星空にも聖地認定! 紀元二千六百年に現れた「幻の聖都」/大日本帝国「聖地拡大」計画

文=鹿角崇彦

    大日本帝国「聖地拡大」の特異点、それが「紀元二千六百年」だった。この年を目指して企画されたさまざまな記念行事や神社には、実現目前で幻と消えたものも多い。その理由とは……

    聖地拡大の特異点「紀元二千六百年」

     大日本帝国の「聖地拡大」ムーブメントを見るなかで、特異点とも呼ぶべき別格に特別なポイントが、昭和15年。神武天皇即位からちょうど2600年目とされたこの年、「紀元二千六百年」という百年に一度しかこないアニバーサリーを祝うため、全国でありとあらゆる記念ごとが計画されたのである。

     最も有名なものは、1940年オリンピック東京大会と、日本万国博覧会。どちらも紀元二千六百年を見越して誘致されたもので、万博にいたっては正式名称が「紀元二千六百年記念日本万国博覧会」とされたほどだが、ご存じの通りどちらも「幻」と消えている。理由はもちろん、戦争の影響だ。

     明治から大正の一時的軍縮時代を経て、昭和は再び拡大と動乱の時代になっていく。昭和6年の満州事変、12年勃発の日中戦争、15年仏印進駐、16年対米開戦と、この時代の大日本帝国はほとんど無謀とも思える多方面戦争を展開。その煽りをうけて、実現目前だったさまざまな事案が「幻」と化していったのだ。

    「2600」を前面に押し出した日本万国博覧会のデザイン(韓国国立中央図書館蔵『日本万国大博覧会』より)。

     万博ほど有名ではないが、この頃には各地の都市が主催となって計画が進められていたいくつもの地域博覧会も「幻」に終わっている。そんな露と消えた博覧会のひとつが、その名も「神国大博覧会」。まさに時代を象徴するような名前だが、この「神国」は直接的には日本のことではなく、開催地である島根県松江を指すものだったようだ。

     松江市政50周年記念行事として準備されたこの博覧会では、松江城下と宍道湖畔が開催地に定められ、昭和13年春の2ヶ月間を会期として粛々と計画が進められていたのだが、予定の前年昭和12年に日中戦争が勃発。そのために開催が延期となり、そのままずるずると中止に追い込まれてしまった。開催の実現可能性でいえば昭和15年予定の万博やオリンピックよりもこちらのほうが格段に高かったはずで、事実、神国大博覧会は準備もほぼ完了しており、告知用のポスター配布さえ済んでいたほどだった。

     こんな土壇場での中止を食らい、関係者の落胆、衝撃はいかばかりだったろうかとその胸中は察するに余りある。ポスター図案を印刷した当時の絵葉書をみると、そこには「神国」の名に違わない雄々しい神の姿が描かれているのだが、そんな催しの頓挫はその後の大日本帝国のいく先を予兆するようにも思えてしまう。

    「神国大博覧会」の絵葉書。モダンなセンスと神国観念が入り混じった目を惹かれるデザイン(筆者蔵)

    比婆山の神陵に「イザナミ神宮」を!

     ご当地への神社創建を願っていた人たちも、紀元二千六百年というこの大波を見逃すわけがない。この時期も各地でさまざまな運動が展開されていたが、なかでもユニークなのが「イザナミを奉祀する官幣大社」を創建したいという活動だ。

     国産みの女神でありながら、イザナミを単体で祭神とする官国幣社は存在しない。そこに目をつけてということでもないだろうが、昭和10年頃から、広島県の比婆山にイザナミを祀る官幣大社創建を実現しようという運動が盛り上がっていたのである。

     『古事記』にも「伊邪那美の神は出雲国と伯伎国(ははきのくに)との堺 比婆之山に葬(かく)しまつりき」とされるように、比婆山は古くからイザナミ神陵伝説のある山であり、その山中にある熊野神社を「比婆大神」と改称したうえで官幣大社にしてほしい、というものだ。

     請願は昭和14年には帝国議会でも採択、比婆山神蹟顕彰会という団体も結成され、イザナミがこの山中で死を迎え陵がつくられたという神陵説を周知するために、東京で展覧会まで開催されている。

     対外PRとともに山中の神蹟調査も行うなどかなり力の入った活動だったのだが、当局からはイザナミはすでにイザナギとともに多賀大社に祀られていること、神陵伝説は比婆山以外にもいくつかあること、また官幣大社化が願われている熊野神社に見るべき由緒がないことなどを理由として不採択が告げられてしまう。

    比婆山中のイザナミ神陵。ここにイザナミすなわち「比婆大神」を祀る官幣大社を、との請願が出されていた(国立国会図書館デジタルコレクション)
    比婆山神蹟顕彰会の依頼で、洋画家清水登之が比婆山を描いた作品「神陵」。運動のRPのため、これらを展示する展覧会も開催された(国立国会図書館デジタルコレクション)。

