黄金の観音像が鎮める「首塚」の秘史/東京地霊スポット案内・円通寺

文・写真=本田不二雄

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    江戸の鬼門には何がある?そこにはミステリアスな「首塚」と、謎多き秘仏が眠っていた! 東京の異界を巡るシリーズ記事、3回目は江戸の辺縁を探る旅。

    「地霊」とは、その土地に残存する(かもしれない)霊的な存在のみならず、土地に染みついた記憶を伝え、その原点となる物語を宿し、ときに秘めやかに残され、ときに畏怖すべき対象として浮上する「場」が醸し出すナニモノかを言いあらわしたワードです。

     本書『東京異界めぐり』(本田不二雄 著。駒草出版 刊)は、東京の11エリアから、その土地に潜む地霊スポットを探索し、案内する内容ですが、そのなかから選りすぐりの「場」を紹介する本稿の第3回は、東京の北東鬼門の周縁に位置する南千住の気になる寺院の驚くべき遺物に注目してみましょう。

    「東京異界めぐり」(本田不二雄・著)/税込み1980円/駒草出版
    https://www.amazon.co.jp/dp/4909646876/

    「マージナル」な場が気になる

     マージナルとは、「縁(ふち)」や「境界」を意味する言葉です。なお、江戸人の境界観では、北は隅田川(荒川)、南は目黒川で内と外が区切られていました。地名でいえば北は千住、南は品川にあたります(時代ごとに諸説あり)。

     そんな辺境・周縁の場であればこそ、生まれた歴史あり、語られたドラマがあり、祀られた神仏もあり。そんなわけで、今回はお江戸北東の際(きわ)、南千住を歩いてみましょう。

     地図を見ると、江戸城(現皇居)の北東で、西から東へと流れていた隅田川が大きく湾曲し、南へと流路を変えています。その丸く突き出た陸地の際、湾曲の手前と曲がり切ったポイントに注目すべき神社があります。前者が素盞雄神社(すさのおじんじゃ、荒川区南千住6丁目60-1)、後者が石浜神社(荒川区南千住3丁目28-58)です。

      とりわけ素盞雄神社の境内社「飛鳥社」には、今から1230年前の神社のはじまりを伝える霊石の「瑞光石(ずいこうせき)」が見える形でゴロッと祀られており、要注目です。

     それはポツポツと小孔が開いた茶色の石で、社屋にて紙垂(しで)つきの注連縄(しめなわ)が渡され、手前には多数の小鳥居が奉納されてします。それだけでここがただならぬ祈りの場であることを物語っているのですが、その謎めく由緒に関する話は本書に譲るとして、本稿ではもうひとつの地霊スポットを紹介したいと思います。

     素盞雄神社脇の日光街道を南下し、三ノ輪方面に向かいましょう。すると三ノ輪のランドマークというべき、金ぴかの観音菩薩像がいやでも目に入ってきます。その大観音は、近代的な4階建ての本堂の上にあたかもミサイルの発射台のような形で納められ、指令を受け、ガンダムのように動き出すかのようです(戯言)。

     全長12ートル。その元型は、近代日本彫刻の祖・高村光雲の作だそうです。

    金色の観音菩薩立像が目印の円通寺の近代的な仏堂。

     円通寺のはじまりは、素盞雄神社より4年ほど先立つ延暦10年(791)。坂上田村麻呂が開創し、平安時代後半に源義家が再建したと伝わっています。ともに鎮守府将軍を務め、奥州の平定で名を残した人物です。そんな人物ゆかりの寺院がここにあるのがまずポイントです。まずはイントロとして、入口に建つ「百くあんのん」碑とユニークなお姿の狛犬像を目に留めておきましょう。

    「首塚」に秘められていた940年前の由緒

     境内に足を踏み込むと、印象が一変します。

     本殿に向かって左に、戊辰戦争唯一の記念物という「黒門」、右に「首塚・七重の塔」と呼ばれる異様なモニュメントが見えてきます。

    「首塚・七重の塔」がなぜ「異様」なのか。
     理由は、後者の“塚”に積み上げられた石の存在です。数にして50近く。何らかの石碑(いしぶみ)であることはわかるのですが、表面に刻まれていたと思しき文字はほぼ判別できず、のっぺらぼうなのです。どれほどの時間を経てこうなったのか。その証ともいうべき文字を失った無言の石碑群の“圧”に言葉を失います。

