伊豆諸島に伝わる「海難」亡霊譚——1月の夜、闇深い海からやってくる怪異たち/妖怪補遺々々

文・絵=黒史郎

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    一昨年一発目は鳥人、去年一発目はシモサワリと、近年、年初めはキワものネタからスタートが定番だった本連載ですが、今年は違います! 現在、黒史郎が調査中の海の災難「海難事件」の記録から、真面目に補遺々々しましたーー ホラー小説家にして屈指の妖怪研究家・黒史郎が、記録には残されながらも人々から“忘れ去られた妖怪”を発掘する、それが「妖怪補遺々々」だ!

    「海難」の怪

     明けましておめでとうございます。
     2025年、第1回目の妖怪補遺々々ですが、私が今とても関心を寄せている「海難」にまつわる怪異をテーマにいたします。

    「海難」は海上で起こる船舶事故などのことですが、ここでは「海の災難」全般とさせていただきます。

    「海難」の二文字のつく怪異といえば、『ムー』本誌や「webムー」でも何度か記事なっております、伊豆諸島に伝わる【海難法師】が記憶に新しいです。

    【日忌み様】とも呼ばれる、1月24日の夜、海からやって来る亡霊にまつわる風習です。この日、人々は一切外へ出ず、家に籠って物音をたてぬように明け方まで過ごします。
     もし、この禁を破ってしまうと、その人には恐ろしい災いがあるのだそうです。
     この興味深い題材を柱に、数回にわたって「海」の「難」にまつわる様々な説話をご紹介できればと思っております。

    海から来るのはナニか……

     では、伊豆諸島で語られる【海難法師】【日忌み様】の伝承を、私の手元にある資料から古い記録順にご紹介いたします。

    『伊豆大島要覧』大正3年
     正月24日、伊豆大島の泉津村では【日忌み様】という祭り事を行います。夕刻になると家畜のすべてを山間などに隠し、厳重に戸締りをします。光が外部に漏れるのを防ぎ、入口には鉈や鎌などの刃物を研いで並べます。屋内には餅を25個供え、徹夜でこれの番をします。そして、ひとことも声を発さずに朝をむかえるのです。
     もし、この時に屋外を覗き見たり、何かの物音などを聞いてしまったりなどしたら……その人には必ず災いがあったといいます。昔は、23日〜25日の3日間、よそものを村に入れなかったといい、もし何も知らない者が禁を破って村に入ってきたら、頭から袋をかぶせて叩き、負い返したそうです。この行事は、ある暴虐なる悪代官を25名の村民が暴風雨に乗じて襲殺し、丸木舟で海へ逃げたという話が基になっているそうですが、著者は「詳らかではありません」と書いています。

    「伊豆新島の話」大正5年
    『郷土研究』の「伊豆新島の話」では、正月24日は泉津村、利島、神津島は日忌であり、この日は【海難坊(カイナンボウ)】または【カンナンボウシ】というものが来ると書いてています。夜になると門戸を閉じ、柊、あるいはトベラの枝を入り口にさし、その上に笊をかぶせるといいます。屋外に便所がある家は屋内でできるような準備をし、決してこの日は外を覗かず、物音も一切させなかったそうです。同資料では「その因縁はわからぬが」としたうえで、先の村民25名による代官謀殺の伝承を記しています。利島に逃れようとした25名は上陸を許されず、その後、神津島へ行ったそうで、以来、この日になると殺された代官の亡霊が島へやってくるというのです。「伊豆新島の話」を執筆した尾佐竹は「どうも要領を得ぬ」と書いています。

    『海島風趣』大正15年
     毎年24日、大島の泉津村では【海難坊】が来るといって、珍しい「物忌み」をします。家畜の牛を海の見えない場所へ連れていき、夕刻になると家の戸をかたく閉じ、節穴には布を詰め込むなどして塞ぎます。外には網を張り、鉈や鎌などを据え、丁字(フトモモ科チョウジノキの花蕾)、にんにく、柊、トベラの枝などを入り口に挿して、その上に菰(こも。藁で編んだ蓋)をかぶせておきます。神棚には25個の餅を供え、これを静かに見張って、家の人たちは一切外へは出ず、物音も立てず、言葉も発さずに夜明けを待ちます。
     よそ者が村に入れば屋内には絶対に入れず、腰さえもかけさせず、頭に袋をかぶせて打ち、追い戻します。この時、元来た道を通らないようにして帰らなければならないそうです。
     この『海島風趣』を著した本山桂川は「この習俗の由来がよくわからない」としながら、先の悪代官と25名の村人のエピソードをあげており、この日に海を見れば代官の亡霊が襲ってくるという伝説を紹介しています。しかし、この伝説はおそらく後づけであり、もっと島民の生活に密接な理由があったはずだと書いています。
     ——このように大正期の資料では「詳らかではない」「要領を得ない」「よくわからない」と、微妙な書かれ方をしています。調査で集まった情報では、この伝承を理解するのに十分ではなかったのでしょうか。

