1979年「ムー」誕生とオカルトポップ王仁三郎の発見/ムー前夜譚(4・完)
70年代の大衆的オカルトブーム最後の花火として1979年に打ち上げられた「ムー」。ではそもそも70年代に日本でオカルトがブームとなった背景は? 近代合理主義への対抗が精神世界という言葉以前の現実問題だ
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テレビがまだ娯楽の中心だった1970~1980年代。UFOや超能力、ネッシーなどを紹介し、全国に一大ブームを起こした男がいた! 彼の名は、矢追純一。その後の日本人の意識を大きく変えた、伝説のテレビ・ディレクターの知られざる真実に迫る!
ユリ・ゲラー、ネッシー、UFOと、これまで矢追氏が長年にわたってテレビ番組を通じて巻き起こした一大ブームの数々を見てきたが、本章では、矢追氏という人物を形成した生い立ちからテレビ局退社後の新たな活動、そして矢追氏からの「最後のメッセージ」をご紹介しよう。
1935年7月17日、矢追氏は現在の中国吉林省長春市にあたる満州国新京特別市に、日本政府から派遣された建築家の長男として生まれた。
満州国は清朝最後の皇帝である溥儀を執政として、1932年に日本がつくった傀儡国家である。国際的には認められなかった国だが、日本はこの地に大量の邦人を送りこみ、新国土建設に邁進していた。
首都・新京に建てられた矢追氏の家は、父親が自ら設計・施工したもので、鉄筋コンクリート地下1階・地上2階建ての豪邸であった。多数の中国人給仕を雇い、贅沢な暮らしを送っていたという。
ところが1945年8月15日、日本の敗戦を伝える玉音放送とともに、矢追氏ら家族の生活は一変した。
「翌朝目が覚めると枕元に使用人たちが並んでいて、『ここはもうお前らの国ではない。いますぐ出ていけ!』と怒鳴っているんです。父はその前の年にチフスに感染して亡くなっていたのですが、10歳になったばかりの僕は、母とまだ幼いふたりの妹たちとともに、父が遺した家を追われるように放りだされてしまったんです」
矢追氏の母親は家から持ちだしたものを換金したのか、すぐに住む部屋を借り、矢追氏に着物を手渡すといった。
「『これからは自分の面倒は自分でみなさい。この着物を売って稼いでらっしゃい』というんです。極度の対人恐怖症で学校にも行けず、家の押し入れに引きこもっていた少年時代の僕には、天地がひっくり返ったみたいな衝撃でした」
昨日まで優雅な生活に浸り、お嬢様上がりだった矢追氏の母親は、生き抜くために逞しく変貌したのである。そして10歳の矢追少年に「生きるか死ぬか」の究極の選択を迫ったのだ。
「母の気迫に押され、やるしかないと覚悟を決めました。いくら泣こうが、売れるまで家に入れてもらえませんでしたからね。片言の中国語やロシア語を使い、売ることを覚えていったんです」
矢追氏ら家族は売れるものはなんでも売った。彼らと同じように家を追いだされた日本人から預かった着物や、母親がどこからか仕入れてきたタバコの葉を巻き、箱に入れてはそれを妹たちの首にぶら下げ、街頭にも立ったという。
「もちろん危険なこともたくさんありましたよ。アメリカ兵とロシア兵が些細なことですぐに喧嘩を始め、撃ち合いになるんです。すると流れ弾がビュンビュン飛んでくる。一緒にそれを眺めていた友人が突然黙りこんだかと思うと、流れ弾が彼の頭に当たって亡くなっていたなんてこともありました。
当時4歳だった下の妹が、街頭でタバコを売っていたときに、人身売買をやっていた中国人に目の前で連れさられたこともありました。すごいのは母です。ギャングの棲家にひとりで潜入し、お金で決着させたのか、果敢にも妹を取り返してきたんです」
矢追氏ら家族4人は1947年12月、中国・大連の港から「遠州丸」という最後の引き揚げ船に乗り、日本へ帰国することができた。
終戦からの2年間、異国の地に母や妹らと放りだされ、生きるためだけに過ごした壮絶な少年期の体験は、矢追氏のその後の価値観や人となりに、きわめて大きな影響を与えることになる。
日本へ戻ってきた矢追氏一家は、父方の親戚がいる奈良で数か月を過ごした後、母の出身地である東京へと引っ越した。
心臓を患っていた母親が駒沢の国立病院に入院することになり、矢追氏らは母親のベッドの下にゴザを敷いて寝起きをしていた。やがて母親が退院すると一家は世田谷区の母子寮に移り、6畳一間に4人という生活がはじまった。
満州での過酷な生活の後、入退院を繰り返していた矢追氏の母親は、自らの命があまり長くないことを悟ったのか、子供たちに強く自立を促したという。
