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昭和戦前を席巻した新宗教・大本のリーダー王仁三郎は、近代的な右翼団体「昭和青年会」「昭和神聖会」のオルガナイザーでもあった。 大陸覇権を狙う軍部や急進派右翼と手を結んで驚天動地の国家改造と霊的革命をめざした知られざる日本のオカルト愛国結社の秘史をあばき、驚愕の真相を明らかにする! (ムー 2013年12月号掲載の記事に加筆校訂)
目次
大正10年の第1次弾圧の痛手から立ち直った大本は、昭和になると第2期の黄金時代を迎えた。エスペラントの採用に象徴されるように、リベラルで開明的なモードが支配的になり、万教同根と世界平和に重点を置く人類愛善会の活動が中心にすえられ、その教線は遠く中国、満州、ヨーロッパ、南米、ポナペにおよび、教団内は穏やかな空気に満ちていた。
1931年(昭和6)5月、東京で開催の日本宗教平和会議に、王仁三郎は栗原白嶺を派遣、国際連盟、軍縮会議の徹底的推進、ミリタリズムの放逐を提唱し、国家神道代表の筧克彦、沢田五郎らの日本の戦争行為はすべて聖戦であるとする意見と激しく対立した。
ところが、同年10月の満州事変を境目に、大本はなかば公然と軍部と交流する急進右翼勢力へと変貌をとげ、昭和9年には出口王仁三郎を統官、伝統右翼の巨頭で「泣く子も黙る」といわれた、黒龍会の内田良平を副統官とする昭和神聖会を結成するにいたる。
このような変貌の背後にはいったい何があったのだろうか。王仁三郎は宗教を彼岸の世界のもののみとは考えていなかった。『霊界物語』のなかで「キリスト神を楯として麺麭を説き、マルクス麺麭もて神を説く」と詠んだように、王仁三郎の念願にはつねに現実社会で苦しむ民衆の救済があり、それは「立て替え立て直し」という出口なおの筆先の言葉で表象された。
1930年代の日本は、明治以降の急速な近代化によるさまざまな矛盾がいっきょに噴出し、大きな曲がり角にさしかかっていた。それは国内的には農村危機としてあらわれた。1920年代前半、日本農業の主軸は米と繭(生糸)で、生糸は総輸出金額の30~40%におよんでいたが、20年代後半には、朝鮮産の米の流入で米価が下落、アメリカの生糸相場の下落で農村の不況は常態化する事態となった。
1929年(昭和4)10月のニューヨーク市場の株価暴落に始まる世界恐慌の波は、浜口内閣の金本位制復帰と緊縮財政で増幅され、日本を直撃。1930年(昭和5)の輸出額は前年比5割に落ちこみ、300万人以上の失業者がでる事態となる。輸出の激減で繭価は暴落し、豊作で米価は大暴落し、「キャベツ50個で敷島タバコひとつ」といわれる状態になる。さらに翌昭和6年には東北地方は深刻な冷害に見舞われ、飢餓水準の窮乏に陥る。
同年12月に成立の犬養内閣による金本位制離脱、国債発行によるリフレ政策と満州事変による軍需景気で、産業界は急速に景気回復過程に入り、軽工業から、鉄鋼、造船、機械などの重化学工業中心の産業構造へと転換する。
だが、おこぼれは農村にはまわってこなかった。冷害が続き農村はますます病弊、昭和7年、山形県某村では467人の15~24歳の娘のうち110人が遊郭に売られ、115人が女中、酌婦に出ていた。
産業資本にとって、貧しい農村は、安価な労働力プールとして好都合だった。それは景気回復過程における追加的労働力の供給価格を低水準におし止め、製造業の突出した回復に寄与した。つまり30年代の急成長と産業転換は、農村の犠牲の上に成り立っていたのだ。
実際、資本家の政府は、農村対策には熱心ではなかった。一応、農家に現金収入を与えるための土木工事が実施されたが、それも財政赤字を理由に削減された。
財閥と支配的エリートに対する怒りと怨嗟の声が巷に充満する。このころ、王仁三郎は「このままに世を捨ておけば地の上はたちまち修羅の巷となるべし」と詠んでいる。
明らかに日本は行き詰まりつつあった。社会的な不公平と格差是正にために根本的な革命が必要だと多くの人々が感じはじめた。だが、それはどのような思想で行われるべきなのか。
