道頓堀のお笑いライブやお祭りに化けタヌキが紛れ込む? 田辺青蛙の「大阪タヌキ譚」めぐり

文=田辺青蛙

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    大阪の中心地、道頓堀周辺につたわる狸の伝説。現場を歩いてみると、今も街にとけこむユニークな狸たちの姿がみえてきた。

    大阪に「狸神社」の痕跡を追う

     法善寺横丁の近くに細い路地があり、そこを抜ける途中に「一寸法師」の社があった。由来には「昔むかし、わずか一寸(3センチ)の一寸法師は、お椀の船に箸の櫂をひたすら漕ぎつづけて道頓堀川を上って京の都へいった」と書かれていた。

     調べてみたところ、住吉大社の御利益によって誕生した一寸法師は「難波の浦」からお椀の船に乗って出発し、道頓堀を通って淀川を遡って京の都に入り鬼を退治したのだそうだ。私は小さな一寸法師の社に手を合わせて、本誌の取材が上手くいくようにと願った。

     法善寺を出て歩くと派手な立体看板が立ち並ぶ、ミナミを代表する繁華街くいだおれのまち・道頓堀が見えて来る。今は賑やかしい場所だが、かつては千日前刑場に続く寂れた場所で、墓石や卒塔婆が立ち並び、ボダ山と呼ばれる灰の山が近くにあったそうだ。

    くいだおれの街・道頓堀

     怪談作家でオカルト研究家としても知られる中山市朗(なかやまいちろう)さんから聞いた話によると、昔は道頓堀の戎橋(えびすばし)辺りから、獄門台に乗った生首が見えたのだという。

     そういう寂れたイメージを払拭させるために、大阪中の芝居小屋が集められた。そのなかでも代表的な芝居小屋「角座」「浪花座」「朝日屋」「弁天座」「中座」は五座と呼ばれ、日本最大級の劇場街と呼ばれるようになった。しかし時代は移り変わり、娯楽の多様化に伴って芝居も廃れていき、1999年に最後まで残っていた五座のひとつ中座も閉じてしまった。そんな中座には狸の祟りに纏わる話がある。

    今も愛される道頓堀の狸人形

     淡路島の洲本に住んでいた狸の芝衛門は大の芝居好き。折角だから日本一の芝居と名高い、大阪中座の芝居を見てみたいと思いたって洲本から出てきて三隅八兵衛という名の侍に化けて芝居通いをしていた。

     だけど、木戸銭に木の葉が混じっていたことから狸が化けた客がいると警戒されてしまい、番として連れて来られた犬に噛み殺されてしまった。それから、中座へのお客さんの足がぱったり途絶えてしまい、これは狸の祟りの仕業ではないかと噂になったことから、芝右衛門狸を供養し祀ったところ、また大入りの中座が復活したそうだ。

    芝右衛門狸(東京都立図書館蔵『桃山人夜話』より)

     以後、芝衛門狸は芸能の神として、芝居関係者や役者たちの信仰を集め、昭和34年には藤山寛美、片岡仁左衛門さんたちの尽力により、洲本城跡に芝衛門狸の祠が祀られることになった。ただ、中座が一旦閉鎖された時に必要ないと思われてしまったのか、中座にあった社は生國魂神社にある源九郎稲荷に合祀されることが決まってしまった。

     つまり狐と狸が同じ社に祀られることになったのだ。すると、2002年9月9日、解体工事中の中座ビルで爆発事故が起こり、鉄筋コンクリートの建物は全焼し、その被害は法善寺横丁にまで及んだのだが奇跡的に軽い怪我人を出しただけだった。
     そして道頓堀では、あのガス爆発は芝衛門狸の祟りではないかという噂が巻き起こった。狐と狸が合祀されて上手くいくわけがない、そこで怒ったのではないかというのだ。

     その後、芝衛門狸の社が「中座くいだおれビル」の地下に祀られることになり、月に一度宮司さんをお招きして儀式も執り行っているらしい。しかし、なぜ一般の人がお参り出来ない地下に社を作ったのかは、様々な人に取材を行ってみたのだけれど分からなかった。
     以前、「中座くいだおれビル」の地下にある劇場ZAZA ポケットでワンコインお笑いライブ等を行っていた、事故物件住みます芸人の松原タニシさんに話を聞いてみたところ、ずっとこの近くで働いていたし、舞台にも何度も立ったことがあるけれどそんな場所に狸が祀られた神社があるなんて知らなかったという返事があった。

