黒史郎が案内する川崎の禁足地「開かずの不動」怪談/吉田悠軌・怪談連鎖

文/監修・解説=吉田悠軌 原話=黒史郎 挿絵=Ken kurahashi

    怪談師たちが収集した珠玉の怪異を、オカルト探偵・吉田が考察。今回は、神奈川県川崎市に残る「禁足地」にまつわるタブーと信仰の謎を追う!

    大手新聞も取りあげた川崎の禁足地

    「最近、“イラズノモリ”という言葉に、ちょくちょく出くわしましてね……」

     黒史郎さんが怪談を語りだす。

     黒さんは昨年、『川崎怪談』(竹書房、2022年)執筆のために川崎の怪談を広く収集調査していた。そこでふいに、イラズノモリなる奇妙な言葉が目に入ってきたのだという。

    「最初にあたったのは昭和24年9月の『民間伝承』ですね。それによれば『川崎市生田土淵の丘の上にこんもりとした森があり、入らずの森(イラズノモリ)といって誰も立ち入らなかった』という」

     そこはかつて「第六天」を祀っていた禁足地としての森だったらしい。第六天(大六天)については私・吉田もこの連載でよく触れているので簡単に説明しておくと。第六天信仰は中世・近世に主に関東圏の民衆に広まり、強力な力を持つ第六天はしばしば祟りなす存在として畏れられていた。東京近郊では世田谷・川崎などの多摩川エリアにて、第六天の祠・神社(またはその跡地)が多く見られる印象だ。

     黒さんの調査でも、川崎各地にはかつて第六天が祀られていた場所が多くあり、そこに入ってはいけない、入ったものが死んでしまった、などの言い伝えが多く残されていたそうだ。

    「生田の入らずの森も、もともと第六天を祀っていたところみたいですね。そこで昭和10年頃、生田浄水場の建設工事をしたら、工事中に怪我人が出たとか人が死んだみたいな話がある、と。ただ『民間伝承』には5、6行しか記述がなくて。いったいこれはなんだろう? と思って国会図書館で新聞を調べたところ、いろいろ出てきたんですよ」

     昭和10年12月21日および翌年1月24日の読売新聞にて、入らずの森にまつわる事象が怪談めいた書きぶりにて取り上げられていた。

     いわく、浄水場建設工事をおこなっている「現場は数百年前より『入らずの森』として地方民は足を入れた事のない森で」「事業関係で入った者の大部分は奇怪な死を遂げたり家族が病死したりしている」、それだけでなく記事内では死者の実名を挙げて「現場で悶死して居り、負傷者も五名出来た」と述べたり、「直径一尺の御神体の形をした石が現れ」、作業員たちは「同森を掘りたがらず工事に支障を来している」などなど……。

     数百年前から伝承があるとどう確かめたのか、大量死についてはどこまでウラをとっているのか、大手新聞らしからぬ怪奇色たっぷりの論調である。

    「入らずの森」について伝える戦前の新聞記事(「読売新聞」1935年12月21日付)。

    「それもこれも第六天の土地を荒らした祟りだろうという話ですね。で、また別の資料で気になるものを見つけたんですが」

    怪情報が続出する生田の「第六天」周辺

    『川崎物語集 巻5』(川崎市市民ミュージアム、1993年)にも「生田浄水場の山に第六天という場所があった」との記述があった。ただそれに続く説明が奇妙で、「そこにはすりばち型の大きな窪地があり、大六天の碑を中心に墓石のような石が二〇くらいも並んでいた」。

     また同地では昔、大蛇が住んでおり、木や竹を切ったものには祟りをなすと怖れられていた。実際、ある人が立派な篠竹を切ったところ、祟りが及んで死んでしまった。浄水場工事の際には神主にお祓いをしてもらったが、工事中に土砂崩れが起きたので、これも大六天の祟りだろうとの噂が流れた。