共産党とその影響下にあった諸団体は弾圧で息も絶え絶えだった。コミンテルンの32年テーゼによる天皇制打倒のスローガンは、義務教育における教育勅語の徹底的な刷り込みと、大逆事件の極刑の記憶によって深く民衆の心にしみこんだ天皇制タブーの前に自爆を余儀なくされ、特高警察の白色テロの血の海のなかで、大量の転向者を出すだけに終わった。
このような状況下で有効性を持ちえたのは、一君万民の理念にもとづき、天皇と民衆を隔てる財閥や重臣、ブルジョア政党などの「中間勢力」「君側の奸」の排除をよびかける急進的右翼勢力の思想であった。
治安警察は左翼をその思想ごと抹殺できたが、体制護持的な天皇崇拝と革命的に読み替えられた天皇崇拝のあいだに明確な分断線を引くことは不可能であり、急進右派に対する思想レベルでの弾圧は不可能だった。
しかも彼らは軍の革新派や青年将校と強力なネットワークを結び、その社会改革の主張は、満蒙問題とも結びついていた。
満州は日本の海外投資の大半が集中する地域であり、石炭、銑鉄、大豆などの原料供給地としても重要であり、農村の過剰入口を送り込む開拓地としても期待された。
大本の右旋回はおよそ以上のような文脈にそった「立て替え立て直し」思想の時代的発現であり、大本は1930年代の急進右派のなかで、最大の勢力として登場する。
従来の日本右翼史のなかでは、血盟団事件や5・15事件などのテロ事件のみが語られてきた。王仁三郎にいわせれば、「一人一殺でひとりを殺してもかえって新進気鋭の後尾軍を前線に誘導する」のみである。王仁三郎はむしろ大衆を組織し、その圧力による国家改造を構想した。それは一匹狼的な日本の右翼にはおよそなかった発想であり、王仁三郎の組織した昭和青年会、昭和神聖会は日本で唯一の近代的な組織右翼として時局をゆさぶることになる。
昭和6年正月、王仁三郎は「西暦1931で〈いくさのはじめ〉、神武紀元では2591年で〈じごくのはじめ〉じゃ」と託宣する。同年9月8日、綾部の本宮山上に3基の歌碑を建立、王仁三郎は信者を前に「これから10日後に大きな事件が起こる」と予言、事実10日後に満州事変が勃発する。
これは「予言」というが、王仁三郎はそれを霊的に知ったのではない。王仁三郎は満州事変に到る過程に深く関与し9月18日に関東軍が奉天郊外の柳条湖で線路爆破事件を起こし、一挙に満州を占領することを事前に知っていたのだ。
当時、大本は満州、華北に大きな勢力をもつ道院・紅卍字会と緊密な提携関係にあった。
道院は1916年に山東半島で成立したシャーマニズム系宗教で、世界紅卍字会は慈善事業を目的とするその外郭団体である。
1923年、フーチとよばれる神託によって関東大震災を前知した道院は、救済米2千石と銀2万元を日本に届けるが、「日本には道院と同じような宗教がある。これと提携せよ」という神命も同時に下っていた。
訪日した幹部の侯延爽は、南京日本領事で大本信者の林出賢二郎の紹介で王仁三郎と会見、大木と道院は「中国の道院は日本の大本、日本の大本は中国の道院」という深い関係で結ばれるようになる。
王仁三郎には「尋仁」(じんじん)という道名が降り、昭和4年には「尋仁は衆生の光明、濁海の導師」「東亜大陸の先覚者」であり、最高神・至聖先天老祖と接霊し、その言葉を伝える特権的な聖者であるとするフーチが下る。つまり、王仁三郎の言葉は神の言葉だというのだ。
紅卍字会は貧民救済のための病院や学校、無利子融資、保育園などの事業を展開し、中国における認知度は赤十字をしのぐものがあった。その道院・紅卍字会が王仁三郎を実質的な教主と仰いだのだ。
1929年(昭和4)10月、王仁三郎夫妻は、満州を巡教、奉天、瀋陽など各地の駅頭で数百名の出迎えを受ける騒ぎになった。張作霖爆殺事件の後で対日不信感は極度に達していただけに、これは驚くべきことであり、満州問題の解決の糸口を探る軍部に大きなインパクトを与えた。こうして王仁三郎と関東軍の急進派は、それぞれの思惑が交叉する中で暗黙の協力関係を結ぶようになる。
