幻の祝日「神武天皇御東征日」に改暦の混乱を見る! 紀元節を現代に位置付ける政策の痕跡/鹿角崇彦

文=鹿角隆彦

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    2月11日は「建国記念の日」。明治時代、この祝日に代替しうる、とある記念日のプランが立案されていた。幻のオルタナティブ紀元節と、さらに幻に終わったある祝日案とは。

    明治改暦のてんやわんやをあらわす「幻の祝日」

     2月11日は「建国記念の日」。戦前には「紀元節」と呼ばれた、初代天皇である神武天皇が即位したとされる日を記念して制定された祝日だ。

     神武天皇は故郷の日向(現在の宮崎県)から旅を続けて大和に到着、ここで豪族ナガスネヒコを打ち破ると橿原(現在の奈良県橿原市)の地で最初のスメラミコトとして即位したとされる。『日本書紀』に「辛酉の年の元日」と記されたその日を現在の暦に計算すると紀元前660年の2月11日になる、ということで明治時代に制定されたのが、神武天皇即位紀元の祝日「紀元節」というわけだ。

    初代天皇として即位の儀式をおこなう神武天皇(画像=国立国会図書館デジタルコレクション)

     紀元前660年といえば約2700年前、歴史的には日本列島はまだ縄文時代。神武天皇の日向出発から即位までを描いた「神武東征」と呼ばれる一連の物語も、史実ではなく神話ということになる。しかし全くの創作ではなくおおもとになる何かしらのできごとはあったのだろう、等々、現在でも東征神話にまつわる議論は尽きない。

     さて、今でこそ2月11日となっている紀元節、建国記念の日だが、その制定の経緯はかなりドタバタで、明治時代の改暦をめぐる混乱を象徴するようなものだった。

     徳川幕府が倒され新時代がはじまってまだまもない明治5年の11月、政府から突如「改暦の詔」というものが布告された。明治5年12月6日を境に太陰暦を廃止、この日を明治6年1月1日に切り替えて太陽暦を採用することにした、というおふれだ。財政難で役人の給与を切り詰めたかったなどの説があるが、なんであれ飛鳥時代以来使ってきた太陰暦をやめるという大変革が、ほぼ周知期間もないままに実行されてしまったのだ。そして庶民にとってはさらに影響絶大だったのが、改暦にあわせて旧来の祝日休日の慣例にも大きな改革が加えられたこと。明治6年1月、新政府の意思決定中枢である太政官正院は、左院に対してこんな問い合わせをしている。

     このたび改暦になったことであるし、今まで慣例だった人日(1月7日)、上巳(3月3日)、端午(5月5日)、七夕(7月7日)、重陽(9月9日)の五節句の祝日を廃止して、かわりに新年宴、神武天皇御即位日、天長節、太政復古ノ日の4つの祝日を新設するのはどうだろうか。

    新祝日案を示した明治5年の文書(国立公文書館デジタルアーカイブ)

     江戸時代までは、祝日といえば盆暮正月に端午や七夕などの節句が一般的だったのだが、これをやめて新しい祝日をつくろうというのだ。これに対する左院のアンサーは、節句の休みをやめることには異論がないが、かわりに新設する祝日には別案がある、というもの。左院が提案した別の祝日案がこちら。

    1月1日 朝賀
    1月5日 新年宴
    9月22日 天長節
    10月5日 神武天皇御東征日

     この4つの日を毎年の祝日と定めるのがいいだろう、というのだ。

    オルタナティブ紀元節「神武天皇御東征日」

     正月の祝いと、天長節(天皇誕生日)は祝日としてわかりやすい。
     では、唐突にあらわれた「神武天皇御東征日」とは?
     これが、先に紹介した神武東征神話にまつわる祝日案なのだ。神話では神武天皇が日向の港を出発したのが10月5日とされているため、この日をもって祝日にしようという案なのである。

     なぜ正院からおりてきた「御即位の日」をそのままOKとせず、わざわざ「東征に出発した日」というひねった別案をだしたのか。左院はその理由を、「神武天皇御即位日は1月1日なので、朝賀の日と混ざってしまう。だから10月の御東征出発日にかえましょう」と説明している。

    左院が提案した祝日案(国立公文書館デジタルアーカイブ)

     神武天皇の即位日は「辛酉の年の元日」つまり1月1日なので、これを素直に祝ったら元日の朝賀と丸かぶりしてしまう。旧暦1月1日だからということで新暦に換算したとしても、要は今でいう「旧正月」になるだけで、せいぜい1ヶ月程度のずれ。どのみち年始の祝いとややこしくなってしまうのだ。

     そんなことを考え合わせると「神武天皇御東征日」案は意外と合理的なアイディアで悪くないのでは……と思えてくる。が、結局明治6年には、1月29日に神武天皇即位を祝う祭典がおこなわれている。この年の1月29日が旧暦の元日だったためで、結果としては左院の案はボツになり、当初案通り神武天皇の即位日が祝日になったことになる。

