夢と希望のエネルギー? 昭和こども文化が夢見た「原子力」/初見健一の昭和こどもオカルト回顧録

文=初見健一

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    かつて、それは「夢のエネルギー」だった。「げんしりょく」への期待がユートピアにつながっていた時代を、昭和こどもオカルト視点で振り返る。あの感覚、なんだった?

    「21世紀」を拓く「未来のクリーンエネルギー」

    「原子力」という言葉を耳にして、どんなイメージを頭に思い浮かべるだろうか?

     もちろん人それぞれだろうが、特に2011年以降、この言葉に不穏な響きを感じる人は多いだろうし、反射的に忌避感を抱いたり、さらにはもっと直接的な恐怖や戦慄を感じたりしてしまう人もいると思う。ともかく気軽に話せるタイプの話題ではないことは確かだろう。

     僕は「原子力」という言葉を聞けば自動的に暗澹たる気分になってしまうのだが、子ども時代のことを考えてみると、この言葉のイメージは現在のものとはまったく違っていた。昭和のこども文化において、「原子力」は「来るべき21世紀」を象徴する「夢と希望のエネルギー」であり、当時の科学読みもの、あるいは特撮ドラマ、アニメ、マンガなどのなかで燦然と輝く「未来」そのものだった。

     僕らよりひとまわり上の世代、60年代に育った「アトムの子」であれば、なおさらそうした憧れに近い感覚を強く持っていたと思う。70年代の子どもだった僕ら世代は、「なんとなく」ではあったが、すでに「原子力はヤバいらしい」という話も耳にしていた。しかし、それでも魔法のように万能で強力な動力であり、『鉄腕アトム』から『ドラえもん』まで、僕らのお気に入りのロボットたちに命を吹き込み、アニメや特撮ドラマに登場するさまざまなカッコいいメカをいずれ現実のものにしてくれるだけでなく、深刻な社会問題になっていた「公害」を一気に解決しくれる「クリーンエネルギー」なのだと信じていた。

     というわけで、今回は昭和の児童雑誌では定番だった「未来予想」記事(「21世紀の日本はこうなる!」という類の図解など)を眺めつつ、そこで「原子力」がどう描かれてきたか? そして、時代が進むにつれ、僕らの「原子力観」はどのように変化していったのか?……といったことについて回顧してみたい。

    「原子力」に特化した「未来予想」記事としてはかなり初期の「原子力で走る乗物」(講談社『たのしい三年生』1959年)。
    このスタイルが以降の典型で、マンガ誌の口絵や科学読み物の「未来予想」記事で「原子力」が語られる際は、ほとんどが「原子力エンジンを搭載したカッコいい乗物」がテーマになっていた。しかし、この記事の下部では「原子力のさまざまな用途」も解説されている。「原子ばくだん」も取りあげられており、「これだけはごめんだ」というコメントが添えられている。

    「原子力時代」の夜明けと「科学の子=鉄腕アトム」

     それでは、まずは1970年代初頭までの「原子力」をめぐる社会の主な動きをごく簡単に時系列に沿って並べつつ、それらに対応する形で各時代の子ども文化の空気感の変化を追ってみよう。

     日本が「原子力」……具体的には「原子力発電」に取り組みはじめたのは、1950年代のなかばからである。どいうところにどういう意図があったのかはともかくとして、一般の人々の間では「被爆国であるニッポンが核を平和利用して経済復興を果たす!」という非常にポジティブなストーリーが共有されていたようで、当初はこの計画への大衆的抵抗はほとんどなかったらしい(これについては後述する)。

     1954年に原子力研究開発予算が国会に提出され、翌年に「原子力基本法」が制定。翌56年には「原子力委員会」が設置される。日本人初のノーベル賞受賞者である湯川秀樹が委員に加わったことが大きな話題になった。さらに、湯川は「性急な原発建設は将来に禍根を残す」と委員会ともめ、辞める・辞めないのゴタゴタ騒ぎの後、翌年には結局辞任。この内紛もまた人々の注目を集めた。

     そして63年、早くも東海村で国内初の試験発電が開始されている。

     さて、このタイミングでテレビ放映がはじまったのが、ご存知『鉄腕アトム』(アニメ版)である。こういう話になると必ず引き合いに出されるキャラなのでちょっとかわいそうな気もするが、実際、「アトム」はその名の通り「原子力時代」を象徴する存在だった。「10万馬力」のパワーを発揮する小型原子炉を搭載し、妹の「ウラン」とともに大活躍する少年型ロボットは、国内初の原発稼働実験が成功した高揚感を背景に「21世紀の無限エネルギー」を見事に体現していた。

