カエルが人間に戻る儀式!? 奈良・吉野山の奇祭「蛙飛び行事」を目撃!/奇祭巡り・影市マオ
七夕の日、奈良県吉野町の金峯山寺蔵王堂で繰り広げられる奇祭「蛙飛び行事」を徹底レポート! その熱気、そして歴史と由来に迫る!
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「永楽じゃ、世は楽じゃ!」ーー笑いと威勢があらぶる奇祭を先導するのは、白塗りの福男。「笑い祭り」に笑福儀式の源流を見た!
目次
「笑いと恐怖は表裏一体」といわれるが、それを顕著に体現した存在が“ピエロ”だろう。
本来は人々を笑わせる愉快な属性でありながら、白塗り顔でエキセントリックな佇まいは、どうしても不気味に見られがちだ。しばしばホラー映画などでも、超常的な力を持つモンスター的な強キャラとして登場し、ピエロ恐怖症なる心理もあるわけだが……。
そんなピエロ姿の存在が、よりにもよって、主役として現れる奇祭が、和歌山県の日高川町にある。
毎年10月の第2日曜日に、丹生(にう)神社の例大祭「丹生祭」として催される、通称「笑い祭」である。
江戸時代から続く伝統行事で、その内容はまさにユーモラス。 神輿を導く先達の合図で、氏子の笑い男達が大笑いしたり、見物人を笑わせながら、町内を練り歩くというものだ。
起源については諸説あるが、祭神・ニウツヒメ(丹生都姫命)にまつわる次のような言い伝えに由来する。
遠い神代の昔、神無月(旧暦10月)に出雲大社で神々の会議が開かれることになり、ニウツヒメも出席予定となった。
ところが、ニウツヒメは集合当日の朝、うっかり寝坊してしまう。
しかも、彼女が慌てて走り出したところ、腰巻を木の枝に引っかけてしまい、なんとまさかの丸裸に。
これを見た村人達が大笑いした為、ニウツヒメはすっかり塞ぎ込み、社殿に閉じ籠ってしまった。
そこで心配した村人の代表が、異様な衣装を身に着けて社殿に現われ、人々の笑いを誘いながら、「笑え、笑え~!」と彼女を慰めた。
すると、ニウツヒメは笑顔を取り戻し、無事に出雲へ行って役目を果たしたという――。
まるでマンガのドジっ子のような、可愛らしい女神の話である。ニウツヒメは本来、アマテラス(天照大神)の妹ともいわれ、空海に高野山を授けたとされる尊い神格だが、現代までしっかり恥ずかしい歴史を伝承されていることには、なんとも同情を禁じ得ない。
それはともかく、言い伝えに登場する異様な衣装の村人というのが、「笑い祭」における先達に当たる。そして彼こそが、「鈴振り」と呼ばれるピエロの如き怪人なのだ。人々に幸福をもたらすべく、季節の変わり目に異形の姿でやって来る辺り、“来訪神の一種”とも捉えられる。
この怪人の写真は、筆者の愛読書『とんまつりJAPAN』(著・みうらじゅん)の表紙にもなっているので、以前から是非一度、実物を見たいと思っていた。加えて、今年は「笑い祭」が4年ぶりの開催予定となった為、悪天候の予報にやきもきしつつ、意を決して現地へと向かったのだった。
和歌山県中部に位置する日高川町。地名の由来となった清流・日高川が東西に流れる、水と緑が豊かな山里である。
いや、あちこちで祭り囃子が響き渡るこの日に限っては「笑いの里」という形容が相応しいかもしれない。
町内の南西端に並ぶ和佐・江川・山野・松瀬の4地区は、明治~昭和時代にかけての行政区分が丹生村で、その村社が丹生神社であった。「丹生」は、「丹(硫化水銀の鉱物)」が生ずる場所、つまり“水銀の産地”を意味する。かつてこの地に水銀鉱山があり、丹生氏によって開拓された歴史を表す地名である。
