついたので、『ムー』(1979年創刊)は総力特集に一点集中し、長大な特集記事を一人のライターが書くというノウハウを確立したわけです。これが成功した原因なんですね。もちろんこれは他の記事をおろそかにするということではなく、ともかく総力特集で一点突破をし、読者を獲得するという戦略でした。
ただ、これは口で言うのは簡単ですが、往時は雑誌全体で約30万字、総力特集で3万字の分量があったから、ライターも編集者もそれなりの技量とノウハウが必要だったわけです。そもそも雑誌というのは書く方も単行本ほど力が入らないわけですよ。ライターだ、作家だと言っても同時に読者です。雑誌を読むのは何となく気軽にというイメージがどうしてもある。それじゃあダメなんだよね。『ムー』の総力特集っていうのは、ほとんど単行本を書き下ろすのと同じ位のエネルギーがいるわけです。
『ムー』が成功すると類似誌がいっぱい出ますよね、しかし全部失敗に終わっちゃった。それはそこがわかっていなかったか、あるいはそのノウハウを真似できなかったからだと思います。
それから、『ムー』以前のオカルト雑誌ということでいうと、UFOブームを受けて1973年に『UFOと宇宙 コズモ』(コズモ出版社)が創刊されています。これは1961年に日本GAPというアダムスキー派の団体を設立した久保田八郎が作った雑誌でした。経営不振で不動産デベロッパーにオーナーチェンジして社名もユニバース出版社となり、『UFOと宇宙』というタイトルになりました。
『復刊地球ロマン』は6号まで出て、継続の予定でしたが、スポンサーの林宗宏さんが本業のエロ雑誌の関係で逮捕されて廃刊になりました。それで1978年頃かな、約1年間ほどわしはこの雑誌(『UFOと宇宙』)の編集長をすることになりました。そこそこは売れるのですが、どうしても3万部に届かなかったですね。それでも今ならぜんぜん上等なんですが、当時は印刷代は今と比べもんにならんくらい高かったのでこれじゃ厳しい。
要は、雑誌というのは、ある程度広告が入らないと維持できないんですが、残念ながら当時はまだオカルト産業が発達していなかった。パワーストーンという概念もなかったです。ようやくピラミッド・パワーがちょこっと出てきた段階でした。ですから広告スポンサーといっても天体望遠鏡くらいなんですね。
1980年代になると、さまざまなオカルトグッズが売られるようになり、広告収入が確保できるようになったことも大きかったといえるでしょう。
(続く)
(2020年5月4日記事を再編集)
武田崇元
古川順弘
宗教・歴史系に強い「ムー」常連ライター。おもな著書に『仏像破壊の日本史』『紫式部と源氏物語の謎55』、近刊に『京都古社に隠された歴史の謎』など。
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