     ただし1月29日という日程は仮決めという扱いで、同年中にあらためて紀元節は以後2月11日とすることがきめられる。さらに段階的に春秋の皇霊祭(いまの春分、秋分の日)などが祝日として加えられ、現在の国民の祝日の前身となる戦前の祝祭日体系が整えられていくことになる。

     ただ、なぜ紀元節が2月11日に決められたのか、その経緯はいまいち不明瞭なのだ。1月に膨大に執り行われる皇室の行事や儀式にかぶらない日程にするために2月中旬あたりが選ばれたのではないか、といった説もきかれる。
     残念ながら不採用になってしまった「神武天皇御東征日」案だが、日付のもつ本来的な意味を考えれば、よくわからない計算で登場した2月11日よりも『日本書紀』に記された10月5日のほうが歴史的な重みはある、ともいえそうだ。

    神武天皇の日向出港は10月5日とされる(画像=国立国会図書館デジタルアーカイブ)

     ついでながら、正院案にあったもうひとつの新祝日案「太政復古ノ日」つまり王政復古の記念日は、それを祝う事で逆にそれ以前の王政失墜の時代をことさら強調してしまうことにもなりかねない、ということでナシになっている。やぶへびでしょ、というわけだ。
     一般的な革命政権であれば自分たちの権力が確立した日をいのいちばんに祝いそうなところだが、そんな案をさらっと却下しているあたり、あくまでも革命じゃなく復古なのだ! という自らの正統性PRポイントをよくわかっていたのだろう。明治新政府、そういうところはさすがである。

    意外な復活をとげた神武天皇船出の記念日

     ところで、一度は幻と消えた祝日「神武天皇御東征日」は、その後60年ほど経って意外なかたちで実現している。

     昭和15年(1940)、神武天皇即位2600年を記念した「紀元二千六百年」の関連祝賀行事が全国各地でおこなわれたことはよくしられているが、宮崎県では紀元二千六百年にさきがけてその7年前、昭和9年(1934)に「神武天皇御東遷二千六百年」という奉祝が大々的に行われている。『日本書紀』では神武天皇が東征に出発したのは即位の7年前、紀元前667年とされているため、ここから起算して2600年の昭和9年を、宮崎ならではの「東征スタートの年」として祝ったのだ。

    「神武天皇御東遷二千六百年記念祭」の会場となった宮崎神宮前の広場。

     そのハイライトとして、宮崎神宮前の広場を会場として挙行されたのが「神武天皇御東遷二千六百年記念祭」。東京から筆頭宮家である秩父宮夫妻を招いてひらかれた映えある祝典の日取りに選ばれたのが、東征出発の日、つまり「神武天皇御東征日」の候補にもなった10月5日だったのだ。翌6日には同じく宮崎県の西都原古墳群で「神武天皇御東遷二千六百年記念古墳祭」という式典もひらかれ、こちらにも秩父宮夫妻が参列している。式典会場になったのは男狭穂塚・女狭穂塚前の広場だが、このふたつの古墳にはそれぞれ神武天皇の曾祖父母であるニニギノミコトとコノハナサクヤヒメが眠っているとされ、皇室の祖先をまつる陵墓として現在に至るまで宮内庁が管理している。

    「神武天皇御東遷二千六百年記念古墳祭」が行われた西都原古墳の広場
    古墳祭の記念碑も現存している。

     初代天皇の船出を祝した祭典を、皇室の祖先が眠る古墳の前で、当代天皇の弟宮を招いて挙行する。「神武天皇御東遷二千六百年」をめぐる一連の行事は、神話が史実として扱われた、そして神話と“今”をつなぐものとして天皇という存在があった大日本帝国時代を体現するような、シンボリックなイベントだったともいえるだろう。

     あらたな暦の採用とともに誕生した神武天皇御即位日(紀元節)と、案だけに終わったものの別の形で“復活”した神武天皇御東征日。そしてなんとなくこっそりフタをされた王政復古記念日。その歴史をみていると、「祝日」というものがもつ根本的な意味についても考えさせられるようだ。

    神武天皇が出港した場所とされる宮崎県の美々津港は、現在も「日本海軍発祥之地」のモニュメントが残る。

    参考
    太政類典・第二編・明治四年~明治十年 改暦ニ付五節ヲ廃シ神武天皇即位日天長節ノ両日ヲ以テ祝日ト定ム(国立公文書館デジタルアーカイブ)

    鹿角崇彦

    古文献リサーチ系ライター。天皇陵からローカルな皇族伝説、天皇が登場するマンガ作品まで天皇にまつわることを全方位的に探求する「ミサンザイ」代表。

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