羽田の穴守稲荷神社には「幻の宝剣」が眠っている! 空港を守護する鎮め物が令和に蘇る

    東京都羽田の守り神、穴守稲荷神社。かつてこの神社に、日本刀剣史にも名を刻むとてつもない「宝剣」が奉納されていた! 稲荷神にも縁深い宝剣がたどった数奇な運命を追う。

    羽田の守り神・穴守稲荷神社

     東京国際空港、通称羽田空港。国内外あわせて年間8700万人近くの利用者が行き来する、世界でも屈指の大規模空港であることはいうまでもない。

     そんな羽田空港には、歴史的に切ってもきれない縁をもつ神社があることをご存じだろうか? 空港から京急に乗ったことがあれば、その名前は必ず目にしているはず。羽田空港第1・第2ターミナル駅の3つ隣、「穴守稲荷」駅の名前の由来になっている、穴守稲荷神社である。

     空港関係者からあつく崇敬され、毎年正月には大手航空会社をはじめ関連各社が安全祈願に訪れる穴守稲荷だが、それは距離的に近いからというだけの理由ではない。じつは穴守稲荷は、羽田空港の誕生にも大きく関わる神社なのだ。そして羽田空港がこれほどに発展し、日々安全に運用されている背景には、かつて穴守神社が守り伝えていた、失われた「幻の宝剣」が関わっているかもしれないのだという。いったいどういうことなのか?

     穴守稲荷神社の井上宮司、椿権禰宜から、羽田空港と「幻の宝剣」にまつわる数奇な歴史を聞かせてもらった。

    穴守稲荷神社

    穴守稲荷と「幻の宝剣」

     失われた「幻の宝剣」の謎を知る前に、まずは穴守稲荷の歴史を駆け足でみてみよう。

     江戸時代、羽田の要島(現羽田空港近辺)では農地開拓が行われていたのだが、沿岸のため波の侵食で堤防にたびたび大穴があき、事業は難航。そこで「穴の害から田畑を守る」神として稲荷の祠が祀られたのが“穴守”稲荷のはじまりとなる。

     そんな穴守稲荷が大きく発展したのは明治時代。神社のすぐ近くで鉱泉(冷泉)が掘り当てられたことで、料亭や海水浴場、運動場などが続々と開業し近辺が一大行楽地になったこと、有力な実業家が旗振り役となり穴守稲荷の神徳を大々的にPRしたことなどがあいまって、東京でも有数の“人気神社”になったのだ。

     一時的にブームになるいわゆる「流行り神」はその終息も早いが、穴守稲荷では関東を中心に優に200をこえる講社(崇敬者団体)が組織され、流行で終わらない信仰を獲得。戦前には、なんと当時日本領だった台湾の台北や、アメリカのシアトルにまで分社がつくられたほどだった。

    戦前の穴守稲荷神社界隈を写した写真。穴守稲荷神社公式サイトより。
    かつて台北にあった穴守稲荷の分社(国会図書館デジタルコレクション)。

     明治36年6月、そんな人気急上昇の“ホットな神社”であった穴守稲荷で、ある盛大な祭典が執り行われた。それが「御宝剣遷座式」だ。どんな式典だったのか? その様子は、明治時代に描かれた一枚の錦絵から知ることができる。

    穴守稲荷社務所に飾られる「穴守稲荷御宝剣遷座式行列図」

     正装の神職らしき人物をはじめ、終わりがみえないほどに延々と人が並んだ盛大な行列。絵からでも圧倒的な規模感が伝わってくるが、とりわけ重要なのは中央に描かれた、大勢の男性に守られるように取り囲まれ、しめ縄を張られた御籠。

     ここに、儀式の主役である「御宝剣」が厳重に納められていたのだ。

     じつは、神社がこの錦絵の実物を確認したのはごく最近、なんと令和2年のこと。ある崇敬者が「家を整理していたらこんなものが出てきた。神社の名前が書かれているし捨てるのも忍びないので……」と寄贈してくれたというのだが、神社ではこれをきっかけに「宝剣」とこの遷座式について調査を開始。すると、これが想像以上にすごいものであることがわかってきたのだ。

    大行列の中心部。ここに「御宝剣」が納められている。

    「幻の宝剣」は三条宗近の太刀だった!