    「動く原子炉」であることは「ゴジラ」と変わらないのだが、被爆や空襲の記憶など、敗戦の悪夢を煮しめたような「水爆大怪獣」とは違い、こちらの「動く原子炉」は「核の平和利用」を前提とした輝かしい「未来の希望」を老若男女に広く周知したのだ。

     3年後の66年には国内初の商業用原発、東海発電所が営業運転を開始するが、同年、プロ野球チームの「産経スワローズ」は「アトムズ」に名称変更している。「アトム」は高度経済成長時代のトレンディなキーワードとなり、世はまさに「アトム」ブーム。素晴らしい未来をもたらす可能性に満ちた「原子力」という言葉に、人々はなんとなく「祝祭感」のようなものを感じていたのかも知れない。

    「みらいのふね 海のスピード王」(講談社『たのしい三年生』1961年)。
    こちらも典型的な「原子力エンジンを搭載したカッコいい乗物」の図解。近未来的デザインの双胴高速船が大迫力で描かれている。現実には鉄道や飛行機への「原子力」応用計画はすべて失敗しているが、船舶に関しては貨物船、砕氷船、軍艦などとして各国で実用化された。ただ、貨客船については実用化されたものの、コストや安全性などの問題で頓挫している(アメリカで開発された原子力貨客船「サヴァンナ」は1962年に処女航海、10年後に廃船になった)。

    1960年代は「原子力黄金時代」

     60年代初頭から70年代初頭までは、世論の期待に後押しされながら「原発推進」に邁進できる幸福な時代だった。「原子力」の「ゴールデンエイジ」だ。多くの人が「原子力」に「未来の希望」を見ており、あくまで推進一辺倒、完全に「イケイケ」の状態である。

     そして1970年、高度成長のピークであると同時にその終焉の時期に開催された「未来の祭典=大阪万博」は、テーマのひとつとして「原子の灯」を掲げた。関西電力が美浜の一号機で日本初の商業軽水炉による発電を開始し、大阪万博の会場に送電する。この計画は建設予定地の選定に難航し、さらには原子炉の建設や稼働準備も苦難の連続だったという。度重なるトラブルの末、当初の計画から5カ月遅れてようやく完成する。そして同年8月8日、生まれたての「未来のエネルギー」が万博会場に送られた。その電気で稼働した会場の巨大電光掲示板には、次のような文字が光り輝いた。

    「本日、関西電力の美浜発電所から、原子力の電気が万国博会場に試送電されてきました。」

     広場に集まっていた大勢の来場者から大きな歓声と拍手が沸き起こったという。

     その翌年、福島第一原発が営業運転を開始する。

    「みかいの大へいげんを行く げんしりょくきかん車」(講談社『たのしい三年生』1959年)。
    「もうすぐアメリカの大平原にこのような原子力機関車が走るようになる」と解説されているが、実際、原子力で走る機関車は1950年代にアメリカ、ソ連、ドイツ、そして日本でも考案され、各国で設計段階まで進行していた。しかし安全性・経済性に大きな問題があり、結局は製造には至らなかった。

    「風向き」が変わった70年代、そして「チャイナ・シンドローム」

     先ほども書いた通り、70年代初頭までは「原発推進」に対する大衆レベルの抵抗はほとんどなかった。しかし、あるにはあったのだ。原発建設予定地の住民が漁業権や生活環境を守るために起こす住民運動である。あくまで当事者たちの局所的な運動であり、ある段階までは全国的な広がりを見せなかった。しかし、徐々に商業原発が増えはじめるに従い、各地で「原発お断り」を掲げた運動が活発になっていく。一方、ご存知の通り73年にはオイルショックが起こり、これによって化石燃料に頼らない原発はより強力に推進されるようになった。

     そんな矢先の1974年、青森県沖で原子力船「むつ」が放射線漏れを起こすという前代未聞の事故が起きてしまう。これを危惧した沿岸各地の人々が「寄港阻止」の運動を起こし、「むつ」はしばらくどこの港にも接岸できなくなるという事態に至る。