    円通寺境内の「首塚・七重の塔」。

     その上部には、鎌倉時代の年紀入りの緑色がかった板碑(青石塔婆)4基が突き刺すように立てられ、頂には七重の石塔がそびえています。その塔には寺の由緒が刻まれているといい、その文言は寺のHPで公開されていますので、読んでみましょう。

     ――永保三年(1083)、みちのく奥州に赴く源義家が王子のあたりを過ぎ、さらに馬を走らせると、とある仏堂の前で馬が足を止めた。

     義家は老僧にここは何の寺かと問うと、かつて坂上田村麻呂が開き、聖徳太子が刻んだ観音像を奉安する円通寺で、この地を観音原というのだと。そして、その観音像は河内源氏の本拠、河内国・円法寺の本尊と同体のものなのだと老僧。

    「なんということだ」

     実は、義家は父頼義とともにその本尊を篤く崇敬しており、写しの像を髻に納めて念持仏にするほどだった。その奇遇に驚きつつ礼拝すると、その夜夢に老翁があらわれ義家にこう告げた。

    「汝(なんじ)、これから奥州では、最初は政(まつりごと)を治められるが、のちに兵乱が起こるだろう。だが、観音菩薩を念ずれば、衆怨(しゅうおん)を消してくれるだろう」

     その予言通り、奥州では「後三年(ごさんねん)の役(えき)」が勃発し、多くの血が流されたが、義家は乱を平定し、持ち帰った賊の首48体を観音原に埋め、塚を築いて供養して敵も味方も同じように処遇した。この塚にちなみ、今は人呼んで小塚原という――(以上、本田による意訳)

    源義家と観音像の奇縁、そして謎めく秘仏

     これが「首塚」の由緒譚であり、このあたりの地名で、のちに江戸三大刑場のひとつとして知られる「小塚原」由来説だったというのです。

     ともあれ、「首塚」の名の通り、後三年の役の死者48人の首がこの地に埋められ、その上に慰霊の墓標が積み上げられたということでしょう。塚そのものは再構築されたようですが、940年ほど前の土地の記憶がこのような形で残されていた。その事実にまずは驚かされます。

     なお、「観音原」というのがこの地の古称で、円通寺はかつて百観音の通称で知られていました。百観音とは、西国三十三観音+坂東三十観音+秩父三十四観音を合わせた総称で、かつて門前に百観音を祀った観音堂があったことからそう呼ばれたそうです。

     観音堂は江戸末期の安政地震で倒壊したようですが、ご住職によれば、ビル4階の本堂にそのうちの三十三体が祀られているということで、ご案内いただきました。

     ここで住職から、一般には知られていない円通寺ご本尊の話を伺いました。

     正面には、前立ちの像を隔てた奥に古びた厨子(仏像を納めた容器)がありました。聞けば、中身の聖観音像は住職ですら在職時に一度見るか見ないかという厳重な秘仏で、専門家によれば平安時代後期にさかのぼる造作とのこと。

     先の縁起を読むと、後三年の役ののち、源義家は「再び梵刹(寺院)を建つ」と円通寺を再建したことを伝えていますが、秘仏はそのときに奉納された義家ゆかりのお像でしょうか。だとすれば、時代的には辻褄が合います。

     また縁起には、再建から二百年後(室町時代)、失火により堂舎が焼け本尊も失われたものの、後日近くの池で光を放つものがあり、なんと件の本尊がハスの葉に座っていた。その金色の光は「人を射る」ものだったと記されています。何とも不思議な話ですが、その霊威の強さゆえ、以後、厨子の中に封印されたのかもしれません。

     そして、その代わりに据え置かれたのが本堂ビルの黄金の観音像だった――そう考えれば、あれだけの存在感で屹立する意味が理解できる気がしてきました。

    円通寺の境内入口に建つ「西国 坂東 秩父 百くあんのん」の石碑。
    源義家(『前賢故実』より。菊池容斎画)

    本田不二雄

    ノンフィクションライター、神仏探偵あるいは神木探偵の異名でも知られる。神社や仏像など、日本の神仏世界の魅力を伝える書籍・雑誌の編集制作に携わる。

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