     まず神社にある大正時代の資料から、錦絵に描かれた「宝剣」のものと思しき記録が確認される。そこには宝剣の寸法などとあわせて、気になる記述があった。当時、宝剣とともに一枚の絵が奉納されていたことが記されていたのだ。

     そこで現在の財産台帳をあたってみると、確かにこの奉納画と思われる記録がある。本殿の裏を探してみると、果たして記録通りの絵が出現。そこには、稲荷大神とひとりの刀匠が刀を鍛える場面が記されていた。そして、そこには「小鍛冶宗近製刀之図」との画題がしたためられていたのだ。

     刀剣ブームさめやらぬ昨今、その名前に震える人も多いのではないだろうか。錦絵にも明らかなのだが、穴守稲荷神社に奉納された刀は、平安時代の伝説的名工、あの三条小鍛冶宗近が鍛えたものだったのだ!

    三条小鍛冶宗近。こちらは稲荷神の力をかりて刀を鍛えた逸話を描く明治期の絵(国会図書館デジタルコレクション)

     三条小鍛冶宗近。天下五剣の一振り「三日月宗近」を鍛えたことでも知られる、日本刀剣史上に残る伝説的な刀匠。宗近が稲荷神の化身とともに刀を鍛えたという伝説は特に有名で、大阪の石切劔箭神社ほか数カ所にそのときつくられた「小狐丸」だとの伝承をもつ刀が伝えられている。

     それらをあわせても現存数は数えるほどしかないという、極めて希少な宗近の刀。当時の記録などによると、穴守稲荷の「宝剣」は長く五辻子爵家(宇多源氏流の公家華族)に伝えられてきたもので、明治時代にいちど外部に渡ったのち、篤志家によって穴守稲荷に奉納された。それを記念して挙行されたのが、錦絵に描かれた「御宝剣遷座式」だったのである。

     奉納に至った経緯は詳しくわかっていないが、神社の人気に加えて、稲荷にたいへん縁の深い三条宗近の刀剣だからこそ穴守稲荷に奉納しよう、との思いがあったのかもしれない。

     一枚の錦絵寄贈をきっかけに明らかになっていった、宗近刀剣奉納の歴史。「小鍛冶宗近製刀之図」にしても、神社では以前から存在は把握していたものの、その由来は分かっていなかった。そうした点と点が、この数年でつぎつぎと繋がっていったのだ。

     奉納の時期も、経緯も、さらに寸法までも判明している。となれば、神社の宝物庫や神殿内を探せば実物の発見は時間の問題……と思ってしまうが、残念ながらそうはならない。

     宝剣が「幻」であることーー現在では失われている、少なくとも所在不明であることーーは間違いがない。そこには、昭和の時代に穴守稲荷神社がたどった厳しい歴史が関係している。

    穴守稲荷を襲った戦争の悲劇と苦難

     穴守稲荷の現住所は大田区羽田5丁目だが、戦前までは別の場所にあった。今の地図でいうならば、それは羽田空港のど真ん中、現在のB滑走路南端部にあたる。この鎮座地移動の背景には、昭和20年、羽田地域を襲った混乱と悲劇がある。

     昭和20年8月、日本は連合国との戦争に敗れ、降伏。そして翌9月21日、日本に進駐した米軍は穴守稲荷のあった羽田の一帯に対してこんな命令を下す。

    「羽田の海老取川以東は米軍が接収する。エリア内の住民はすべて48時間以内に退去するように」

     4月の城南京浜大空襲による被災、8月の敗戦と混乱もおさまらないなか、ダメ押しの強制退去命令、それも48時間以内という考えられない無理難題。混乱のなか神社では最低限のものしか持ち出すことができず、48時間後、神域はすべて米軍に接収され、本殿も、一説には4万6000基以上もあったといわれる奉納鳥居もことごとく重機に倒され、地ならしされていった。

    戦前の穴守稲荷を描いた資料をもとにつくられた絵皿(穴守稲荷神社蔵)。ここに描かれる社殿、御山も含め一帯すべてが米軍接収となり、取り壊された。
    山をなしていた奉納鳥居。その数は4万基をはるかに超えていたともいわれる(穴守稲荷神社所蔵資料より)。

     極めて残念なことに、宗近の宝剣はこのときに持ち出せず、社殿とともに地面の下に埋もれてしまった可能性が高いと考えられているのだ。

     じつは穴守稲荷では戦時中、徴兵中の宮司が日中戦争で戦死、跡を継いだ弟も昭和20年4月の空襲で死去と、二代の宮司が立て続けに亡くなる悲劇に見舞われていた。その後、次の宮司が決まるひまもないままに半年も経たずに敗戦を迎え、そして強制退去。

     この数年間の混乱で、穴守稲荷では本来伝えられるはずの多くのことが伝わらず、散逸してしまったのだという。そのため盛大な明治の遷座式さえ詳細を知る人がおらず、宗近の宝剣の情報もごく最近まで眠ったままになっていたのだ。

     持ち出すことができず、羽田の地下に埋もれ「幻」と化した宗近の宝剣。しかし、井上宮司は、実はそのことが今の羽田空港の繁栄を支えたのではないか、とも考えられるという。

    「ひとつの考え方ですが、宝剣は羽田空港の「鎮め物」になった、といえるのではないでしょうか」(井上宮司)

     一体、どういうことなのか?