     さらに近くに神楽屋敷という2反ほどの畑があり、そこで大六天のお祭りをしていたともいう。

    「でもその神楽屋敷というのが、どのポイントを指しているのか全然わからない。あそこは山になってるけど窪地なんて見当たりませんしね」

     入らずの森、祟りなす第六天と大蛇、御神体らしき石、神楽屋敷、そして禁足を破ったものたちの大量死……これだけでも民俗ホラーめいたキラーワードの目白押しだが、さらに新たな怪情報が飛び出てきた。

    「“開かずの不動”……というものもまた、入らずの森に封印されていたそうなんですよ」

     先述した読売新聞記事の一カ月後、2月16日付の続報によれば。問題の工事現場敷地には「開かずの不動」という奇怪な堂がある。そこに安置されたご神体の不動像を見てしまうと火事の災いにあう、だからけっして堂の中を覗いてはいけない……そう、付近の住人から怖れられているらしいのだ。

     しかし工事に伴い、川崎市の調査員が不動堂に立ち入ることとなった。開かずの戸を開いた彼らが目の当たりにしたのは、40cmほどの不動明王の木像。ただその不動像は、首や手が欠け落ちたボロボロの姿をしていたという。

    「気になるのは、その像を見てしまった人が火事の祟りにあったかどうかですけども」

    「入らずの森」と「開けずの不動」

     黒さんが調べた『川崎研究』1957年11月号(川崎郷土研究会)に、当時を知る人の述懐が記されていた。元毎日新聞記者のF氏は、浄水場建設前の土地を「入らずの森」「開けずの不動(※開かずではなく開けず)」と命名した人物らしい。

     そのF氏の記憶によれば、川崎市史編纂を嘱託されたNという人物が不動堂を開け、「片腕のもげた土偶の不動尊」を見つけのだという。しかしN氏についてはべつだん「禍もなかったようです」と記されている。

    「読売新聞の方に出てくる“調査員”も、このNさんだと思うんですけど。開かずの不動はニセモノじゃないのかって考えてますね」

     80年にわたって「見れば火事になる」と地元民を怖れさせてきた開かずの不動の御神体。それほどのブツであれば、さぞかし立派な国宝級の像という可能性もある……。そう思っていた調査員だったが、実際に蓋を、いや開かずの戸を開けてみたところ、置かれていたのは頭と手のもげた「頗(すこぶ)るまづいもの」に過ぎなかった。

     ガッカリした調査員は、次のように推測したようだ。このような雑なつくりの不動像から、タブーめいた信仰が生まれるはずがない。おそらく以前この不動堂にあった本当の御神体は、誰かが紛失してしまったのだろう。

     その犯人は替え玉であるボロボロの木像を置き、発覚を怖れて「見るなのタブー」を設定したのだろう。開かずの不動を目にすれば火事の災いが起こる……そんなタブーを怖れた地元民たちが、不動像のすり替えに気づかないように。

    タブーは破られることで知られ、怖れられる

     もしそれが本当なら拍子抜けである。とはいえ一調査員の推測を絶対的事実として信じるわけにもいかない。なにより問題なのは、なぜこの小さな敷地に、これほどの数の禁足・タブー・祟りが噂されているのか、ということだ。これは全国的に見てもかなり珍しいホットスポットではないだろうか。

     そもそも、あるタブーがその実在を周知され怖れられるのは、矛盾めいているが「そのタブーが破られる時」なのだ。生田浄水場建設によって、逆にその土地の禁忌が表に噴出した。またその認識はメディアが騒ぎ立てることでより強力になっていく。

     地方の奇怪な信仰や因習が、近代化・都市化と衝突し、おどろおどろしい事態に発展する……そんな通俗的民俗ホラーを娯楽として愉しむ感覚は、100年前の日本人にもあったのだろう。

     そして100年後、また同地が再開発されるタイミングで、黒史郎さんや私のようなものたちが過去を調べ、かつて語られていたタブーを暴いていく。

    「これからも定期的に、我々みたいな人たちがわざわざ掘り起こすんでしょうね。『忘れさせないよ』って」

    「入らずの森」を訪れてみる

     かつて第六天が祀られていた入らずの森。私も黒史郎さんとともに現地を訪れてみることにした。実は私が「入らずの森」を訪れたのはこれが初めてではない。

     2021年春、近所に住むご婦人がフキノトウ採りをしていた際、うっかり入らずの森に足を踏み入れたそうだ。その祟りのせいかどうか、山中で転んで足をケガしてしまった……。という小さな実話怪談を取材したことが、生田の入らずの森についての、私のファーストコンタクトだった。そこから資料を調べ、現場も幾度か訪れ、あまつさえネット番組のロケまで行っている。