     じつは、同じくイザナミ神陵伝説をもつ三重県熊野の花窟神社でも、明治時代から「ここを公式の神陵とし、官社に昇格を」という運動が繰り広げられていた。そしてやはりこちらでも昭和14年に当局に対して同様の請願があげられていたのだが、やはりほぼ同じ理由で昇格不可が伝えられている。ふたつのイザナミ神陵から同時期に願いがだされたのは、どちらも「紀元二千六百年」というアニバーサリーに昇格成就を託したからに他ならない。

     そして、その目算にはあながち皮算用とはいえないものがあった。というのも、この頃には神武東征の伝説地を史跡に定める「神武天皇聖蹟」の指定など、神社創建以外にも「神話の具現化」ともいえる活動が盛んに行われていたのだ。

     昭和15年には、宮崎県美々津港から大阪湾まで、神武東征の海路を大型木造船で航行する「御東航漕舟大航軍」というイベントが挙行されているが、これも神話を同時代に再現する「神話の具現化運動」だったといえるだろう。

    イザナギとイザナミ(国立国会図書館デジタルコレクション)。

    昭南に「高岳親王神社」、タイに「山田長政神社」

     昭和10年代には、大日本帝国の拡張、戦線の拡大とともに外地でも神社の創建や昇格が相次いでいた。官国幣社だけでも朝鮮の京城神社や大邱神社、台湾の台中神社などが昇格、新たな聖地として関東神宮(旅順)と南洋神社(パラオ)が創建されている。

     もちろんこれ以外の中小の神社もつくられているし、海南島の三亜神社、シンガポールの昭南神社、張家口の蒙疆神社、そして建国神廟をはじめとする満洲国内の神社など、領土外のものも含めればこの時代に「外」につくられた神社は大変な数にのぼる。

     大日本帝国崩壊とともにそれらはほぼ完全に消滅し「幻の神社」と化すのだが、なかには建立に至らず「幻」に終わったものもあった。

     たとえば、シンガポールの「高岳親王を祀る神社」がそれだ。澁澤龍彦の作品でも知られる高岳親王は、平安時代の皇子で、仏の道を求めて入唐、さらに天竺を目指し南へと旅するなかマレー半島のどこかで薨去したとされる。その薨去推定地のひとつであるシンガポールに、高岳親王の神社を創建しようという運動が展開されたのだ。昭和17年、昭南島と改称されていた同地に昭南神社が創建されると、その相殿に高岳親王の銅像を奉安しようとの動きもあったという。

    「外」に神社をつくるとき、その地に縁のある日本人を祭神にしようとするパターンはたびたびみられる。当時「南方進出の先人」として注目されていた山田長政もその例だ。

     江戸時代初期にシャム王国に渡って日本人町を治め、王を補佐して功績をあげ、ついには領地を賜り「六昆王」と呼ばれるまでになったとされる山田長政。その伝承が全て史実であるかどうかについては議論があるところだが、アユタヤの日本人街旧跡には昭和15年、つまり紀元二千六百年の年に在地日本人によりささやかな「山田長政神社」が建てられていた。その後大日本帝国の南方進出がより本格化するにつれ、この神社をさらに大規模に拡大しようとの提言があちこちから起こっていたのである。

     こうした動きは、特定の先人を偉人として祀るものでありながら、同時に日本の海外進出の拠点としての「聖地」を求める運動だったとも考えられる。我々がはじめたわけではない、すでにはるか昔から先人が道を拓いていたのだ、というエクスキューズともいえるだろうか。それがとりわけ顕著に現れたのが、昭和14年、朝鮮半島の扶余に創立された扶余神宮だった。

    戦前、山田長政は日本人の南方進出の先駆者とされ、偉人伝などでもしばしばとりあげられた(国立国会図書館デジタルコレクション)。
    アユタヤに建てられていた山田長政神社。鳥居には扁額とも違った独特の飾りがみえる(筆者蔵)。

    古代天皇を祀る「扶余神宮」、スサノオを祀る「曽尸茂梨神社」

     扶余神宮では、応神天皇、斉明天皇、天智天皇、そして神功皇后が祭神とされた。なぜ朝鮮半島の神社に4柱もの古代天皇が祀られたのか。それは扶余が7世紀、百済の首都だった街だからだ。

     斉明・天智両天皇は史実として百済と深いつながりがあるし、応神天皇、神功皇后といえば『日本書紀』に記される「三韓征伐」伝説の主役。神話、古代史のなかで最も朝鮮半島に関わり深い天皇たちが、扶余神宮の祭神に選ばれたというわけだ。神宮創建とあわせて扶余は「神都」として開発される計画もあったが、鎮座直前に敗戦を迎えついに創建を迎えることはなかった。

