「原子力」とポップカルチャー80年代若者文化における「ノーニューク」/初見健一の昭和こどもオカルト回顧録

文=初見健一

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    夢のエネルギーから核兵器の恐怖へ。昭和こどもオカルト視点で振り返る。80年代に転換したNUKEのイメージとは?

    「核兵器の脅威」と「原子力の驚異」

     前回は昭和の児童雑誌に頻繁に掲載された「未来予想記事」(「21世紀はこうなる!」といった類の図解記事)を眺めつつ、そうしたコンテンツにおいて重要なキーワードだった「夢のエネルギー・原子力」に着目し、子どもたちの「SF的未来観」を支えた「原子力」のイメージの変遷と、現実世界で起こった「原子力」をめぐるさまざまな問題とを時系列に沿って俯瞰してみた。

     今回は、決定的な節目となった1979年3月の「スリーマイル島原発事故」以降、主に80年代の子ども~若者文化と「原子力」の関わりを回顧してみたい。

     前回で触れた通り、現実の世界では「原子力」のイメージは70年代なかごろより徐々に揺らぎはじめ、79年の史上最悪レベルの「スリーマイル島原発」の炉心溶解で従来の「夢のエネルギー」というイメージは様変わりしてしまうのだが、この影響は児童雑誌にはほとんど及ばなかったようだ。70年代の「未来予想」記事には、いわゆる「原子力の脅威」を描いたものはほとんど見当たらない。

     おもしろいのは(おもしろくないけど)、冷戦のまっただなか、「核戦争の恐怖」が人々の間で最もリアルに共有された時代、「核兵器の脅威」に関する記事は児童雑誌にもあふれかえっていたことだ。特に「ノストラダムス」ブームの1973年以降、「核ミサイルの応酬で滅亡する人類」「核兵器による放射能汚染で死の星になる地球」といったパターンの「終末画」は人気を博し、定番コンテンツになっていた。しかし、「平和利用」される「原子力」の「ニュークリアエラー」については、僕の知る限りほとんど触れられていない。

     あくまでも児童メディアにおいての話だが、「核兵器の脅威」と「原子力の脅威」は完全に切り分けられていた印象だ。原発に関するアレコレは絵になりにくいということもあっただろうし、子ども向けトピックとしては解説がややこしくなるということもあったのだろう。いずれにしろ、「核兵器がもたらす終末」に関する阿鼻叫喚の「終末画」が山ほど掲載される一方で、僕らの日常に現実に存在する「原子力」がネタにされていなかったのは、今から思えば少し不思議な気もする。

     また、「原子力」をめぐる風向きが変わる70年代後半は、子どもメディアから「未来予想記事」が消えはじめた時期でもあった。こうした「空想科学」的記事を支えてきた戦前・戦中世代の挿絵画家の大御所たちが、徐々に仕事の場を失いはじめる時代だったのだ。以降、児童雑誌・マンガ雑誌巻頭の図解特集コーナーは、写真で構成されるルポものに取って代わられることが多くなったと思う。「未来」が取りあげられる場合にも、すでに実用段階にある身近なテクノロジーの紹介、沖縄海洋博、神戸ポートピア、つくば万博などのイベント取材記事の類が増えていった。過剰な力感とトンデモ感にあふれた「未来」のビジョンの需要(?)がなくなり、「空想」抜きの「未来」に子どもたちの好奇心がシフトしていったということだったのだろうか?

    料理や掃除をこなし、さらにはエアコンやテレビの機能までをも備えた原子力エンジン搭載の「万能ホームロボット」(講談社『少年マガジン』1969年)。家の中を原子炉が動きまわっている日常は、さぞかし落ち着かないのではないだろうか?

    ロックシーンでトレンド化する「反原発」

     一方、「スリーマイル島事故」を受けて、当時の僕らよりもひと回り上の世代のお兄さん・お姉さんたち、つまり若者たちのカウンターカルチャーにおいて(この時期は「カウンターカルチャー」という言葉が急速に色褪せるタイミングでもあったが)、俄かに「反原発」の動きが活発になりはじめる。そのきっかけとなったのが、1979年にマディソンスクエアガーデンで開催された「ノーニュークスコンサート」だろう。ブルース・スプリングスティーン、ジャクソン・ブラウン、トム・ペディなどが出演し、世界中で大きな注目を集めた。

     このときの状況については、僕は子どもとして遠巻きに眺めていただけなので皮膚感覚としてあまりよくわからないのだが、なんというか、サブカルシーンにおいて「環境保護」的なメッセージが盛んに叫ばれるようになったのと同時に、従来の「反権力志向」の若者たちの「闘争」から、「意識高い系」の若者たちのポップな「態度表明」みたいなものへとシフトする端境期が、もしかしたらこのあたりにあったのかな……という気もする。