丹生氏とは、渡来人を中心とした古代の水銀採掘集団で、ニウツヒメを氏神に祀っていたとされる。
その為、旧・丹生村の各地区には、ニウツヒメ(別名・真妻大明神)を祭祀する小祠が多数建立され、水銀の女神として崇敬を集めた。しかし明治41年(1908)、国の「神社合祀令」によって、各地区にあった祭神が全て江川八幡宮に合祀されると、現在の「丹生神社」に改称。地区ごとの神社の奉納行事も、秋の例大祭として合同で行う形になり、和佐明神社から伝わった「笑い祭」が象徴的なものとなった。
そんな訳で、祭り当日は朝から晩までの長時間に渡り、複数のイベントが同時多発的に進行する、少々忙しい日程なのだ。
10月8日の午前8時過ぎ――丹生神社の最寄駅である和佐駅(JR紀勢本線)を出ると、駅前通りを練り歩く神幸行列に早速遭遇。神輿とともに、太鼓や笛を奏でる法被姿の男女が大勢で列を成し、その先達として矛を持って舞う鬼もいる。
彼らが向かうのは、数キロ離れた江川地区の“御旅所”である。日高川支流・江川川の左岸、橋の袂にある小道を利用した場所で、いわば祭りの中継地点だ。
筆者は近道を使って行列を先回りし、午前9時前にその御旅所へ到着した。
橋の欄干には、「御祭儀」と書かれた大きな幟旗が掲げられているが、まだほとんど人影はない。
すると程なくして、1キロ余り離れた丹生神社の方から、神職数人を先頭にして、神輿2基が川沿いの田舎道を進んで来た。駅前で見たものとは異なる、煌びやかな神輿と小さな神輿だ。前者は主祭神の八幡神(誉田別命)、後者はニウツヒメの御霊が遷されているそうで、御旅所に着くと並べて安置された。
やがて、神輿の横の路上にマイクロバスが停車し、中からピンクの首巻きをした裃(かみしも)姿の男達が降りて来た。「枡持ち」と呼ばれる笑い男達である。和佐地区の氏子12人から成る彼らは、皆1個ずつ“福枡”を抱えている。塞ぎ込んだニウツヒメを心配した村人達が、神前に供えたといわれる一升枡だ。
枡の中には藁が詰められ、今秋採れた野山の幸(野菜や果物)が竹串で数本刺してあり、下部が首巻き同様ピンクの布で覆われている。また、中心には紙垂や水引が付いた竹串の御幣があり、先端に今秋実った稲穂が1本取り付けられている。これら12個の福枡は、1年を表しているそうで(閏年は13個)、枡持ち達は次々と神輿前の祭壇に供えていく。
と、その時であった。神輿の後ろの方から、何やらド派手な配色の物体が、こちらにゆっくり近付いてくるではないか――そう、笑い翁・鈴振りの登場である。
まさかバスで来るとは思わなかったが、やはり鈴振りの姿はだいぶ道化ており、どうかしている。
何せ、顔中に白塗りの化粧を施し、両頬には赤く「笑」の文字、顎には鳥居が描かれているのだ。太い八の字眉や、ボツボツとした髭もあり、鼻は赤く塗られている。身に着けている衣装は、赤い頭巾、赤・黄・青・水色の縞模様のちゃんちゃんこ(背中に「笑」の文字入り)、ひょうたんが付いたピンクと紫の腰帯、赤い袴、足袋、草鞋などだ。そして、右手に特製と思しき錫杖風の鈴を持ち、左手で宝箱(長方形の木箱)を抱えている。
言い伝えを再現したという異様な装いである。
鈴振りは長年、高齢の男性1人が務めていたが、数年前に代替わりし、今は40代の息子さんが演じているという。その為、比較的若い印象だが、化粧や衣装が似合うという点で、確かにこの大役に適した人材のように思えた。力を温存しているのか、意外にも落ち着いた感じなのが、かえって不気味だったけれど……。
鈴振りは神輿と向き合って真ん中に、その背後には枡持ち達が並んで座り、さながら旅芸人の一座のような雰囲気となった。