     同じ頃、朝鮮半島では江原道春川の牛頭山に曽尸茂梨神社(そしもりじんじゃ)を建立しようという運動もあったのだが、その祭神は天照大神の弟神、スサノオとされた。なぜ朝鮮半島にスサノオを祀る神社が求められたのかといえば、これも神話と深く関わっている。

     記紀神話では、スサノオは天照大神に対して横暴を働き世を混乱させた罪を問われ、「千座の置戸」という刑罰を科されたうえで高天原を追放されている。このとき『日本書紀』は一書に曰くとして、追放されたスサノオは御子である五十猛神(いたけるのかみ)を引き連れて高天原から新羅国(しらぎのくに)に降臨、曽尸茂梨という土地に居を置いたと記している。その後スサノオはさらに新天地を求めて土でつくった船にのって東にわたり、到達した出雲国でヤマタノオロチを退治することになるのだが、つまりこの一書ではスサノオが朝鮮半島と深い関わりのある神だったことが示唆されているのだ。

     スサノオが高天原追放後最初に降臨したとされる新羅の曽尸茂梨とはどこなのか。それこそすなわち春川の牛頭山であり、ここに「内鮮一体」を体現すべくスサノオを祀る神社を建てよう、というのが曽尸茂梨神社創建運動の趣旨だったのだ。日本列島をとびだし、外地で展開した「神話の具現化運動」だといえる。

     各地につくられ、拡大していった「外の聖地」。そこには当時の大日本帝国が求めたさまざまな意図や思惑が交錯していたのである。

    扶余神宮の計画図。社殿の造営も進みながら創建を迎えなかった「最後の幻の神宮」ともいえる(アジア歴史資料センター、原本所蔵:外務省外交史料館)。
    「朝鮮総鎮守」ともいわれた朝鮮神宮。京城(現ソウル)市街地をみはるかす南山に鎮座していた(韓国国立中央図書館蔵『朝鮮神宮造営誌』より)。
    台湾神宮。祭神には、台湾遠征中に薨去した北白川宮能久親王も加えられていた(国立国会図書館デジタルコレクション)。

    星空の聖地化!南の空に浮かぶ「神武の剣星」

     神社ではないが、「星空の聖地化」とでもいうような珍しい例もご紹介しよう。それは日本が南方進出を進める昭和17年ごろ、現地で兵役を体験した一兵士が「以後、南十字星を『神武の剣星』と呼びたい」と提言して一部方面を賑わせたものだ。

     歳差運動の関係で、二千六百年前、神武天皇の時代には大和の地からも南十字星がみえたはずである、ならば今後南に拡がる大東亜共栄圏の指針としても、キリスト教の十字架を思わせる「南十字星」よりも「神武天皇の剣」と呼ぶほうが相応しいだろう、という意見である。これには当時も反対があり、また定着を見る前に敗戦を迎えるのだが、もし大日本帝国が存続している世界線があったならば、そこでは神武の剣星が採用され南十字星のほうが「幻の星座名」になっていたのかもしれない。

    「神武の剣星」提唱者・原口氏雄の著書『星と兵隊』に描かれたイメージ図。時代の空気感の象徴のようでもある(筆者撮影)。

     提言だけに終わったユニークな「幻」には、「文化神社」といったものもある。文武は国の両輪、武を祀る靖国神社のように皇国の文化発展に貢献した先人たちを祀る、いわば靖国神社の文化人版をつくりたい、というのだ。この案については衆議院での議論でも「一体どう祭神を選別するんだ」ともっともな疑問が出され実現はしなかったが、しかしこうした案が衆議院で議題にあがり、実際に議論されていたことも事実である。文化神社は、この頃じつに多彩な神社が構想され、幻に消えていったことを現す例としてもとても興味深い。

     戦争の影響で幻に終わった内向きの「聖地」と、大きく展開した外向きの「聖地」。だが、大日本帝国崩壊を期に外に実現していた聖地はことごとく「幻」と化し、逆に幻に消えたはずのオリンピックや万博は数十年の時を経てリバイバルする。

     歴史改変系SFでは、どう歴史を操作しても結局本来の流れに復元されてしまい本質的には変えることができないという展開がしばしばみられるが、大日本帝国末期の歴史にはそんなシナリオに近い既視感を覚えてしまう。じつは私たちが生きているこの現実の歴史こそが、オルタナティブな「イフの世界線」のほうだったのでは……そんな奇妙な不安にすら襲われないだろうか。

    当時描かれたイラスト「大日本の建国」。神代の時代と昭和15年が直結する構図には、「紀元二千六百年」の持つ意味が最もシンボリックに表されているようだ(国立国会図書館デジタルコレクション)。

    鹿角崇彦

    古文献リサーチ系ライター。天皇陵からローカルな皇族伝説、天皇が登場するマンガ作品まで天皇にまつわることを全方位的に探求する「ミサンザイ」代表。

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