     ムーブメントは日本にも波及し、1982年に核兵器に関するドキュメント映画『アトミック・カフェ』が公開されると、これがやはり若者たちの間で大きな話題となって(僕の印象では「これをチェックしておくと知的でオシャレ!」みたいな、なんとも妙なウケ方をしていたと思う)、この映画に連動して84年には「音楽を通じて反核・脱原発を訴える」イベント「アトミック・カフェ・フェスティバル」が野音で開催される。加藤登紀子、浜田省吾、宇崎竜童などに加え、尾崎豊やBLUE HEARTS、さらにはルースターズやSION、そしてZELDAまでもが参加する贅沢な布陣のイベントである。このあたりから日本のサブカル雑誌、ロック雑誌などでも「反核・反原発」についての話題がやたらと取り沙汰されるようになった。「反核・反原発」がサブカル的にトレンド化したわけだ。

     恥ずかしながら、ボンクラロック少年だった僕が「へぇ~、『反原発』ってそんなに流行ってるの?」みたいな感じで多少意識するようになったのは、この頃のことだったと思う。個人的には、この時期のこうしたムーブメントには奇妙な居心地の悪さしか感じられなかった。このあたりから84年の「バンド・エイド」とか、翌年の「ウィ・アー・ザ・ワールド」とか、ロックシーンにおける国際的な「世界を変えよう!」系の大規模チャリティー・イベントが矢継ぎ早に開催されるが、「なにやらロックが妙なことになってきたなぁ」と戸惑いながら眺めていたと思う。当時、スターリンの遠藤ミチロウがこうした風潮に対して、「反目し合ってたパンクバンドが『反原発』の掛け声で平気で同じステージに立つのか? お前らのパンクってのはその程度のものなのか?」みたいな悪態をついていたのを覚えている。彼は具体的な社会的・政治的メッセージに音と言葉が従属することを一貫して嫌悪していたが、僕もミチロウの悪態の方になんとなく共感していた。こうした感覚は昨今の「音楽に政治を持ち込むな!」という便利な詭弁とはまったく異質なものであると同時に、どこかで境を接するものでもあったかも知れない。

     それから約30年後、ミチロウは福島で起こった事態を「人間の未来に対する宣戦布告である」と位置付けるあまりにもストレートな「メッセージ」を発して「プロジェクトFUKUSHIMA」を立ちあげ、「爆心地」となってしまった自分の故郷の惨状をギター一本の痛々しい弾き語りで生々しくがなりたてることになる。

    「大建築時代のエース」(講談社『少年マガジン』1969年)。200人分の作業能力を持つという原子力エンジン搭載工事ロボットが猛スピードで巨大ダムを建設している。手足の生えた原子炉が吸盤だけで壁にへばりついている光景には、若干の不安があるような……。

    『ジョン・ウェインはなぜ死んだか』と「史上最悪」の事故

    「スリーマイル」で「反原発」の世論が高まるなか、当時の若者たちにも広く読まれた画期的な「反原発本」(?)が登場した。1982年に文藝春秋から出版された広瀬隆の『ジョン・ウェインはなぜ死んだか』だ。

     僕ら世代は……というか、僕のような「意識低い系」のボンクラな「80年代の若者」は、この本によって初めて「へぇ~、『放射能』ってこういうものだったのかぁ」ということを知って遅ればせながら驚いたものだ。しかもボンクラ過ぎる僕がこの本を手にしたのは、文庫になったタイミングの86年だったと思う。

    「スリーマイル島事故」をきっかけに原子力撤廃運動に携わるようになった広瀬隆による本作は、そのタイトル通り、ジョン・ウェインをはじめとするハリウッドスターたちの間での癌の異常な発生率の高さ、通常の癌のそれをはるかに超える死亡率の高さの「謎」を追うミステリータッチのノンフィクションだ。先日、約40年ぶりに黄ばんだ文庫本を読み返してみたが、往年の映画スターの活躍と名作映画の解説から徐々にあらぬ方向へと連れていかれる展開は、今読んでもスリリングでおもしろい。各所にさまざまな煽りと演出が効いていて、「ちょっとおもしろすぎやしないか?」と首を傾げたくなる部分もあるし、当時から「これはもっともらしいフィクションだ!」という批判もあったが、なんにせよ今の目で再読してみる意味はあると思う。

    『ジョン・ウェインはなぜ死んだか』(広瀬隆・著/文藝春秋/1982年)。ネバダで繰り返された核実験とハリウッドとの関連を追うノンフィクション。1986年には文春文庫から刊行され、88年には改訂版が発売された。