    『海島民俗誌』昭和9年
     著者は『海島風趣』と同じ山本桂川です。こちらは情報量がかなり増えています。
     伊豆諸島には正月24日、あるいは25日を忌の日とする習俗があり、島々によって名称や伝説、しきたりも違います。

     大島の【日忌様】の日に海を見れば、謀殺された代官の亡霊に襲われるという伝説を紹介し、それとはまた別に、謀殺した側の25名の亡霊が来るという話についても触れています。 
    『泉津村誌』に掲げられた藤木喜久麿の調査した伝説で、代官を討った25名の村人は、波治加麻神社の杉の木で作った丸木舟で海へと逃れましたが、激しい波風によって舟が転覆し、全員が溺死してしまいます。その亡霊が24日の夜、五色の旗を立てた丸木舟に乗って海上より来るというのです。

     新島ではこれを【海難法師】と呼び、この夜は12時以降の電報はたとえ至急の要件であっても郵便局で配達を見合わせ、翌朝に回すそうです。この村には【海難法師】の御神体のある家が2件あり、それらの家では油揚げを作り、24日の夜12時から朝まで親類一同が集まって沈黙の一夜を明かします。
     この地の伝説では——悪代官が大島の視察を終えて新島へ渡るとき、泉津村から船を出しました。村の若者十数名は、このまま代官を他の島へ行かせては島民が苦しむと考え、船に水夫として乗り込むと遠い海上に出たところで浸水させ、代官とともに犠牲となったといいます。新島の【日忌様】とは、この代官の祟りを恐れての行事なのです。

     神津島では、この忌み籠りの日を【二十五日様】と呼びます。村人は正月20日から遠方へ行くことを控え、22日頃までに餅を搗きます。23日には火箸などの金物類で音が鳴るようなものをみんな片づけます。そして、夕方の明るいうちから門と戸をしっかり閉め、隙間や節穴に目貼りをして塞ぎ、言葉を発さず、明かりも消し、早くから寝てしまいます。
     物音をたてれば、必ず不祥事が起こると伝えられているからです。
     そして神官の家では、丑の刻に神々の乗る船が到着するのを迎える準備をするのです。
     この【二十五日様】の日忌を怠ったために神罰を受けたという話は、真偽のほどは不明ではありますが、かなり多いようです。
     この日を馬鹿にして酒を飲んで騒いでやろうとした男性は、酒瓶を囲炉裏で温めるときに間違って揮発油(ガソリンやベンジン)と取り違え、引火して即座に焼死したといいます。  
     日忌みを昼間に行うべきだといった村人たちも、みんな死んでしまったそうです。
     他にも、24日の夜に襖を開く音を聞けば、必ず家で死人が出るといわれています。
     この恐ろしい【二十五日様】は、島流しにされ、船が転覆して溺死した、ある高貴な血筋の男を祀ったものともいわれています。
     神津島では、このような海難死者があった場合、島人は早い時間から戸を閉めて寝てしまう習慣があったそうです。

     三宅島では、24日の夜は神に出会うことを恐れて外には出ないといいます。
     三宅島の最高峰・雄山の頂上に神々が集まり、羽根つきや毬遊びをしているので、山の方を見てはならないといわれていたといいます。