そんな彼らの姿に目を奪われていたら、約100メートル後方に見える川の対岸では、いつの間にか鬼達が舞を繰り広げている。丹生神社の地元・江川の雄雌の鬼が、他の地区から来た神幸行列を迎える儀式「鬼の出迎え」である。双方の鬼達が矛と簓(ささら)を持って睨み合い、飛び跳ねて近づいたり遠ざかったりしており、遠目に見ても迫力が感じられた。幟旗の数も増え出し、徐々に各地区の祭り人や見物人が集まりつつあるようだ。
さて、ここで視線を手前の方に戻すと、鈴振りが我関せずとばかりに、なんと缶ビールをゴクゴクと飲んでいる。背後で一生懸命に舞い踊る鬼達とは、えらいギャップである。
朝から飲み始めるなんてけしからん……と、少し思ったが、これも実は祭りに必要なことらしい。
というのも、ニウツヒメは農耕の女神ともされ、紀伊地方に稲作を伝えたといわれる為、米で作る酒とも縁があるのだ。例えば、高野山の麓に位置するかつらぎ町の「鎌八幡宮」は、無数の鎌が刺さったディープな御神木で知られるが、ここは丹生酒殿神社の境内社に当たる。「酒殿」と付く社名は、今から約1700年前、この地に祭神のニウツヒメが降臨した際、木の川(紀の川)の水を使って酒を醸造したとの言い伝えによる。
こうした神話的背景やお清めの他、酔いが笑いを促す効果もあることから、元々「笑い祭」は、皆で酒をたくさん飲んで笑う祭りであったという。
その為、とりわけ鈴振りは、酔っ払い風の見た目通り、前夜の宵宮から飲酒し続けるのだとか。
決して「飲まないとやってられっか」という荒んだ態度ではないのだ(多分)。
――そうこうしているうちに、御旅所神事が始まり、修祓や祝詞奏上などの儀式が粛々と行われていった。鈴振りがうやうやしく、神前に玉串を捧げる姿は、なかなかシュールであった。そして、巫女舞や獅子舞が一段落し、午前11時を迎えると、いよいよ彼が本格的に動き出したのである。
「永楽じゃ~、世は楽じゃ~!笑え、笑え~!ワッハッハー!」
突如、鈴振りがこう叫びながら、鈴を高く突き上げてシャンシャンと振り鳴らした。
それに合わせて、背後の枡持ち達も「ワッハッハー!」と豪快に笑い、福枡を頭上高く掲げる。
この“大笑い”を3回ずつ繰り返すことで、人々に笑いを促し、五穀豊穣を祈願するのだ。
久々だからか、鈴振りに若干の照れも伺えたが、やはり生の掛け声には震えるものがあった。
ここから神輿は丹生神社へ還御となり、神幸行列が移動開始。人ごみをかき分けつつ、元来た川沿いの道を練り歩く。鈴振りと枡持ち達の後ろからは、少し距離を置いて、白装束の男達が担ぐ神輿と、法被姿の子供達が担ぐ神輿、さらに各地区の四つ太鼓(稚児が搭乗)や屋台、幟旗などを担ぐ人々が追従する。
道中、鈴振りは鈴を振り鳴らしながら軽快に進み、時折、宝箱の中から福飴を取り出して人々に配る。そして、要所要所で神輿を止め、先程と同様の掛け声で“大笑い”を行う。
彼が周囲の人々と間合いを取り、宙に弧を描いて鈴を振る様子は、まるで魔法の呪文詠唱を彷彿とさせる。差し詰め、召喚士ならぬ“笑喚士”といった感じで、その勢いにつられて笑う人も多いようだった。
通常ならここで、鈴振りは福飴を景気良くばら撒くはずなのだが、雨で地面が濡れていたからか、今回は丁寧に手渡ししていた。
「飴をどうぞ~、欲しい人は手を出してください~」
急に社会性を感じる言動で少し戸惑ったが、ありがたく筆者も福飴を頂戴した。
このように、基本的に陽気で愉快な祭りであるが、やはり浮世離れしたピエロ的存在に恐怖し、福飴を貰いに行けないちびっ子も中にはいるようだ。鈴振りがふとした瞬間に見せる虚無の表情は、大人でも正直怖いのだから仕方無いだろう。ときには鈴振り自身もまた、地元の人に「笑え、笑え~!」と真顔を注意されていたので、つい失笑してしまったが……。