     そして僕が『ジョン・ウェインはなぜ死んだか』に「へ~」などとのんきに感心していた86年の4月、またまた「史上最悪」の決定的なクライシスが起こってしまう。当時はソビエト連邦の構成国であったウクライナの「チェルノブイリ原発事故」だ(昨今のメディアは「チョルノービリ」と表記するらしいが、これだと「あの頃の感じ」がまったく出ないのである)。4号機が制御不能となって原子炉が爆発。国際原子力・放射線事象評価尺度で最悪の「レベル7・深刻な事故」にあたる大惨事だった。

     急性放射線症などによる早期の死者数は30人とされているが、後に汚染地域で被爆した人々の癌・白血病などによる死亡者は4000人と発表された(2005年「チェルノブイリ・フォーラム国際会議」)。数十年後に影響が出はじめる被爆者の実態は事故との因果関係を証明するのが難しく、欧州全体を含めて70万、90万をも超える死者数を見積もる調査結果もあるが、各種調査機関の発表はまちまちで現在も数字は確定されていない。

     結果として、この事故が旧ソ連の崩壊を加速させることになったといわれている。今年は「チェルノブイリから40年」にあたり、BBCなどの欧州のメディアではさまざまな形で大きな特集が組まれた。国内でも一部の新聞などは事故を総括する形の記事を出しているが、海外の報道とはだいぶ温度差があるようだ。

    「未来の人間はこう変わる」(講談社『少年マガジン』1964年)。トンデモ感全開の未来予想。今でいうところ「バイオハック」による「人間拡張」の究極の形? さまざまなガジェットを身につけた「機械人間」が描かれているが、原子力蓄電池を背負って原子力三輪車で移動する……というのはかなり無謀である。

    80年代の終焉と、その後……

     これはあくまでもボンクラとして80年代を過ごしてしまった僕の個人的な感覚でしかないが、ロックシーンなどにおける「オシャレなトレンド」としてのサブカル的「反核・反原発」ムーブメントは、むしろチェルノブイリ以降、なぜか急速にしぼんで消えてしまったという印象がある。事故直後は市民レベルでの運動が巻き起こり、食品の安全性などに関して大騒ぎとなって、「牛乳は飲まない方がいい」などといった噂が流れて騒動にもなったが、こうしたこともあっという間に鎮静化してしまった。

     「放射能はいらねぇ、牛乳が飲みてぇ」と歌ったのはRCサクセションだが、1988年、彼らが「反核・反原発」ソングを含んだアルバム『カバーズ』を東芝EMIからリリースすることを発表するも、土壇場で東芝本社から圧力がかかって発売中となる事件(?)が起こっている。「素晴らしすぎて発売出来ません」という意味深な新聞広告が大きな話題となってメディアでも論争が巻き起こったが、結局はアーティスト側の「表現の自由」とやらと会社側の対立という見慣れた図式に収められてしまった。

     95年の「もんじゅナトリウム漏洩事故」の隠蔽発覚時にも大騒ぎとなり、99年にはついに日本で初めて事故被爆による死者が出るという決定的な参事、「東海村JOC臨界事故」が起こる。これについても当初はこの話題で持ちきりだったが、年末の「今年の10大ニュース」でデカデカと取りあげられたのを最後に、年が明ければすっかり過去のことにされてしまっていた印象だ。

     その後のことについては回顧するまでもないだろう。本稿では世論を喚起した主な大事故をすべて「決定的な事故」と紹介してきたが、実際のところ、この種の事故においては「決定的な」と書くべき事象は今のところは存在しないらしい。今後も存在しないのかも知れない。「これこそ決定的」と思えた2011年の事象を経て、2012年の5月には、1970年以来、実に42年ぶりに日本の全原発が停止した。原発ゼロ政策の導入による方針だったが、これまたもちろんまったく「決定的」なものではなかったのはご存知の通りである。

     なにが起これば「決定的」ということになるのか、僕のようなボンクラにはまったく想像もつかないのだが、とにかくこの世は僕などのあずかり知らぬ理屈で回っているらしいのである。

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    「20年後の日本」(小学館『ロボットと未来のくらし』1973年)。74年に夢想された1994年の日本列島。ツッコミどころが満載だが、注目すべきは福島付近を覆いつくすほど巨大な「原子力発電地たい」。国内の原発はこの一か所に集約されるという予想だったらしい。「絵のような未来は、そんなに遠くはないのです」と解説されている。

    初見健一

    昭和レトロ系ライター。東京都渋谷区生まれ。主著は『まだある。』『ぼくらの昭和オカルト大百科』『昭和こども図書館』『昭和こどもゴールデン映画劇場』(大空出版)、『昭和ちびっこ怪奇画報』『未来画報』(青幻舎)など。

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