ツチノコ捜索ブームの前に釣りブームがあった! 日本中を動かした小説、ドラマ、漫画の名作たち/昭和こどもオカルト回顧録

文=初見健一

    「ツチノコ」ブームの勃興と衰退を当時のこども目線で回想。始まりは、釣り文化だった!

    子どもたちに愛されたUMA

     流行しては消えていった70年代昭和こどもオカルトのアレコレのなかで、ブーム化することはなかったがボンヤリとみんなが話題にしていた……といった記録に残りにくい小ネタを記憶の隙間から引っぱりだしてみる、というのが本コラムの一応の趣旨なのだが、今回は異例の大ネタである

     70年代半ばから後半にかけて、大人も子どもも夢中になった「ツチノコ」を取りあげてみたいのだ。
     といっても、この日本を代表するUMAの基本情報についてはネット上にもあふれているし、僕も本や雑誌に何度か書いてしまっているので、今回は主に子ども文化におけるブームの推移といったことに焦点をあててみたい。現在、多くのメディアでは「1974前後に勃発したツチノコブーム」などと語られることが多いのだが、僕ら世代が体感した80年前後の「第2次ブーム」の熱気もけっこうスゴかったゾ……といったあたりのことを回顧したいのである。

    「ツチノコ」は、僕ら世代の小学生たちの多くが本気で捕獲を試みたことのある唯一のUMAである。これは「ツチノコ」ならではの特性であり、日本中であれほどの大ブームが起こった要因もここにある。

     昭和の時代に流行したUMAの多くはたいてい厳密に「地域限定」であり、ほとんどの場合、その棲息地は絶望的なほど遠方だ。オカルトブーム全盛期とはいえ、どんなボンクラ小学生でも「ネッシーや雪男をつかまえにいこう!」などと言いだすバカはいなかったし(石原慎太郎は言いだして、しかも本当に行ったが)、国内産UMAにしても、「イッシー」やら「クッシー」やら「ヒバゴン」やらに対してなんらかの主体的行動を起こせる子どもは、基本的には「ご当地」の子だけだ。
     結局のところ、UMAがどれほどブームになろうとも、それは「遠くのどこかにいるらしい」という逸話=情報として楽しむほか、楽しみようがないのである。

     が、「ツチノコ」だけは違っていた。

     なにしろ当時の子ども向けオカルト本の多くは、多数の目撃例がある場所に印をつけた日本地図などを示しながら、「ツチノコは日本のいたるところに棲息している!」などと断言していたのだ。しかも、特に東京っ子の僕らが興奮できたのは、多くの本で「首都圏にも目撃例は多く、特に多摩川沿いはツチノコ多発地帯!」などと書かれていたからなのである。
    「ツチノコ」は僕らのすぐそばにいるのだ! 僕を含め、多くの子どもたちがそう信じた。信じることができたのだ。

     これは単に棲息地が身近だったというだけの問題だけではない。「ツチノコ」の特別なリアリティは、あのデザイン(?)によるところも大きいのだ。一種妖怪じみた異形の姿でありながら、しかし「この程度の生物なら実在するかも……」と思えてしまう。異様だが、異様すぎない。その非現実感のサジ加減が絶妙なのである。

     これらの条件を満たしているからこそ、「ツチノコ」は子どもたちが「つかまえに行こうぜ!」と真顔で言える唯一のUMAになり得たのである。「会いにいけるアイドル」ならぬ、「つかまえにいけるUMA」なのだ。もちろん決してつかまえられることはないのだが、少なくとも「ツチノコ捕獲ごっこ」という「遊び」に、当時の子どもたちは本気で夢中になることができたのである。こんなUMAはほかにはない(いや、もうひとつ「ケセランパサラン」という非常に特異な植物系UMAが存在してはいるが……)。

    「ツチノコ」大ブームまでの経緯

     では、70年代の「ツチノコ」の大ブームがどのように勃発したのか、ザッと確認してみよう。

     源流がどこにあるのかということに関しては諸説あり、すでに『古事記』や『日本書紀』に記述があるとか、さらには縄文時代の土器の意匠に用いられていたといった説まであるのだが、「ツチノコ」に関する歴史的文献として頻繁に引用されるのは、江戸時代の百科事典『和漢三才図会』である。この事典の記事は70年代のブームのときから各種オカルト本などにさんざん転載されているので、僕ら世代は何度も目にしていることと思う。