    宝剣は羽田空港の安全と繁栄を護る「鎮め物」になっていた!

     今でも家やビルを建てる際には地鎮祭が執り行われるが、このとき土地に「鎮め物」という一種の神への捧げ物が埋納される。これによって土地の神霊を鎮め、工事とその後の安全を祈るものだが、一般的に鎮め物に用いられるのは、人形(ひとがた)、盾、矛、鏡、玉、そして、刀をかたどった器物だ。

     土地の神を鎮めるため、埋められる刀剣。宗近の宝剣は、羽田の地でまさにその役割を果たすことになったのではないか、というのだ。

    地鎮祭に用いられる鎮め物。人形や鏡とともに刀(ナイフ)をかたどった器物も用いられる(国会図書館デジタルコレクション)

     刀剣を埋めるといえば、「国宝級の発見」と大騒ぎになった2023年の大ニュースを想起せざるを得ない。奈良県奈良市にある日本最大の円墳、富雄丸山古墳から、全長237センチという桁違いに巨大な蛇行剣が出土したというあのニュースだ。

     なぜ古墳の、それもメインの被葬者の棺ではない不可解な場所に、異形の巨大剣が埋められていたのか。現在もさまざまな説が唱えられているが、そこになんらかの呪術的な意味合いがあったことは間違いないといえるだろう。

    「ムー」2023年4月号より。

     はるか1500年以上もの昔から、特別な意味をもつ行為として行われていた刀剣埋納。宗近の宝剣は図らずも神域の地下に埋められたことで、そうした神聖な呪具になったのだと考えることができる、というのである。

     さらに、穴守稲荷の旧鎮座地の位置を考えると、そこにはより大きな意味が浮かび上がってくる。
     前述のように、穴守稲荷があったのは現在の羽田空港B滑走路の南端付近。ここは戦後長く空港ターミナルという重要な施設が置かれた地であり、その後空港の拡大改修に伴って新B滑走路の起点になったという経緯を持つ。偶然とはいえ、ターミナル直下、そして今では滑走路の起点という空港内でもとりわけ重要な場所の地下に、一千年の歴史を持つ名刀が鎮まっていることになるのだ。

    穴守稲荷の旧遷座地。現在のB滑走路南端部にあたる(穴守稲荷神社頒布「航空稲荷御由緒」より)。

     井上宮司によると、国や都市の規模が大きくなると、安全上の理由もあり空港は郊外に移転されるのが一般的で、東京ほどの巨大都市のすぐ近くで8000万人以上が利用する国際線が現役なのは、世界的にもほぼ例がないことだという。

     この羽田空港の繁栄、そして長らくほとんど大事故もなく安全に運用され続けているのは、宗近の宝剣が土地を鎮め、護っていたからだったーー。

     そもそも、羽田空港が羽田の地に生まれたことにも、穴守稲荷は大きく関わっている。羽田空港のルーツは大正時代に羽田穴守に日本飛行学校(日本初の民間飛行学校)がつくられたことにあるが、その創設者たちは学校建設にあたり羽田の有力な実業家に相談し、当時の穴守稲荷のすぐ裏手にあたる施設を提供されているのだ。

     穴守稲荷が参拝者を呼び込むことで羽田の歓楽地が潤い、実業家たちが資金を蓄え、その資金と土地が飛行学校設立に貢献する。穴守稲荷が核となり発展した羽田の歴史があったからこそ、あの場所に空港ができたといっても過言ではないのだ。羽田空港は、穴守稲荷なしでは誕生しなかった。そして宝剣が「鎮め物」となることで大きく発展したと考えるのならば、羽田空港はまさしく“穴守稲荷の賜物”だったのだ。

    穴守稲荷神社社務所に飾られている、日本飛行学校のジオラマ模型。神社と空港の深い縁を感じさせてくれる。

    宝剣の復元プロジェクトが始動

     失われた……いや、羽田空港の地下深くからその安全を守護している、宗近の宝剣。じつはそれが今、復元されようとしている。穴守稲荷では現在、宗近の宝剣復元プロジェクトを始動し、クラウドファンディングで資金を募っているのだ。