行列は途中で休憩を取り、皆で缶ビールを飲みつつ、正午前に丹生神社まで到着。
すると、神輿が目の前の川原まで下りていく。そして、なんと神輿を担いだまま、男達が川の浅瀬へ突入。別に酔ってやらかした訳ではなく、宮入り前の清めの儀式だそうだ。
しかし雨が強まり、既にびしょ濡れとはいえ、さらにあえて水に入るとは……これはもう笑うしかない。一方、鈴振りはというと、さっさと枡持ち達と神社の境内に入り、軒下で雨合羽を着用。恐らくレアな防水モードに変化した。
この丹生神社は、「笑いの宮」の異名を持ち、江川川の湾曲部に鎮座する古社である。
前述の通り、元々は八幡神を祀る江川八幡宮であったが、神社合祀以降は、ニウツヒメやアマテラスなどの神々も配祀されている。
過去には、世界的な旅行ガイドブックを出版するロンリープラネット社に「世界で最も幸せな10の場所」の1つとして選出され、「笑い祭」ともども注目を集めた。ちなみにその記事では、やはり鈴振りは「クラウン(ピエロ)」として紹介されている。
また毎年正月には、鈴振りが同様に爆笑の渦を巻き起こす、「初詣初笑い神事」も行われているようだ。
そんな境内の片隅で雨宿りしつつ、神輿が来るのを待った後、鈴振りらは拝殿ではなく、何故か裏山の方へ移動。最後の難関とばかりに、未舗装の坂道を上っていく。まさか、頂上まで行く気か……!?と、思いきや、何のことは無い、すぐに下り坂になり、結局は遠回りする形で拝殿前の広場に出た。
ここで珍道中はクライマックスを迎え、鈴振りの誘導により、神輿が旋回(酒酔い)しながら激しく揺れ動く。
「エーラクシャ(永楽じゃ)!ヨーラクシャ(世は楽じゃ)!」
皆で威勢良く掛け声を繰り返し、人々が取り囲む広場を縦横無尽に駆け巡るのだ。
全然楽そうじゃないが、雨の中で神輿が乱舞する光景は、実にドラマチックである。
やがて、神輿は石段を上がって鳥居を潜り、「笑え、笑え~!」の掛け声とともに拝殿に到着。境内は、沢山の歓声と笑顔に包まれた。
その後、鈴振りと枡持ち達は、それぞれ福飴と福枡の作物(縁起が良い)を全て人々に配布。
そして最後に“大笑い”を行うと、全員朗らかな表情のまま、社殿の奥へ消えていった。
だが、祭り自体は尚も続き、各地区の奉納行事が延々と繰り広げられたのであった。
ところで、一部の老人が「お笑いさん」「お多福さん」などと呼んでいるのを見て、
今更ながら、鈴振りのベースが“福の神”であることに気付いた。まさに「笑う門には福来る」という訳だ。実際、鈴振りは以前、「大黒」とも呼ばれていたという。すなわち、七福神の一柱として知られる「大黒天」である。
今でこそ大黒天は、出雲大社の祭神・オオクニヌシ(大国主命)と同一視され、笑顔で五穀豊穣を司る福の神と化している。しかし、密教で日本に伝来する以前の古代インドでは、ヒンドゥー教の「マハーカーラ(摩訶迦羅)」なる憤怒相の破壊神であった。その名はサンスクリット語で「大いなる暗黒」を意味し、世界を破壊する時のシヴァ神の異名とも考えられている。
従って、日本でも当初、大黒天は破壊と豊穣の神として祀られたが、いつしか荒々しさは影を潜め、農耕神の性格を強めていったという。
中世以降、大黒信仰を民間に広めたのが、旅芸人による「大黒舞」だったとされる。
大黒舞とは、正月に大黒天に扮して家々を巡り、祝福の言葉を連ねながら、面白おかしく舞い踊るという門付け芸(人家の門前で披露する芸能)だ。