     この本では「え? これがツチノコ?」という感じの姿が描かれているが、江戸時代にはほかにも「ツチノコ」に関する絵や文章が残されており、なかには我々がイメージする「ツチノコ」にピッタリと合致するものもある。少なくとも江戸時代には「野鎚蛇」などの名称で一部好事家たちの間で語られていたことは間違いないようだ。

     これが一気に広く認知されてブーム化する引き金になったのは、『和漢三才図会』から数えれば実に260年後、田辺聖子が1972年に朝日新聞夕刊に連載しはじめた小説『すべってころんで』である。「ツチノコ」探しにウツツを抜かす無責任かつ夢見がちな男と、彼にふりまわされたり、あきれ果てたりする家族の団地生活を描くコメディ調家庭劇といった内容で、翌年にはNHKでドラマ化される。小説もドラマもかなり好評だったようで、この作品によって従来は一部のモノ好きにしか知られていなかった「ツチノコ」は、突如「大衆化」され、まさに日本中の誰もが知るものとなった

    『すべってころんで』(田辺聖子・著/中公文庫/1978年)。1972年に朝日新聞夕刊に連載開始、翌年に朝日新聞社より単行本が刊行された。「ツチノコ探索」に夢中になる男と、その家族のトラブル続発の団地生活をユーモラスに描く。

     つまり「ツチノコ」ブームのトリガーを引いたのは田辺聖子ということになるのだが、そう単純に断定できない背景がある。『すべってころんで』の主人公のモデルとなったのは随筆家で釣り研究家の山本素石。この山本氏は、『すべってころんで』の「無責任かつ夢見がちな男」同様、60年代から「ツチノコ探し」に夢中になっていた、いわば「ツチノコ」の第一人者ともいえる人物だ。彼が1962年に雑誌『釣りの友』に発表した「ツチノコ」に関する随筆によって、すでに一部の釣り愛好家の間では局所的な「ツチノコブーム」が起きている。何人もの『釣りの友』読者が「オレもツチノコ探しの仲間に入れてくれ!」と山本氏のところに「頼みもしないのに押しかけてきた」とのことで、「ノータリンクラブ」と称する釣り愛好家団体兼「ツチノコ探検隊」が結成されているのだ。

     要するに70年代「ツチノコ」ブームは、世間の動向とはかかわりなく、誰も関心を抱いていないころから「ツチノコ」を探し続けていた山本素石と、彼をモデルに傑作ユーモア小説を書きあげた田辺聖子の二人三脚によってもたらされたもの、ということになるようだ。

     ちなみに山本素石は73年に『逃げろツチノコ』という「ツチノコ探索記」を発表している。山本氏にとって「ツチノコ探し」は、どちらかといえば厭世的でアマノジャク、世間から妙な目で見られながらも「幻の怪蛇」なんぞの存在を信じ続けてきた好事家たちの間だけの「密かな愉しみ」だった。ブームによって「ツチノコ」は超トレンドな話題となってしまい、メディアに煽られた人々がこぞって「ツチノコ探し」をはじめるようになると、山本氏自身はかなりシラケてしまったようだ。彼は『逃げろツチノコ』以降、このテーマからは身を引いている。

    『逃げろツチノコ』(山本素石・著/山と渓谷社/2016年)。第一人者が自らの「ツチノコ探索」の顛末を描いたユーモラスなエッセイ。もともとは1973年に二見書房から刊行、長らく絶版状態だったが2016年に山と渓谷社より新版(上記画像)が発売された。

     とにもかくにも、熱狂的な「ツチノコブーム」は巻き起こった。だが、我々当時の小学生たちの心に火をつけたのは、決して『すべってころんで』ではない。僕もそんなドラマが大人たちの間で人気を博していたことなどリアルタイムではまったく知らなかったし、当時の子どもたちの多くは新聞の連載小説などはもちろん、NHKのホームドラマなどに関心などなかったはずだ。

     子ども文化において「ツチノコブーム」を起爆させたのは、同じく73年に矢口高雄が『少年マガジン』に連載した衝撃的なマンガ作品なのだが、ここから先の話は80年前後に盛りあがった第2次「ツチノコブーム」とも密接に絡んでくる。