1928年、中国国民党による北伐の開始によって、日本の満州における既得権が危機にさらされると、英米との協調外交は崩壊を余儀なくされ、関東軍の急進派によって、満州を中国本土と切り離すという作戦が立案される。
8月に本庄繁中将が関東軍の司令官に、建川美次(よしつぐ)少将が参謀本部の作戦部長に就任するとこの動きはいよいよ加速する。このころ急進派の青年将校が満州との往復の途次に亀岡の大本本部に立ち寄り、王仁三郎と面談、関東軍の板垣征四郎、石原莞爾の動きが伝えられ、建川美次からも連絡があった。
9月18日に戦闘行為が発生すると、王仁三郎はただちに奉天の日本憲兵隊に「全満州道院の人々のご保護を乞う 大本王仁」という電報を打つ。ちなみに奉天憲兵隊長の三谷清は熱心な大本信者であった。
王仁三郎は、娘婿の出口日出麿を満州に急派する。紅卍字会から、関東軍が封鎖した銀行預金の解除の懇請があったので、日出麿は軍と交渉しただちに解除させた。
統治機構は麻痺し、都市には難民があふれていた。日出麿は王仁三郎の指示にもとづき、難民救助の活動を開始、食料や救援物資を積み、人類愛善会と紅卍字会の旗をたてたトラックが、満州の各地に走った。人類愛善会、紅卍字会の腕章があれば、軍の検問もフリーパスで、大本と紅卍字会は実質的に占領軍の民生部門を担当しているかのようであった。ちなみに軍は「人類愛善新聞」1万部を直接購入し、各部隊に配布している。
道院、紅卍字会の会員が日出麿の指示に従い、さらに軍がその自由な活動を容認しているところから、さまざまな噂が流布した。
かつて王仁三郎は大本王国を建てると称し、蒙古に軍を進め、張作霖に捕えられ、九死に一生を得たことがあった。
いまやその大本王国の夢が甦りつつあった。道院・紅卍字会を従え、軍との緊密な協力関係にある王仁三郎に対して、元老の西園寺など支配層の主流派は「どうしてもあれはなんとかしなければならん」と警戒感をつのらせていく。
満州事変と並行して「日本のケマル・パシャ」こと陸軍大佐橋本欣五郎は10月にクーデターを起こす計画を進めていた。橋本は三井財閥の池田成彬と会見した際に「もし資本家打倒の暴動が起きて兵隊を連れて出ろといわれても、決して民衆のほうには鉄砲は打ちませんよ」といいながら睨みつけたという革命的軍人で、かねてから王仁三郎と交流があったといわれている。
この10月クーデターは情報管理が杜撰なため失敗するが、橋本の回想録によれば王仁三郎は「3000人の信者を連れて参加する。その翌日には1万人、その後も何回かにわけて10万人を東京に結集させる」と約束したという。
昭和青年会は本来は亀岡本部に奉仕する青年専従者の親睦組織であったが、満州事変の勃発を受けて、1931年(昭和6)10月に「人類愛善の大精神にもとづき、昭和の大神業のために献身的活動をなすを以て目的とする」中核的行動組織として改組された。
「青年会」とはいうが、15歳以上であればだれでも入会でき、年齢の上限はないとされた。それは大本の全信徒が昭和青年会のメンバーになるということを意味した。会長はもちろん王仁三郎だ。
その発会式で王仁三郎は、「落ち着いて、沈着に、静かに団結力を固めておいてもらわねばならぬ。いまからいうても、2年さきになるかあるいは3年さきになるか、さあ、それはわからないが、とにかく内実の力=団結の力を養っておき、サアといえばいつでも決起できる覚悟をしておってもらいたい」とアジっている。
『人類愛善新聞』は「満蒙人が神の懐に帰り、神の国を以て任ずる日本人が、神愛を自覚して、真に満蒙開発の尊き使命を果たすために、いわゆる闘争的気分や侵略的陰謀を心底から放擲して、日、満、蒙に慈雨の降る時、暗雲は直ちに払拭されて東亜の光は輝き初むるであろう」と高らかに論じた。
昭和青年会は王仁三郎の号令一下、一糸乱れぬ行動をとる組織として構想された。翌年にカーキ色の制服、制帽が制定され、さらに団体行動の訓練までおこなわれ、あきらかに疑似軍隊的な性格をおびるようになる。