    『伊豆大島圖誌』昭和11年
     こちらの文献でも、泉津の【日忌み様】は謀殺された代官の怨霊ではなく、謀殺した側の25名の亡霊が来るという話が紹介されています。
     某家の主人が浜辺でひとり、神酒を供え、この25の霊を迎えるのだそうです。この家は25の霊の宿であったといいます。
    『伊豆大島圖誌』では、討たれた代官なのか、討った25名の村人なのか、どちらの亡霊が来るのか「不明である」とし、海を渡りくるこれらの悪霊を【海難(カンナン)法師】【海難坊】と呼ぶと書いております。
     そして、伊豆七島で行われるこれらの行事は、神降臨を迎えるための儀式が信仰の零落によって亡霊化したものだとしているのです。

    伊豆の海の、その他の怪異

     伊豆諸島には、この他にも海にまつわる怪異の伝承があります。

    【磯餓鬼】は、遭難した船に乗っていた者が餓鬼となって磯辺をさまようもので、船人たちが日和待ち(航海に適した天候を待つ)をしていると、雨の夜に必ずやって来るそうです。
     これはまず火を焚いてあたり、それから飯を食って帰るといいます。だから磯餓鬼がやって来そうな夜は火を清め、飯を炊いて囲炉裏の傍に置き、薪をそばに供えておきます。こうしておかねば、何かしら船によくないことが起きるといって恐れられていたからです。
     姿はわからないそうですが、「ぼうづあたまに丸はだかなり」とのこと。
    『七島日記』下巻には、火に当たって飯を喰らっている楽しげな磯餓鬼たちが描かれております。この絵は船人たちが語っているのを聞いて、こういうものだろうかと戯れに描いたものだそうです。

     新島の淡井浦には【怨念様】と呼ばれる岩礁があります。
     この場所で網船の錨が取れなくなり、潜って確かめに行くと、海中で緋の袴をはいた女が錨に腰掛けています。女は「このことを話すと命はないぞ」といって脅してきます。このことを人に語った船頭は、間もなく死んでしまったそうです。警告していたのに……。

     また、若郷という所では雨の夜、岩の上に緋の袴の女が現れたそうです。これは、ある男女がここに漂着し、男が食料を求めて出ていったが帰ってこず、そのまま餓死してしまった女の亡霊だといいます。なんて悲惨な話でしょうか。

     こちらも悲惨なお話です。神津島の東側に祇苗島という無人島があります。蛇が多いので「へび島」と呼ばれ、夏になると足の踏み場もないほどだったそうです。なぜ、そんなに蛇が多くなったのでしょう?
     ずっと昔のことです。この島に海藻刈りの女性たちが渡ってきました。歌を歌いながら海藻を刈っていると、急に天候が悪くなってきました。彼女たちは慌てて船に乗って神津島へと引き返しました。
     しかし、ひとり足りないことに気づきます。なんてことでしょう。島に残してしまったのです。助けに行きたくとも、西風がどんどん強くなり、もう戻ることもできません。
     そのころ、残された女性は吹き荒れる嵐の中、髪を振り乱し、声のかぎりに叫んでいました。
     しかし、いくら叫んでも待っても船は戻ってきません。
     とうとう、彼女は叫びながら狂い死にしてしまいます。
     数日たって迎えに戻ると、彼女の死骸の髪はことごとく蛇と化しており、その数は島いっぱいになったといいます。
     その他、御釜浦というところに住む猫は、その噂をしただけでも舟を覆すほどの祟りをなしたといいます。これも「海難」の怪といえるでしょう。

    海難でなく海南

     新年から「海難」という不吉なテーマで始めてしまいましたが、そもそも本稿を書くきっかけとなったのは「海難法師」ではなく、昭和29年刊行『三崎郷土史考』にある「海南神社」の社名縁起なのです。
    「海難」ではなく「海南」。
     次回は、神奈川県三浦市にあるこの神社から、「海難」にまつわる怖い話をいくつもご紹介したいと思います。

    【参考資料】
    月出くの子『伊豆大島要覧』《1914年》
    尾佐竹猛「伊豆新島の話」『郷土研究』第四巻第五号《1916》
    本山桂川『海島風趣』《1926》
    本山桂川『海島民俗誌』《1934》
    山口貞夫『伊豆大島圖誌』《1936》
    内海延吉『三崎郷土史考』《1954》

    黒史郎

    作家、怪異蒐集家。1974年、神奈川県生まれ。2007年「夜は一緒に散歩 しよ」で第1回「幽」怪談文学賞長編部門大賞を受賞してデビュー。実話怪談、怪奇文学などの著書多数。

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