    「ムー」2010年9月号掲載記事「ツチノコサミット2010開催」より。70年代から現在にいたるまで「幻の怪蛇」として君臨し続ける「ツチノコ」。その姿や習性など、語り継がれる基本情報は我々の子ども時代からまったく変わっていない。

    「ツチノコ」ブームの過熱と衰退

     先述したとおり1973年に田辺聖子の小説『すべってころんで』、及びそれを原作としたテレビドラマによって「ツチノコ」はブーム化した。現在も「ツチノコ」話につきものの逸話となっている西武百貨店の「ツチノコ手配書」が配布されたのも同年のことだ。西武が「ツチノコ」に懸賞金をかけ、このことがブームをさらに過熱させるきっかけとなったとされている。広告効果も兼ねた意表を突く企画だが、これはもともと西武側が『すべってころんで』のモデルになった山本素石氏に話をもちかけて実現したもの。彼が率いる「ノータリンクラブ」との共同プロジェクトだった。

     同じく73年、僕ら世代には『釣りキチ三平』でおなじみの釣りマンガの大家・矢口高雄が、『幻の怪蛇・バチヘビ』を『少年マガジン』に連載する。「バチヘビ」とは「ツチノコ」の別名だ。矢口氏自身、かつて「ツチノコ(らしきもの)」を「チラ見」した経験を持っているという。『幻の怪蛇・バチヘビ』は、そういう彼が仲間とともに行う「ツチノコ探索」をドキュメンタリーとして描いたもので、いわば『水曜スペシャル・川口浩探検隊』風フォーマットのマンガだった。

     ただ『水曜スペシャル』のように「おもしろければヤラセも辞さず!」と娯楽にフリきった内容ではなく、フィールドワークと目撃者への聞き込みをひたすら繰り返すという、少年マンガとしてはかなり地味で誠実(?)な作風。なんだかんだありがら「結局は見つからない」というオチになるのだが、だからこそリアルで印象に残る作品に仕上がっていた。
     また、自然と野生動物の描写にかけては右に出るもののない矢口氏が描く「ツチノコ」の想像図が随所に登場し、これがとにかく強烈だった。「ツチノコ」ブームの初期にあった「猛毒を持った禍々しい妖怪」のような恐ろしいイメージ(ブーム初期において「ツチノコ」は「見ても語っても呪われる」という「禁忌」の存在とされることが多かった)と、リアルな爬虫類感が絶妙なバランスで共存している。力感とリアリティに満ちた矢口氏の「ツチノコ」こそ、70年代の子どもたちの「ツチノコ」イメージを決定づけたと言えるだろう。

    『幻の怪蛇 バチヘビ』(矢口高雄・作/講談社/2000年)。73年に『少年マガジン』に連載開始されたマンガによるドキュメント風「ツチノコ探索記」。同年末には単行本が刊行され、子ども文化における「ツチノコブーム」の起爆剤となった。2020年6月にヤマケイ文庫版(上記画像)が出版された。

     さらに74年、翌75年には『ドラえもん』にも「ツチノコ」が登場する。特に75年に小学館『小学六年生』に掲載された「ツチノコみつけた!」は僕ら世代の記憶に残る傑作だった。矢口氏のタッチとはまったくベクトルの違うF先生ならではのキュートな「ツチノコ」に、多くの子どもたちが魅了されたのである。

    ドラえもんの「ツチノコみつけた!」が収録されているのは、てんとう虫コミックスの第9巻。

     その後、ブームはますます過熱。多くの「ツチノコ探検隊」サークルが結成され、人々が山深い渓流に繰り出したり、西武同樣、企業が懸賞金をかけたり、町おこし・村おこし目的で自治体が賞金付きのイベントを開催したりといった動きが各地で見られた。
     ブームが好事家たちの範囲を越えて拡大すれば、「場」が荒らされるのは必然である。とくにメディアとカネが絡めば怪しげな連中も参入してくれるわけで、この時期には捏造した情報やインチキな「証拠物件」を売る「ツチノコ詐欺師」的な人物があちこちで跋扈していたようだ。