かつて民俗学者の折口信夫は、門付け旅芸人を「マレビト」と呼んだが、その姿は確かに来訪神であり、道化師であるともいえよう。こうしたことから、「笑い」と「恐怖」の二面性を持つピエロと、大黒様は親和性が高いように思われる。
ただし、江戸時代の文献『紀伊国名所図会』には、「笑い祭」の絵に鈴振りの姿は描かれておらず、
「笑え、笑え~!」の掛け声は当初、村の長老が担っていたようだ。また、祭りは明治・大正時代に中断していたが、昭和時代の初めに復活し、戦後になって現在の鈴振りが登場したという。派手な装いに多少新しさも感じられるのは、彼が20世紀生まれの存在だからなのだ。
「笑い=祓い」ともいわれるように、日本では古来、「笑い」には邪気を退ける“呪術的な力”があると信じられてきた。古代人が暗闇や災害などの「恐怖」を克服すべく、祈りにも似た原始的な防衛行為として生み出したのが、「笑い」であったとも解されている。ここからも、やはり「笑いと恐怖は表裏一体」ということが伺えよう。
例えば、古代人が最も恐れた自然現象のひとつである雷は、「神鳴り」が語源とされるが、民俗学者の柳田国男によると、「天の神の笑い」とも捉えられたという。その為、人々は神と敵対せぬよう機嫌を取るべく、笑いを捧げることで平安を願ったのだとか。
こうした神を笑わせる道化者のことを、柳田は「烏滸(おこ)の者」と呼んだ。「烏滸」とは、愚かなことや滑稽な有様などを指す古語。現在は「おこがましい」という言葉で残る程度だが、江戸時代に「馬鹿」が使われ出す前までは、「烏滸」が道化的な意味を持っていたのである。ちなみに「おこ(をこ)」は、後に「をかし」へ変化し、現在の「おかしい」という言葉になったといわれる。
面白おかしい道化でありながら、巫女に近い役割も担った烏滸の者は、鈴振りらの遠祖といえるかもしれない。
一説によれば、そもそも「笑」という漢字の形は、若い巫女が恍惚状態になり、笑いながら両手を挙げて舞い踊る姿に由来するとされる。すなわち、神託を受けるべく、神を楽しませようとしている儀式の様子だ。これが物語る通り、笑うことなどで神を元気付ける行為は、「魂(たま)振り」と呼ばれる神道の呪術に当たる。空気を震わせて神の魂を揺さぶり、その霊威を高めることによって、なるべく多くの恩恵を得ようとするものだ。神輿を激しく揺さぶったり、祈願の際に柏手を打ったり、鈴を振り鳴らすことなどにも、同様の意味があるという。
そんな訳で、ピエロこそ現れないが、「笑い」をテーマにした祭り自体は、丹生神社以外でも日本各地で行われている。例えば、愛知県名古屋市の「オホホ祭り(酔笑人神事)」や、大阪府東大阪市の「お笑い神事(注連縄掛神事)」、山口県防府市の「笑い講」などである。いずれも「笑い祭」同様、感情的な面白さにかかわらず、“笑いの奉納”によって除災招福を祈るとされるものだ。
また三重県尾鷲市の「山の神祭り」は、男達が懐からオコゼ(虎魚)を覗かせて大笑いするという奇祭で、その光景はより不可解ながらも興味深い(オコゼの名は烏滸に由来)。どうやら神話に由来し、山の神(女神)を励ますことを意図した祭りらしく、「笑い祭」との類似性が見受けられる。
和歌山が生んだ博物学と民俗学の巨星・南方熊楠は、山の神とオコゼに関する随筆『山神「オコゼ」魚を好むと云ふ事』の中で、地元近くの「笑い祭」をも紹介している。同記事では、「笑い祭」の由来神話について、ニウツヒメが寝坊して急ぐあまり、湯巻を木に引っかけて裸になったものの、気にせずそのまま出雲へ向かった――とする異説を採っている。