昭和青年会には陸軍航空隊に所属する現役将校が多く、「空を制するものは世界を制す」というスローガンで来るべき航空戦の啓蒙活動も盛んに行われた。
昭和青年会の集会やデモは、ほとんど在郷軍人会との共闘で行われた。
昭和8年2月、在郷軍人会主催の「対国際連盟緊急大会」には、京都憲兵隊の依頼で昭和青年会も参加するが、その集合場所に東本願寺が指定された。門前に集結した制服集団に狼狽した本願寺は境内への侵入を拒否するが、憲兵隊が到着し、寺は屈服した。この後、帯剣した軍人の指揮のもとに、昭和青年会と在郷軍人は市内の目抜き通りをデモ行進し、憲兵隊がそれを護衛した。こうして、昭和青年会は、軍革新派や民間右翼団体との交流をつみかさねるなかで、急速に浮上する。
1930年代の危機のひとつは、統治機構解体の危機でもあった。明治国家の支配装置群は、藩閥や元老による人的統合があってはじめて円滑に機能できるように構成されていた。そういった人的統合が崩れると、実質的統合者がないままに、各支配装置群は、さまざまな政治勢力が割拠する場となり、それぞれが自己運動を開始し、統治機構全体としてはいわば統合失調症に陥り、国家としての政策決定能力は衰弱した。
その中で「統帥権」の論理(軍隊の最高指揮権は天皇であるので、議会や警察など他の支配装置は軍に干渉できないという論理)で理論武装した軍部が、相対的な優越者として台頭することになる。この時期はまさにそのような国家機構の再編時期にあっていた。しかしまだ軍部は決定的に特権的立場にあったわけではない。
そこに軍部と昭和青年会の共闘が成立する余地があった。軍部は自発的な国民運動による支持を望んだし、王仁三郎は支配機構が再編過程にあることを利用して勢力の扶植をはかった。
統合失調症のために、軍部と治安警察は競合敵対関係にあった。たかだか交通整理をめぐって、大阪第4師団の一等兵と大阪府警の巡査が天六の交差点で激突して大問題になった「ゴー・ストップ事件」が発生するほど、この時期の陸軍と内務省は険悪な関係だったのだ。治安警察は、軍をバックにする昭和青年会の集会やデモを規制することは困難であり、担当の特高刑事は昭和青年会の集会責任者に「君は軍部の手先か」としばしば毒づいた。かれらにとって王仁三郎は軍の統帥権を隠れ蓑にする食えないおっさんだった。
とはいえ、軍部のなかにもさまざまな政治勢力と思惑があり、事態はきわめて複雑かつ流動的だった。たとえば満州事変が満州国建国へと向かう過程で、ラストエンペラー溥儀の身柄をめぐって、王仁三郎と関東軍の間に生じた対立は興味深い。王仁三郎をいったん亀岡に迎え、大本で帝国教育を施したうえで、皇帝に擁立しようと考えたが、それでは満州国は本当に大本王国になってしまい、関東軍としては許容できるところではなかった。一時は、「王仁三郎暗殺計画」までもちあがり、王仁三郎自身の渡満は中止された。
満州国の上層部は、総理大臣の張景恵(ちょうけいえい)はじめほとんどが道院・紅卍字会の信者であり、溥儀の侍従部官長の張海鳳は世界紅卍字会満州国総会会長であった。それだけに王仁三郎が満州を訪問し、彼らの口から関東軍に対する不満が出ると、大本と関東軍の対立はぬきさしならぬものとなる可能性があり、その後もついに王仁三郎が満州の地を踏むことはなかった。
ちなみにこの満州コネクションは昭和10年12月の大本弾圧後も健在だった。弾圧時点では、日本の治外法権が確保されていたので、満州国の大本信者に対しては、団体の解散やご神体の焼却を含む棄教が強制されたが、先述の奉天憲兵隊長三谷清が満州国奉天省の警務庁長になっていたり、現地の実力者が多かったので、弾圧は比較的緩やかであった。ましてや道院・紅卍字会は満州国では国教に等しい扱いであり、日本政府といえども干渉は不可能だった。