     目標額は600万円で、井上宮司によれば、明治の御宝剣も特定個人の信者ではなく、数多くの「崇敬有志者一同」から奉納されたもの。現代にその方法をとるのであればクラファンが最も近いのではないか、と考えてこのかたちが選ばれたという。また、クラウドファンディングにより情報が広く伝わることで、この宝剣についての新たな事実がわかってくるかもしれない、そんな期待もあるそうだ。

    「復元」といっても、現在残された資料からわかるのは刀剣の来歴と寸法のみ。そこでプロジェクトでは、刀匠金田七郎國真(くにざね)氏に依頼し、平安時代の宗近の作風や特徴を可能な限り考証・再現することを目指している。

     神剣、霊剣には、オリジナルの刀剣そのものでなく復元やレプリカであっても同様の神威をもつという考え方がある。宗近の宝剣が復元されたとき、それが羽田の地下に眠る宗近と同様の霊威を持つのだとすれば、空港をはじめ羽田の地は今以上の発展をみせるのかもしれない。

    呪いの大鳥居は戦後史が生んだ巨大な「境い目」だった

     ところで、穴守稲荷と羽田空港といえば、オカルト好きならばすぐに頭に浮かぶのが「呪いの大鳥居」だろう。

     戦後、48時間の強制退去という暴挙で社殿を破壊した米軍が、なぜか穴守稲荷の一の鳥居だけは放置していた。これは、鳥居を倒そうとした関係者が立て続けに事故や災難にあい、その祟りをおそれた米軍が手をつけられずに残したからだ。そしてその後も、鳥居を撤去しようとするたびに事故が起こり、ついにそのままになったのだ……という怪談である。

     もしかしたら穴守稲荷的にはアンタッチャブルな話題かもしれないが、ここまできたら聞かずにはいられない。鳥居の祟りについて神社の“公式見解”はどうなのか、尋ねてみた。

     結論からいえば、大鳥居の祟り話は都市伝説だ、というのが神社の見解とのこと。過去にもこの伝説を詳しく調べた人がいるが、鳥居での工事の時期と、事故が起こったといわれた時期は厳密には一致していないのが事実であり、敗戦のショックと強制退去という米軍の暴挙に対する一種のルサンチマンが生み出したのが「鳥居の祟り」伝説なのだろう、というのが井上宮司のいま現在の考えだという。

    かつての一の鳥居(穴守稲荷神社資料より)。

     ただ、椿権禰宜は鳥居にまつわる興味深い情報も教えてくれた。

    「じつは戦後長らく、あの鳥居は管轄が宙ぶらりんだったんです。接収されてしまったからには穴守稲荷のものではない。鳥居を寄進した京急のものでもない。そして国のものともいえない。独立後には空港ターミナルの管理会社が所有していたかといえば、それも違う。空港のなかに、誰のものでもない鳥居が生まれてしまったんです」

     古来、民俗学や怪談の世界では「怪異は境界に発生する」といわれる。昼と夜の境界である夕暮れ(黄昏時)、川の対岸をつなぐ境界である橋、上と下をつなぐ坂道。そうした境い目、間(あわい)にこそ怪異がおこるとされるのだ。

     まるでエアスポットのように取り残された羽田の鳥居は、まさに巨大な境界、境い目になっていた、とは考えられないだろうか。

     それは日本と米国の境界であり、戦前/戦後という時代、つまり大日本帝国と日本国の境い目、そして誰のものでもない所属の境い目。なによりも、鳥居は本来的に俗世と神域を隔てる境界そのものだ。
     国家、権力、時代、聖俗。何重もの「境い目」として残された羽田の大鳥居が怪談の発生源となるのは、むしろ必然の展開だったのかもしれない。

    じつは穴守稲荷神社一の鳥居には、かつて旧一の鳥居に掲げられていた扁額が移され現在まで用いられている。

     穴守稲荷神社の宝剣復元クラウドファンディングは、12月15日から開始される。三条宗近の宝剣、そしてこの刀がたどった数奇な運命に興味を持ったかたは、その詳細を確認してみてはいかがだろう。
    https://anamori.jp/inarimntk_cf_a3.pdf

    こちらは台北の崇敬者から贈られたオリジナルのアクリルスタンドで、かつて台北に分社があった歴史から寄贈されたものだそう。現在でも広く縁をつないでいる穴守稲荷の姿が伝わってくるような逸話。

    webムー編集部

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