奈良に平城神宮、大阪に浪速神宮を! 明治日本の神宮創建運動/大日本帝国「聖地拡大」計画

文=鹿角崇彦

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    明治20年前後、大日本帝国が「成人式」を迎える頃、全国にさまざまな神社が創建されていった。「聖地の見える化運動」ともいえるその流れのなかで、実現をみなかった「幻の神宮」もまた数多く生み出されていた。

    生まれなかった「幻の神宮」の数々

     明治22年の大日本帝国憲法発布と翌年の帝国議会開設により、日本は立憲国家体制を完成させた。21年には天皇の住居でありかつ国家的儀式の中心となる明治宮殿も落成していて、明治日本はここにようやく新体制のソフトとハード、そしてそれを見せる演出の場を整えることに成功したわけである。

     武家政権の終焉から約20年、それまでの全てが溶けて再組織化されるサナギの時代を経て、日本が新たな国としてのメタモルフォーゼを終えたのはちょうどこの頃だったといえるだろう。

     神社を見てもそれは同様。明治の前半には鎌倉宮や湊川神社など、南朝の皇子や忠臣、武将たちを祀る新しい神社が続々と創建されていった。鎌倉宮の祭神は後醍醐天皇の皇子である大塔宮護良親王、湊川神社の主祭神は南朝方として最も有名な武将、楠木正成。それらは天皇を中心として国の体制を再構築するにあたり、ぜひにも祀られていなければならない“神々”だった。そして明治22年にはそうした流れの第一期総仕上げとでもいうように、橿原神宮(祭神:神武天皇)と吉野神宮(祭神:後醍醐天皇)という二大“ビッグネーム”を祀る神宮が創建されている。

     一見長い歴史のありそうな大きな神社には、「国民が崇敬すべきもの」としてこの時代に創られたものが数多く存在している。鎌倉宮が創建されたのは、護良親王が幽閉され最期を迎えた鎌倉の地。湊川神社もまた楠木正成が湊川の戦いに敗れ自刃した最期の地に建てられている。そして橿原神宮は神武天皇が即位し宮を置いたとされる橿原に、吉野神宮は後醍醐天皇が「南朝」の都を置いた吉野の地に創建されている。

    神武天皇を描いた戦前の絵本(筆者蔵)
    明治時代の橿原神宮の写真(国立国会図書館デジタルコレクション)。

     このように新たな神社はいずれも新たな祭神を祀るのに最も相応しいと思われる場所を選んで建てられているわけで、それはいわば「神話の具象化」であり、「聖地の見える化運動」だったともいえるだろう。

     しかし、そうやって新たな神社、祭神が続々と生み出されていくと、「あのお方が祀られるならこの方も……」と考えたくなるのが人情というもの。大日本帝国時代には、地域にゆかりの天皇、偉人を祀る神社を創ってほしいという運動が各地で続々と立ち上がっていた。もちろんそれらのなかには実現にこぎつけたものもあるが、志なかばで幻におわった神社も数多い。試しにいくつか、大正時代までに創建運動があった「幻の神社」を挙げてみよう。

    ●平城神宮
    祭神:奈良朝7代の天皇
    場所:平城宮跡(奈良県)

    ●伏見神宮
    祭神:伏見宮貞愛親王
    場所:伏見宮別邸跡(千葉県銚子)

    ●浪速神宮(難波神宮、仁徳神宮)
    祭神:仁徳天皇
    場所:大阪城内(大阪府)

    ●小墾田神宮(おはりだじんぐう)
    祭神:聖徳太子
    場所:小墾田宮跡(奈良県明日香)

    ●賀名生神宮(あのうじんぐう)
    祭神:後村上天皇、後亀山天皇
    場所:南朝皇居跡(奈良県賀名生)

     なぜこれが実現しなかったんだ! と思わされる超重量級の祭神ばかり。それぞれの創建が叶ったイフの世界に心を馳せずにはいられないが、実現には至らなかったもののこれら「幻の神宮」たちはそれぞれが地域に根差した興味深い展開をしていた。

    南朝が皇居をおいた奈良の秘境・賀名生の里。もしもここに賀名生神宮が実現していたら……。(筆者撮影)

    奈良に平城神宮、大阪に浪速神宮の創建を!