弾圧1年後の昭和11年12月、満州を訪れた大本事件担当の鈴木検事は、「由来満州国の紅卍字会と大本教とは一時合併の軌道に上がっていたほど、きわめて密接な関係を維持して宗教条約さえ締結されているとまで取り沙汰され、満州国における大本教の勢力は侮りがたいものがある」と報告している。昭和15年6月、皇帝溥儀に随行して来日した張海鳳は獄中の王仁三郎の身を案じ、幹部の伊藤栄三に「われわれは尋仁(王仁三郎)の弟子です」とのメッセージを託した。
昭和8年11月、京都の岡崎公会堂で開催された愛国14団体主催の近畿国民大会に、昭和青年会は圧倒的動員力をもって参加し、人々の耳目を驚かせた。今や昭和青年会は最も有力な愛国団体と目されるようになり、各団体が集会をやるときには、必ずその意向を打診してくるまでになった。
日本の右翼は一匹狼的な伝統があって、とかくテロのような個人プレイが評価される傾向があったが、昭和青年会の圧倒的な大衆動員、自動車からときには飛行機まで使う電撃的なプロパガンダのまえに、既存の右翼団体はすっかり形なしだった。
昭和9年になると、王仁三郎は昭和青年会を実働中核部隊として、広範囲な愛国統一戦線を構想する。
1934年(昭和9)1月から数か月間、王仁三郎は伊豆湯ヶ島温泉、横浜の関東別院に滞在、綾部の節分大祭も欠席し、側近たちと計画を練り、紆余曲折ののち、昭和神聖会の結成へとこぎつける。同年7月22日、東京九段の軍人会館に3000人を集めてその盛大な発足集会が挙行される。
昭和神聖会は出口王仁三郎を統管、内田良平を副統管とした。内田は最もオーソドックスな右翼団体である黒龍会・大日本生産党の指導者であり、この陣容は、昭和神聖会こそが愛国運動の本流であることを印象づけた。
王仁三郎と内田良平は昭和4年頃から親密に交流し、大日本生産党の資金の一部は王仁三郎が用意したとされている。
内田が満州事変の直後に著した『満蒙の独立と世界紅卍字会の活動』(1931、先進社)は、「日支共存共栄」のためには満蒙独立国家の建設こそが急務であるとし、その原動力として世界紅卍字会の「驚嘆に値する活動」が宣伝され、「出口王仁三郎氏は道院及び紅卍字会の聖者として神の如き崇敬と信仰を受け」、「完全に『老祖の代言者』として紅卍字会員の牢固たる信仰の上に君臨」していると説き、自らが世界紅卍字会日本支部の副会長であることも明らかにしていた。
昭和神聖会の発会式が九段の軍人会館で挙行されたことも世間を驚かせた。これには次のような経緯があった。
王仁三郎は構想だけ立てて、実務は腹心の大国以都雄に丸投げした。大国は、王仁三郎に心服する横浜の内海組組長、通称「浜の健ちゃん」こと内海健郎とともに奔走し、錚々たる陣立てを準備するが、さあ発会式という段取りになって、日比谷公会堂など大きな会場はすべて塞がっていることが判明。途方にくれた大国は憲兵隊本部の総務に相談するが、結局は九段の軍人会館しか空きがないことがわかった。規約では民間団体の使用はできないことになっていたが、大国は在郷軍人会と協同だからという申請書を作って強引に使用許可を取りつけたのである。
王仁三郎直々でもなく、一幹部の大国以都雄でも、軍に対してこんなゴリ押しが出来るだけの力関係が当時はあったのである。
発会式には内務大臣・後藤文夫、衆院議長・秋田清、松岡洋右、頭山満、軍部からは安藤紀三郎、佐藤清勝、貴志弥次郎各中将が祝辞を述べ、とりわけ貴志はこの「非常時」に際して愛国団体は数多ありながらみなばらばらで協同する能力に欠けていたが、昭和神聖会の設立でようやく「民族を導く支柱」ができたと熱烈な賛辞を送った。
王仁三郎と貴志は大正13年の頃から親密な交流があった。当時、奉天特務機関を率いる貴志が張作霖と盧占魁の提携を図り、王仁三郎入蒙の膳立てをしたのである。
昭和神聖会の実践目標は1000万人の賛同者を獲得し、その広範な支持を背景に「経済の根本革命」を軸とする「国家改造」を要求することだった。
王仁三郎の行動は、きわめて精力的で迅速だった。わずか4か月の間に、北は青森から南は北九州にいたる59か所の地方本部、支部の結成大会に出席し、そのつど国家改造断行のアジ演説を行った。