「母にはよく、『ひと山いくらで売られるミカンにはなるなよ』といわれました。子供だった僕にはその意味がわかリませんでしたが、今ではよくわかります。それは個としての価値を感じられない人間になってはいけない、という意味です。自分とは何者か、何を目標に生きるのかという根本的なことを、常に考えなさいといわれていた気がします。
また母は、僕が部屋で本を読んだり勉強したりすることを決して許してくれませんでした。『男は体が資本だから、外で遊んできなさい』と叱られるんです。仕方ないから近所のお寺の境内で、暗くなるまでひとりで遊んだりしていましたよ(笑)。今思うと、心身ともに虚弱だった僕に強くなってほしかったんでしょうね」
こうして母親の命令でいつも外で遊んでいた矢追少年は、ある日、今でも忘れられない事態に遭遇する。
「仲間と遊びにいくと、必ずお菓子をくれる教会が近所にありました。そこの若い牧師さんに、多摩川に泳ぎにいこうと誘われたんです。ところが行ってみると前の日に降った雨の影響か、川は増水している。これでは泳ぐのは無理だろうと思ったら、川のなかの岩の上で子供たちが騒いでいたんです。
それを見た牧師さんが、あの岩まで皆で泳ぐぞって、川に入っていったんです。後でよく考えたら、岩の上で騒いでいた子供たちは、上流から流されてきて助けを呼んでいたんだと思います。そして牧師さんと川に入った僕たちも、すぐに流されてしまったんです」
溺れながら流されていく牧師や友人らを見ながら、矢追少年は必死に泳ごうとした。だが急速な流れには勝てず、どんどん流されていく。
「ああ、ここで僕は死んでしまうんだと思いました。そして無理に泳ぐのはやめて仰向けになると、流れに身を任せたんです。上空に浮かぶ雲を眺めながら、これがこの世で見る最後の風景なら、よく見ておこうと思ったんです」
やがて矢追少年は川の中洲まで流され、足が砂地に触れて立つことができた。そして流されてきた友人を救いあげて対岸に渡り、急いで橋を渡ると元の場所へと戻った。だがそこには、すでに亡骸となった牧師を取り囲む人々がいた。
「あのとき、僕は全身から力を抜いて、クラゲみたいに流れに身を任せたから、助かったんだと思います。満州での2年間でたくさんの人が亡くなるのを見てきたせいか、死に対して無感覚になっていたのかもしれません。生と死は紙一重なんだと悟っていたんでしょうね」
矢追少年が死を覚悟した瞬間に閃いた「流れに身を任せるクラゲのような生き方」は、その後の大学進学やテレビ局への就職、そしてUFO番組の制作と、生涯一貫した彼の信念になったのである。
矢追氏が高校2年生のとき、母親が他界した。葬儀に集まった親戚たちは、両親を失った高校生の矢追氏に妹たちの面倒をみるのは無理だろうと、3人を別々に引き取っていった。
「でも、これは絶対に間違っていると思い、妹たちを連れ戻しにいったんです。親戚には猛反対されたけど、なんとかなるという自信がありました。それから昼間は建築設計事務所のアシスタント、夜は日比谷のビルのエレベーターボーイ、深夜からは銀座のクラブのバンドマンと、1日に3つのアルバイトを掛け持ちしていました。学校にはたまにしか行かなかったけど、厳しかった母親がいなくなった解放感で、あのころの僕は毎日が楽しくて仕方なかったんです。
そんな生活をしながら高校を卒業し、おまけに難関とされた中央大学の法学部にも合格したもんですから、親戚たちは皆、不思議に思ってましたね(笑)。
その理由は単純なんです。僕には満州での経験があった。家もお金も失って、銃弾が飛び交うなかを必死で生き抜いたあのころと比べたら、平和な日本で生きることなんて、たいしたことに感じなかったんですよ」
大学3年生の夏、就職先など考えずに日々のアルバイト生活を送っていた矢追氏は、日比谷のビルのエレベーターにときどき乗る中年の紳士から、「就職先が決まっていないのなら、うちの会社を見学にこないか」と誘われた。それこそ、矢追氏が日本テレビに就職することになったきっかけだった。
「何事も起こることはすべて受け入れることにしていた僕は、ここでも流れに任せてテレビ局に入ることになりました。今でこそ花形職業みたいにいわれますが、僕が入社した当時はテレビの草創期で、海のものとも山のものとも知れぬ雑然とした世界でしたよ。
1986年9月(矢追氏51歳)に早期退職者募集に手をあげて会社を辞めたんですが、当時の社長に随分と引き止められました。でも、先が見えてきていたんです。このままいても楽しくないだろうなって」
(月刊ムー 2024年10月号)
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