     ブームのオリジネーターである山本素石氏も「ツチノコ詐欺」にあっており、そのあたりで彼はブームに愛想をつかして「ツチノコ探索」からあっさり降りてしまう。彼の「ツチノコ随筆」が『逃げろツチノコ』と題されているのも、ある種の悲しい皮肉だろう。自分と仲間たちが長年追い求めてきた「密かな愉しみ」であった「ツチノコ」を、今はメディアに煽られた素人(?)や商売絡みの連中が血眼になって追い求めている。こんな奴らにシッポをつかまれるくらいなら、「ツチノコ」が永遠に「謎」のままであるほうがよっぽどマシだ。だからこその「逃げろ!」だったのだと思う。

     過熱したブームがすぐに冷めるのも世の常で、大騒ぎをした人々は2年足らずで「ツチノコ」に飽きてしまったようだ。ニワカ的に結成された無数の「ツチノコ探検隊」も、もちろん成果をあげられないまま次々に空中分解。こうして一世を風靡した「ツチノコ」の狂乱は下火になっていった。
     ただ、ブーム以降「ツチノコ」が語られなくなったというわけではなく、オカルトネタにおける代表的UMAとして完全に定着し、愛好家たち(?)は相変わらずイベント的な探索ツアーなどを続けていたようだ。

    釣りのついでに「ツチノコ探索」

     さて、僕ら世代は園児~小学校1年生前後に、この「第1次ツチノコブーム」を体感している。しかし、むしろ僕らが心底「ツチノコ」に夢中になったのは、それから5、6年後のことだ。このタイミングで、主に子ども文化のなかにおいて「第2次ツチノコブーム」が勃発しているはずなのである。これはメディアや企業を巻き込むような社会現象にはなっていないので、当時の雑誌などにも記録はほとんど残っていないと思う。というより、明確なブームとしては認知されていなかったのだろう。が、実態はかなり大規模なブームだったと思うのだ。

     ごく個人的な体験を書けば、僕や周囲の子どもたちが「ツチノコ探索」にウツツを抜かしたのは小6から中1にかけてのことで、年代でいうと78~80年ごろだ。中学生になってまで「ツチノコ」を探しまわるなんて、どれだけボンクラだったんだと我ながら思うが、しかし同世代の人と話すと、この時期に「ツチノコ」にウツツを抜かした人はやたらと多い。

     さらに当時のことを思い出してみると、僕らが「ツチノコ探索」をする際、最初から「ツチノコ探しに行こうぜ!」と誘い合って出かけることは皆無だった。当初の目的はいつも必ず「釣り」なのである。「釣りに行こうぜ!」とみんなで集まり、多摩川や相模湖に出かけていき、いつまでたってもフナ一匹釣れないので飽きてきたときに、誰からともなく「ツチノコでも探そうか……」というアホな提案が出てくるのだ。そしていっせいに釣り竿をしまい、さっきまでの「釣り仲間」が瞬時に「ツチノコ探検隊」に変貌して、探索が開始される。このアホ丸出しの展開は僕らの周辺にいたボンクラたちだけの傾向だと長らく思っていたが、大人になっていろいろ取材してみると、この「釣りのついでにツチノコ探索」というアホな体験を多くの同世代が共有しているのである。

     このあたりのことについては本格的な調査がなされていないので断定は難しいが、ブームのピークから5年以上も経過したあたりで、小学校高学年から中学生にかけての世代限定の「第2次ツチノコブーム」が間違いなく全国規模で起こっている……と僕自身は確信している。

     この「第2次ブーム」の重要なファクターとなっているのが、80年前後にティーンエイジャーたちの間で起こった爆発的な「釣りブーム」だ。ブームのきっかけは、もちろん矢口高雄氏の『釣りキチ三平』である。この作品は、それまではどちらかといえば「おっさんのレジャー」というイメージが強かった釣りを、魅力的でスリリングで新しい「スポーツ」に変えてしまった。背景のさらに奥には、欧米ではポピュラーだったブラックバスを対象とするルアーフィッシングが70年代に日本でも普及しはじめたという事情があるのだが、とにかく僕ら世代は『釣りキチ三平』によって「釣りってカッコいい!」ということを実感したのだ。
     そして、それまで僕ら世代がホビーにおけるステイタスとしていたアイテム、たとえばラジカセとかラジコンとかカメラとかモデルガンとかといったようなものと同樣に、高価なブランドのロッドやリールやルアーがもてはやされるようにもなったのである(こういう価値観は矢口氏の想いや『釣りキチ三平』のコンセプトには反するが、子どものホビー観というのは得てしてそういうものなのである)。