その上で南方は、「それは猥褻などと言うかも知れぬが、予はかえってこの女神の大神に忠誠の志篤かりしを称賛する。とにかくあまりの勢いに呆れて手下の小神輩、手を拍って歓声雷のごとくなりしを真似て、この祭り起こりしという」と記述。つまり、ニウツヒメの手下の神鳴り――“魂振り的な爆笑”を模倣して、「笑い祭」が始まったというのである。
ちなみに、南方は神社合祀令の反対派であり、神社が整理されることによって、土着の習俗・信仰などが失われると危惧していたそうだ。実際その通り、和佐明神社が合祀励行で取り潰された結果、「笑い祭」は昭和時代になるまで途絶えることとなった。しかし、疫病の流行や火事の多発から、神をなだめる為に再開された歴史があるという。
「笑い祭」の由来のひとつと考えられ、笑いの場面のある最も有名な神話が、『古事記』『日本書紀』に記される「天岩戸隠れ」である。確かに、妹神といわれるだけあって、ニウツヒメが社殿に籠ってしまう行動は、姉神たるアマテラスのそれを彷彿とさせる。心配した周囲の者達が一計を案じ、賑やかなお祭り騒ぎによって、最終的に外へ導き出される流れも同様だ。
そして、ニウツヒメは木に引っ掛けて着衣が脱げ、アメノウズメ(天宇受売命)は岩戸前で肌を露出させて舞い、それぞれ裸になって巻き起こしたのが“大笑い(咲い)”である。
アメノウズメの踊り(神楽の起源)については、「鎮魂祭」を反映したものというのが通説だ。
鎮魂祭とは、「みたましづめのまつり」「みたまふりのまつり」とも読む宮中行事。現在「鎮魂」という言葉は、死者の霊を慰める意味で用いられるが、元々は「たましづめ」や「たまふり」と読み、遊離しようとする生者の魂を体に鎮める儀式を指していた。
故に宮中では、太陽の光と生命力が弱まる冬至の頃(昔は旧暦11月)、新嘗祭の前日に、アマテラスの子孫たる天皇の霊魂に対し、鎮魂と魂振りの儀式が行われるのだ。いわば、天皇の健康を守る為の呪法である。古くは『日本書紀』に、「招魂(みたまふり)」として鎮魂祭が記されており、元々はシャーマニズム色が強い、魂振りメインの儀式であったと考えられている。アメノウズメの子孫とされる巫女一族も、神楽舞などで鎮魂祭に携わっていたという。
要するに、古代の巫女(シャーマン)を表すアメノウズメが、魂振りの元祖であり、烏滸の者の原型ともいえるのだ。彼女が行った魂振りでアマテラスの魂は甦った訳だが、この逸話は、神への願いは“笑いによって叶えられる”という、古代の信仰が反映していると見ることもできる。
なお、平安時代の文献『古語拾遺』によると、笑い声で外の様子が気になったアマテラスが、岩戸を少しだけ開けた際、神々の顔(面)に光が当たって白くなったとされる。そして、その太陽が復活した歓喜の様子から、「面白い」という言葉が生まれたのだとか。
もしかしたら、鈴振りが“面白ピエロ”と化したのは、これが理由の1つなのかもしれない。あるいは、かつて白粉の原料に水銀が使われていたことも、何か関係があるのだろうか。いずれにせよ、彼があんなに鈴を振って笑うのは、場や人々を祓い清めると同時に、魂振りという重要任務を担っているからなのだ。お多福ことアメノウズメのように、暗黒の世界を明るくしようとしているのだ。
「草生えるwww」というネットスラングの如く、笑いで元気付けられたニウツヒメが、稲草などの五穀豊穣をもたらしてくれる――そんな微笑ましい信仰が、日高川の地に根付いているのである。
影市マオ
B級冒険オカルトサイト「超魔界帝国の逆襲」管理人。別名・大魔王。超常現象や心霊・珍スポット、奇祭などを現場リサーチしている。
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