昭和神聖会がとくに重視したのは農村問題だった。冒頭に述べた農村の惨状は改善されるどころか、あいつぐ旱魃、冷害と政府の無策によりますますひどい状態となっていた。おりしも岩手県上閉伊郡では在郷軍人会が全国300万の在郷軍人の窮状を訴えて立ち上がったころである。東北の小さな駅や鉄道路線に集まって、乗客に食べ残した弁当を投げてくれと群がり、食物をあさる少年たちを見た王仁三郎は、自分の弁当、食物すべて投げ出し、随行の者にも絶食を命じ、現地から指令を出し、救援米と慰問団を各地に派遣した。
人類愛善会では品種改良で荒野でも栽培できる「愛善陸稲」を開発し、農山村の飯米自給をめざし、全国各地で耕作指導を行い一定の成果をあげていたが、それだけで解決できる問題ではなかった。
王仁三郎は「皇道経済」による農村救済を主張した。そのポイントは土地為本と稜威紙幣の発行である。
王仁三郎はいう。日本全土はすべて皇室のものであるから、すべての土地所有者はその土地を皇室に返還する。元の所有者はその土地を皇室から拝借し、たんに所有権が拝借権に変わるだけである。ただし皇室にはそれだけ財産が増えるので、それが1000億円であれば、その範囲内で皇室の「御稜威」において紙幣を発行する――。
王仁三郎は、農民の債務80億円のすべてを政府がこの「稜威紙幣」によって肩代わりして債権者に支払うべきであるとした。
これは「皇室」とか「稜威」というから古色蒼然とした印象を与えるが、要するに「政府紙幣」の発行で農民の借金を肩代わりするという主張なのである。
だが、政府紙幣によって農民の借金を肩代わりしても、たんに一時的な救済に終わり、経済成長は見こめない。経済成長の展望もなく政府紙幣を刷れば、いくら天皇の陵威といっても貨幣に対する信任が低下する。
注目すべきことは、王仁三郎は政府紙幣を財源に失業対策として日本列島全体に幅100メートルの縦貫、横断道路を建設することを主張した。これはヒトラーのアウトバーン建設やルーズベルトのニューディールを彷彿させるが、さらにそれをこえて、ノーベル経済学者ジョセフ・スティグリッツなど主張する政府紙幣発行と大規模なケインズ政策の組み合わせによる経済再生論を先取りするものだったといえよう。
昭和9年末、治安当局は昭和神聖会の躍進に警戒感を高めていた。
きっかけは、急進右翼団体「経済国策研究会」による「改造断行請願運動」だった。
農民団体や在郷軍人会が主導し、各地で農民の税負担の軽減あるいは負債返済の猶予を訴える請願はそれまでにも行われていた。
だが「改造断行請願運動」は、そういった範疇をこえるものだった。現存の資本主義的な経済機構を根本から徹底的に「革正」するために、断固とした決断ができる内閣に大命が下されるよう、天皇に上奏請願書を奉呈するというのだ。しかも全国規模で数十万、数百万の署名を集めるために、東京に事務所を設け、「改造断行請願運動の手引き」というマニュアルを各地の愛国団体や在郷軍人会に配布していた。
請願権は帝国憲法で保証され、請願令10条には天皇に奉呈する請願書は内大臣府に送付すればよいと規定されていた。しかし数百万の署名が天皇のもとに届くという事態は、治安当局にとっては想定外の悪夢であった。
主催団体は雑魚キャラの集まりであったが、その背後に昭和神聖会からの資金提供があるとの確度の高い噂が流布していた。
昭和神聖会が背後にいるとなると、この運動は無視できない規模に発展する可能性がある。噂の真偽は不明であるが、「改造断行請願」という戦術は各方面に伝播していった。
そんななか、治安当局はとんでない情報に接する。
王仁三郎が「1000万人の昭和神聖会員を得られ10万人の代表者を選び、皇道経済体制を断行するべく二重橋前に勢揃いし、大衆運動をなし、血を見ずに昭和維新を断行する考えなり」と表明したというのである。
この噂が事実かどうかは不明であったが、論理的にはそれは改造断行請願運動の進化形として十分に想定できることであった。
二重橋に10万人勢揃い……それは黒シャツ隊のローマ進軍ならぬ神聖会の東京進軍である。実際にイタリアではこの方法でムッソリーニに大権が降下した。