    『釣りキチ三平』(矢口高雄・著/講談社/1973年から1983年まで『少年マガジン』に連載)。80年前後に子どもたちの間で「釣りブーム」を巻き起こしたエポックな作品。『少年マガジン』の看板作品として長らく人気を維持し、10年にわたって連載された。80年にはテレビアニメ化され、また09年には実写映画化されている。

     そもそも「ツチノコ」と「釣り」は最初から親和性が高い。というより、ブームの仕掛け人である山本素石氏や矢口高雄氏が筋金入りの「釣り人」であり、初期の「ツチノコ探検隊」の多くが「釣りサークル」の延長であったように、少なくとも戦後の「ツチノコ」は「釣り人」たちの間で語り継がれてきたUMAだ。典型的な「ツチノコ」発見の逸話で語られる目撃場所の多くが、渓流、河、湖、沼、池の近くというのも、要するにそこが「釣り場」だからである。

     また、僕ら世代の多くは73年の『すべってころんで』も知らないし、矢口高雄の『幻の怪蛇・バチヘビ』も連載時には幼すぎて読んでない人が多い。懸賞金の騒動などもリアルタイムでは知らないだろう。にもかかわらず、この世代の男子の多くが「ツチノコ」に夢中になった経験を持っているのは、80年前後の「釣りブーム」を経由して、数年前に社会現象化した「ツチノコ」に遅ればせながら出会っているからだ。

    『釣りキチ三平』に魅了されて矢口作品を読み漁るようになり、すでに単行本になっている『幻の怪蛇・バチヘビ』を手にしたり、釣り雑誌の小ネタや「釣りエッセイ」で「ツチノコ」目撃談を読んだりといった形で興味を持つ子が急増し、僕ら世代を中心とする「第2次ツチノコブーム」が静かに、しかし広範囲に勃発したのだろう。「釣りブーム」によって、いったん落ち着いた「ツチノコブーム」が再び子ども文化の前面にひっぱり出されたのだと思う。

     つまり、この時期に「ツチノコ」にウツツを抜かした子たちは、そのまま80年代「釣りブーム」にウツツを抜かした層と重なるはずだ。もっといえば、80年代「釣りブーム」に夢中になった子どもたちのなかで比較的「ボンクラな子」たちが、同時期に「ツチノコ探索」にウツツを抜かしているはずなのである。
     このあたり、高度成長期の天体ブームにおいて、無数の「天体少年」のなかでも一部の「ボンクラな子」がUFO発見にウツツを抜かしたことにも似ているかも知れない。当時の天体雑誌などを見ると、望遠鏡でUFO探す「UFOマニア」は正統派「天体少年」たちに「天体ファンの風上にもおけない」などと軽蔑される傾向にあったようだが、「釣りブーム」の際に「ツチノコ」を探していた僕らも同じようなもので、要するに一種の「落ちこぼれ」だったのだと思う。
     野球が流行ると「魔球」を身につけようとするヤツとか、カメラブームのときに心霊写真に夢中になるヤツとか、ハム無線のブームのときに「怪電波」の話ばかりするヤツとか、どんなブームにおいても本道を行かずに「変な方向」に行っちゃう子というものは存在するものだ。

     ちゃんと釣りのテクニックを磨く努力をすればマットウに釣りを楽しむことができていたはずなのだが、そうはしない。「釣れねぇなぁ」となれば、「もっと練習しよう」ではなく、「じゃあ、ツチノコでも探そうか」となってしまう夢見がちな「ボンクラ組」が、当時の僕らだったのだろう。昭和こどもオカルトにおける魅惑的なアレコレを支えていたのは、やはりこうした愛すべき(?)「ボンクラ組」の子どもたちであり、典型的な「ボンクラ」だった僕などは、この歳になっても「数あるUMAのなかでもツチノコだけは実在するのではないか……?」などと、かなり本気でシツコク思い続けているのである。

    (2020年7月22日記事を再編集)

    初見健一

    昭和レトロ系ライター。東京都渋谷区生まれ。主著は『まだある。』『ぼくらの昭和オカルト大百科』『昭和こども図書館』『昭和こどもゴールデン映画劇場』(大空出版)、『昭和ちびっこ怪奇画報』『未来画報』(青幻舎)など。

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