     そしてビルの入り口には由来書きのついた、立派な錦をまとった「芝衛門狸」の阿波木偶(でこ)人が飾られている。この人形はどういう経緯で誰が飾ったのですか? と過去に関係者に取材してみたところ「道頓堀お狸様の会」という近隣の商売人が集まって作った集まりがあり、道頓堀を狸で盛り上げるという目的で作られたということが分かった。

     狸が化けたという話は、実は道頓堀にとても多いのだという。道頓堀のことを狸の鼓にちなんで「ぽんぽこぽん」と呼ぶのもその辺りからきているそうだ。

    落語「豆狸」の舞台へ

    「中座くいだおれビル」を出て、御堂筋に向かって私たち取材班は歩きはじめた。なんばを背にして、心斎橋方面に向かって歩いて行くと三津寺の近くにたどり着く。『まめだ』という上方落語は作家の三田純一が昭和40年頃に、桂米朝のために書きおろした新作落語で、三津寺(みってら)が舞台だ。

     小さな狸の妖怪「豆狸」(まめだ)が芝居の稽古中の若者にちょっかいを出していたずらをしてしまう。ただ、その芝居稽古中の若者はくるんっとトンボ返りの練習をしていたので、いたずらをするために乗っかっていた体から落ちてしまった。打ちどころが悪く、薬の塗り方も知らない豆狸は三津寺(みってら)境内で亡くなってしまう。豆狸の小さな遺体を見て、自分の行動を若者は悔いて、三津寺に葬儀を頼んだ。住職が読経を始めると、突如、ざあっと秋風が吹いて、銀杏の落ち葉が「まめだ」の入った小さな棺の周りに集まった。その様子を見て、若者はこう漏らした。

    「あ、見てみぃ。豆狸の仲間から沢山、香典が届いたがな」

    豆狸(東京都立図書館蔵『桃山人夜話』より)

     落語の話から古いひっそりとした寺院をイメージしていたが、実際に見た寺院は想像とは違ってピカピカのホテルの下に潜り込むような形でドーンと建っていた。建物は昔のままなのだそうだが、寺を包むように建っているホテルは数年前にオープンしたばかりだそうだ。古い物と新しい物の合わさった姿に、狸に化かされたような不思議な心地で寺を跡にし、次に新たなる狸スポット堀川戎神社へと向かった。

    ビルのなかにすっぽりおさまった三津寺。

    祭り大好きな狸のいたずら

     堀川戎神社の境内には地車稲荷(だんじりいなり)や地車吉兵衛(だんじりきちべえ)稲荷の通称で知られる榎木神社(えのきじんじゃ)という社がある。稲荷とついているけれど、祀られているのは狐ではなく狸だ。

     かつて堀川の辺りにあった榎の大木の根元には年老いた吉兵衛と呼ばれた狸がいた。吉兵衛は祭が大好きで、夜中になると地車(だんじり)囃子を真似て「チキチンコンコン、チキチンコンコン」と音を立てていた。
     その音がとても不思議で、まるで自分の家の前を通るように聞こえるかと思うと、遠くで囃しているようにも聞こえた。その音色が、とても楽し気にも淋しそうにも聞こえ、町の衆は不気味がってはいたけれど、音色に惹かれてかやがて吉兵衛のことを厚く信仰する者も現れ「だんじり吉兵衛」の社が建った。現在も榎木神社の社が地車の形をしているのは、そのせいだそうだ。

     願い事を伝え、叶うと地車の模型や絵馬を奉納する風習があり今も本殿には小さな可愛らしい地車を見ることが出来る。神社の絵馬は地車をひいた鉢巻き姿の狸の姿が描かれている。願い事を頼んだ時に今もコンチキチンコンコンと音を聞く人がたまにいるというエピソードや、縁の下に豆狸がいて500円玉くらいの目玉がギラギラ光っていたという話を『大阪怪談』(竹書房怪談文庫)取材中に聞いたことがあったので、期待して手を合わせてみたのだけれど、夜でなかったからか、それとも老狸が留守にしていたのか、地車の音は聞こえなかった。

     その後、天満から中崎町まで歩いて、そこで取材班は解散となった。

     狸づくしの取材を終えて、原稿をまとめたころ、道頓堀ZAZAの閉館のニュースが舞い込んできた。
     長く続いてきた地下の「狸の社」は果たしてどうなるのだろう。そう思いながら窓を開けると、外から地車のお囃子に似た音が聞こえてきた。側にいた子供も聞いていて「どこかでお祭かな?」と言っていたが、この時期近隣で開催される祭りはない。

     もしかしたら、狸たちが「だいじょうぶですよ」という報せのために鳴らしてくれたのかも知れない。

    現在も淡路島の洲本城下にまつられている芝衛門狸の社。いまでも藤山寛美が奉納した幕がかけられている。

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