ちなみに昭和神聖会参謀長の下位春吉は、ダヌンツィオのフィウメ占領に際して「名誉伍長」として外部との伝令をつとめ、ムッソリーニとも親交を結んだいわくつきの人物であった。王仁三郎が昭和神聖会の統管として地方本部に赴くときには、統管旗の旗手を先頭に、王仁三郎の乗用車の前後にオートバイによる護衛をつけたが、これは下位の発案だった。この件が、のちに王仁三郎が自らを天皇に見立てたものとして裁判に問題になるが、少なくともこの件に関しては、天皇を模したのではなく、イタリア・ファッショのスタイルだったのだ。
請願運動にしても、二重橋に10万人にしても、統治システムのウィークポイントへの巧妙な攻撃であった。しかも昭和神聖会運動には巧妙な重層トラップが仕掛けられていた。たとえば神聖会の綱領には「皇道」は教団外の人にとっては天皇に忠誠を尽くす臣民の道ではあるが、大本の信者あるいはシンパにとっては、「皇道」とはすなわち「皇道大本」なのである。
治安当局にとっては、この微妙な含みこそが問題だった。だが、昭和神聖会そのものを下手に弾圧すると、右派勢力と軍部の反撃が予想された。それで彼らは背後の大本教団に焦点をあて、ひそかに弾圧のシュミレーシンを開始する。
昭和10年2月7日、穴太の瑞泉郷(王仁三郎の生家跡)で神聖神社の鎮座祭が行われ、王仁三郎は鶴殿ちか子が献納した有栖川宮熾仁親王ゆかりの剣を神体として納める。ちか子は昭憲皇太后(明治天皇の正室)の姪。王仁三郎が熾仁親王の落胤だとの噂を耳にし、綾部を訪れ、王仁三郎を一見見るなり、即日入信した。王仁三郎が、熾仁に生き写しだったからだ。
猛吹雪が吹き荒れた。王仁三郎は「この大吹雪は神聖運動に対する暗示と警戒である」と述べ、「我々の前途には茨が横たわる。だが終わりまで忍ぶ者は救われる。もし終わりまで堪え忍ぶことができなかったならば、結局それは神に対する信仰がなかった証拠である」と悲仕な決意を表明する。
その後、王仁三郎は四国、九州、中国地方を中心に約40か所余りの支部の発会式をこなし、3月には台湾に渡る。ところが台湾から帰ると、その精力的な行動に突然終止符を打ち、亀岡の天恩郷にこもり、神苑の見まわりや樹木の手入れに余念のない日々を送る。
昭和10年7月22日、昭和神聖会創立1周年にあたって、王仁三郎は大日本帝国の運命について、無気味な言葉を発する。
「昭和維新とは体主霊従より霊主体従に世を立て直し、すべてを更正せしむることである……神の国とは力と正義が並行する国である。皇道国とは力と正義がならび存する国である。力を主として正義を従とすることがあるならば、それは体主霊従の邪道で必ず『お出直し』せねばならないことになる」
同年12月8日未明、特別武装警官隊は宍道湖の別院に滞在中の王仁三郎を襲撃する。6年後の同日未明、連合艦隊の特別攻撃隊が真珠湾を襲う。昭和20年8月15日、日本は王仁三郎の予言どおり「お出直し」をすることになる。
『霊界物語』天祥地瑞の巻の78巻は女神朝香比女の活躍によって、グロス島が葦原新国となり、桜ケ丘から全島を支配する天津神が引きずりおろされ、国津神が天津神になるという地位逆転劇である。グロス島は明らかにグロテスクな大日本帝国であり、この物語は敗戦後の日本の体制転換を暗示していたと考えられる。
帝国日本の没落を告げるこの78巻を含む『霊界物語』「天祥地瑞の巻」は、昭和青年会が急進国家主義的運動の前面に躍り出た、昭和8年に口述が開始されている。厳密にいうと、昭和8年10月4日だが、その日は旧暦の8月15日であり、翌昭和9年8月15日に全体の口述は終了した。つまり『霊界物語』の奥義とされる「天祥地瑞」は8月15日の暗合に支配されているのだ。
出口王仁三郎と昭和神聖会に関しては、いまだに多くの不可解な謎が残されている。その背後に伏在した霊的な力学については拙著『新約・出口王仁三郎の霊界からの警告』を参照されたい。
武田崇元
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