     たとえば平城神宮創建運動は、長らく詳細な場所もわからなくなっていた平城宮跡地を広大な田畑のなかから特定し、整備保存しようという活動に端を発する。とりわけこの活動に尽力した人物である棚田嘉十郎は、協力者の確保や諸々の折衝のために私財を投げ打って奔走し、最後は困窮し不遇のうちに生涯を閉じている。

     しかし、神宮創建こそ実現しなかったものの、彼の熱意はやがて平城宮跡の特別史跡指定につながり、大極殿の復元や現在の平城宮跡史跡公園に結実したともいえる。

     また平城神宮の祭神には、単独ではなく奈良時代の七代の天皇を等しく祀ることが構想されていた。

     平城京遷都時の天皇である元明天皇にはじまり、史上唯一の母子での皇位継承例となった元正天皇、そして聖武天皇、孝謙天皇、淳仁天皇、孝謙天皇の重祚である称徳天皇、そして桓武天皇の父であり平城京最後の天皇となった光仁天皇の、七代六人の天皇である。

     もしも平城神宮が実現していたら、七代のうち四代、つまり祭神の半数が女帝という他に例のない神宮が誕生していたことになる。それは少なからず後の時代になんらかの影響を与えることになったのではないか……とまた別のイフも想像してしまう。

    平城京の跡地平城神宮は平城宮跡への建立が構想された(筆者撮影)。
    平城神宮には聖武天皇をはじめ奈良時代7代の天皇を祀る案が立てられていた(国立国会図書館デジタルコレクション)。

     浪速神宮もまたユニークな「幻の神宮」だ。
     これは大正12年ごろ、大阪市内の教化団体が旗振り役となって押し進めた計画。大都市化によって移住者ばかりが増えていく大阪市で、市民の精神的紐帯として大阪城内に仁徳天皇を祀る浪速神宮を創建しようというのだ。

     江戸時代、大阪城は徳川幕府の重要な拠点のひとつだった。幕末には長州征伐のために江戸を離れた将軍家茂が居城とし、そして病没した場所であり、最期の将軍慶喜が大政奉還後に京都から移動したのも大阪城だった。江戸幕府が消滅すると大阪城は主なき城となったわけだが、当然そのまま空き地になるということはなく、その後は他の多くの城郭がたどったのと同じく陸軍の管轄地となり、やがて大阪城内には陸軍第四師団司令部が置かれることとなった。

    もしも大阪城内に浪速神宮が実現していたら、大阪城公園の姿も変わっていただろうか(筆者撮影)
    浪速神宮の祭神に構想された仁徳天皇(国立国会図書館デジタルコレクション)。

     そんなわけで浪速神宮の旗振り役たちは、陸軍と大阪城内からの師団の移転交渉まで行なうほど実現に向けて尽力していたのだが、いかんせんこの神宮計画は役所など「上から」の運動という面が強く、草の根の盛り上がりに欠けたらしい。

     さらに折悪しく発生した関東大震災の影響などのため、結局実現をみることはなかった。しかし、「大阪市民の結束を図るために大阪城に仁徳天皇を祀ろう」という発想には、大阪ならではの地域性と時代性を強く感じざるを得ない。

     京都に桓武天皇を祀る平安神宮が創建されたのは明治28年。名古屋には古くから皇室との縁も深い熱田神宮がある。そして大正9年、東京に明治天皇を祀る明治神宮が誕生している。他の大都市にあるのだから、どうにか大阪にも神宮を! そしてその祭神には、難波に都を置き、大阪と最も縁の深い天皇のひとりである仁徳天皇を! おそらく運動の主催者たちの間には、そんな都市対抗的な気持ちもあったのではないだろうか。なんだかとても既視感を覚えるのは、気のせいにちがいない。

    (つづく)

    鹿角崇彦

    古文献リサーチ系ライター。天皇陵からローカルな皇族伝説、天皇が登場するマンガ作品まで天皇にまつわることを全方位的に探求する「ミサンザイ」代表。

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