     しかし同地に「開かずの不動」の怪談があることは、黒史郎さんからの情報が初耳だった。もちろん土淵不動院の建物は目に入っていたものの、そのような由来があったとは。

     さて、黒さんとともに不動堂を参拝してみたが、その戸は錠がかかって入ることもできない。川崎市や神奈川県も、昭和11年まであったはずの「開かずの不動」についてはなにも把握していないという。

    土淵不動院は地元の崇敬者により管理されている。

     お堂の節穴から無理やり内部を覗いてみれば、本尊の脇に小さな不動像らしきものが祀られているのが見える。しかし頭部も両腕も揃っているため、おそらく問題の「開かずの不動」とは別ものだろう。

     あきらめて本堂を離れると、小さな物置小屋らしき建物が目についた。物置といっても戸はガラス張りになっており、まるで内部の物品を展示するような配置となっている。

     そこに置かれていたのは、人力で水を放出する「消火ポンプ」、江戸の町火消が持っていたような「纏(まとい)」などの消火用具であった。火事関連ではあっても、火を消すという逆方向の物品である。まあかつてここは浄水場・配水池だったのだから、消火のための水を確保する場所でもあったのだろう。もしかしたら土淵不動院は生田の青年団・消防団の詰め所として機能していたのかもしれない。

     だとすれば、なかなか皮肉な話ではないか。見れば火災にあうとされた「開かずの不動」が、消火のための設備に逆転してしているのだから。またこれはつまり第六天の入らずの森を切り開いてつくった浄水場・配水池のおかげなのだから、二重三重にわたって、タブーを破ってもたらされるはずの祟り・災いが福へと反転してしまっているのだ。

    「確かに、今の生田の住民たちにとっては、土淵不動はむしろ火伏せの不動として機能している。防火の効能が期待されているみたいですね」(黒史郎さん)

    土淵不動院、生田浄水場の周辺。こんもりと盛り上がった森であることがわかる(©️Google

    消滅したタブー、災いと福の逆転現象

     黒さんが地元民の書いたブログを示してくれた。そこに記されていた文言は以下のとおり。

    「わたしの住んでいる土淵地区は、比較的火事が少ない。小さい頃、『このお不動様のお蔭で火事が少ないんだよ』と何人もの年寄りに聞いている」

     入らずの森の「入るなのタブー」が本当に数百年前からあったかどうかはともかく、開かずの不動の「見るなのタブー」は昭和11年の記事の時点で「八十年間恐れていた」とはっきり時期が特定されている。おそらく幕末の安政年間あたりに、この不動堂が同地に建設されたのだろう。

     そして入らずの森・開かずの不動というふたつの禁忌が地元民のあいだで緩やかに語られ続けていたのも事実だろう。

    「もともと入らずの森の怪談があったから、後発である開かずの不動の方も、怪談としての説得力を持ってしまったんでしょうね」(黒史郎さん)

     しかしそのタブーは急ごしらえだったためか、大元の入らずの森が開発されたのを境に、むしろ良きものとして逆転してしまった。こうした怪談のメカニズムはなかなか面白いではないか。

    現地取材中の黒史郎、吉田悠軌両氏。
    黒史郎(くろ しろう)
    作家、怪異蒐集家。2007年「夜は一緒に散歩しよ」で第1回「幽」怪談文学賞長編部門大賞を受賞してデビュー。Webムーにて「妖怪補遺々々」連載中。『川崎怪談』(竹書房)など著書も多数。

    吉田悠軌

    怪談・オカルト研究家。1980年、東京都生まれ。怪談サークル「とうもろこしの会」の会長をつとめ、 オカルトや怪談の現場および資料研究をライフワークとする。

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