     この事故によって、風向きが変わりはじめる。「原子力、ほんとはヤバいんじゃないの?」というレベルの「疑念」が、ごく一般の人々の間にもジワジワと広がりはじめたわけだ。翌年には全国初の「核燃料搬入阻止闘争」が起こり、抗議行動が大きな広がりを見せ、京都では初の「反原発全国集会」が開催される。さらに77年には「反原子力の日」が制定されて、全国各地で抗議集会などが開かれた。その翌年には長崎佐世保で「むつ入港阻止1万人集会」が開かれている。

     そして79年3月28日、世界を震撼させた決定的な事故が起こる。米国スリーマイル島の原発事故だ。メルトダウン(炉心溶解)に至るINES(国際原子力・放射線事象評価尺度)で「レベル5」(広範囲な影響を伴う事故)に分類されるクライシスである(同レベルの事故としては、1957年にイギリスの「ウィンズケール原子炉火災」が知られている。原爆製造用の軍事用原子炉で火災が起き、大爆発の可能性があったものの、未然に消火された)。

     これはよく知られた話だが、このスリーマイルの事故は映画『チャイナ・シンドローム』本国公開のわずか12日後のできごとだった。同作は原発事故の恐怖(作中の事故は寸前のところで回避されるが、ずさんな安全管理とコスト削減のための検査資料の改竄、利益最優先の管理者による謀殺も厭わぬトラブルの隠蔽……などがスリリングに描写される)を描いた社会派サスペンスで、当時の日本の小学生たちの間でも話題になっていた。あまりにも不思議なシンクロニシティに、本国では「あの映画に影響されたヤツがわざと事故を起こしたのだ!」という陰謀論が飛び交ったという。

    「さあ行け 宇宙特急アルデバラン」(『たのしい四年生』1961年)。
    「1980年には超大型原子力ロケットが実用化され、誰でも10万円で月へ行ける!」とのこと。実際、この「アルデバラン」という原子力推進ロケットはアメリカのエンジニアによって1959年に考案された。もちろん実現には至らなかったが……。

     以上のような経緯で、昭和の児童メディアが1950年代から描いてきた「21世紀」の「夢と希望のエネルギー」は、現実世界では徐々に不穏なイメージに覆われていくわけだが、次回は80年代から90年代にかけての「原子力」をめぐる状況と、主に若者世代のサブカルチャーとの関わりを見ていきたい。

     70年代までとはだいぶ様相が変わり、児童雑誌などで定番だった「未来予想」コンテンツが徐々に消えてゆく一方で、「反原発」が若者たちのポップカルチャーにおいては「意識高い系」の「知的なトピック」として盛んに語られるようになっていく。
     この時代をボンクラな若者として過ごしてしまった個人の印象でいえば、特に80年代の初頭ごろに僕らの「未来観」は決定的に変わってしまったように思う。子どもの頃にさんざん楽しんだ「21世紀はこうなる!」といった類の荒唐無稽な「未来予想」のコンテンツが急速に魅力を失い、というより、そうした想像力の遊びが成立する基盤がもはや失われてしまい、同時にあらゆるものが「ファッション」や「ライフスタイル」といった言葉で華やかに飾られる底なしの「消費」に回収されるようになったのがこの時期だった、という印象だ。そうした刹那的な変容は、そろそろ現実の「21世紀」が見えはじめてしまい、僕らが夢見てきたような「21世紀」は永久に「来ない」というミもフタもない感覚に根差していたような気もする。今にして思えば、その感じがいわゆる「世紀末」の気分だったのかも知れない。

    原発映画(?)のパイオニア的作品『チャイナ・シンドローム』(監督:ジェームズ・ブリッジス監督/出演ジェーン・フォンダ、ジャック・レモン、マイケル・ダグラスほか/1979年)。ジェーン・フォンダ扮するテレビ特番のレポーターが原発の取材中、炉心溶解の可能性もある重大事故が発生してしまう……というサスペンスタッチの社会派映画。明らかに原発内で異常なことが起きているらしいのに、常軌を逸した経営者側の隠蔽体質によって詳細がいっさいわからない、という描写がリアルに怖い。『カプリコン1』『合衆国最後の日』など、「アメリカの陰謀」を描く硬質な映画が多く制作された時期ならではの味わい。

    初見健一

    昭和レトロ系ライター。東京都渋谷区生まれ。主著は『まだある。』『ぼくらの昭和オカルト大百科』『昭和こども図書館』『昭和こどもゴールデン映画劇場』(大空出版)、『昭和ちびっこ怪奇画報』『未来画報』(青幻舎)など。

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