怪談を語る者を苛む呪物「お化けの面」/吉田悠軌の怪談解題・呪物編

文=吉田悠軌

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    実は100年も前から活躍していた「怪談師」。彼らはさまざまなギミックを駆使し、恐怖を演出していたが、そのための道具が本当に呪いをもたらすこともあったという。呪具と化した仮面は、どんな経緯をたどることになったのか。

    100年前の怪談師を恐れさせた「お化けの面」

     近年では実話怪談の語り手を「怪談師」と呼ぶことが多いが、このネーミング自体は近年生まれたものではない。
     落語界では、江戸後期に活躍した初代林屋正蔵を祖とし、怪談噺の系譜が連綿と続いていた。こうした怪談を得意とする芸人たちは、いつしか「怪談師」と呼ばれるようになった。おそらく幕末ごろか、少なくとも明治期には怪談師の呼称が資料に確認できる。

     当時の怪談師の演出は、ずいぶん派手なものだった。青白い焼酎火をつけたり、幽霊に扮した前座が驚かせてきたり、グロテスクな小道具で目を引いたり……。語りのみで勝負する現代落語と比べると、大衆演劇めいた娯楽性に溢れていたのだ。
     ただ、それでも怪談は怪談である。こうした小道具が、恐ろしい呪物となったケースもあったようで。

    「お化けの面」の話をしよう。

     それはまず大きさからして異様だった。赤子ほどもある巨大なサイズで、とても被り物に適しているとは思えない。左目は乳房のように垂れ下がり、右目は腫れぼったい半眼。ざんばら髪で、口からは赤い血がだらりと流れている。破れた箇所を鼠色の布で覆っているのが、いっそう無気味さを醸し出していた。
     この面はまず、5代目林家正蔵が所有していたようだ。ここから「林屋」の名跡が「林家」になったので「初代林家正蔵」とも、100歳まで生きたので「百歳正蔵」とも称される。先述どおり、林家(屋)正蔵といえば怪談噺の代表格。もしかしたら先代・先々代から受け継がれた秘蔵の面だったのかもしれないが、それはともかく。
     大正12年3月、正蔵が沼津において100歳で没した際、これが浪曲師・中川海老蔵へと形見分けされる。明治期に人気を博した落語の怪談噺だが、当時はブームもすっかり下火となっていた。その代わりを新ジャンルである浪曲が担う。中川海老蔵は四谷怪談を派手な芝居仕立てで演じ、「怪談浪曲」の祖ともいわれたそうだ(井口政治「浪花節の変り種」『新演芸』1946年12月号) もはや「怪談師」の役割は、落語から浪曲へと移っていた。正蔵が直弟子の噺家ではなく浪曲師にお化けの面を託したのも、そうした状況の故だろう。

    形見の仮面がもたらす怪事件と不幸の数々

     それから数年がたった、昭和4年の冬の暮れ。
     浪曲師・浪華綱右衛門が足立区の自宅にいたところ、思わぬ訪問者が現れた。久方ぶりの再会となる、師匠の中川海老蔵だった。
     綱右衛門は、すっかり落ちぶれた師匠の面構えに戸惑ったはずだ。
    「怪談浪曲」の祖として、海老蔵は華々しい経歴を辿っていた。明治末年には、当時の芸人としては異例のアメリカ興行を敢行。天皇崩御やギャラ横領などの困難に遭いながらも、サンフランシスコやハワイでの巡業を成功させる。帰国後も、面や衣装に凝った演劇的な怪談が喝采を得ていたものだ。
     しかし昭和に入るころから転落が始まる。突然の重病を患った海老蔵は、仕事を失い、長く浪曲をともにした愛妻にも別れを告げられてしまう。杖にしがみつくその姿には、往時の面影は見て取れなかった。
    「……おめえに形見を渡そうと思ってな」
     弱々しい深川訛りとともに海老蔵が風呂敷から取り出したのは、見ただけで呪われそうな、お化けの面だった。
    「こいつは正蔵師匠からいただいた名品なんだ。ずっと怪談浪曲に使っていたが、今度はてめえの弟子に渡す番になった。おめえが使ってくれりゃあ、こんな嬉しいことはねえ……」
     涙を浮かべての申し出を断れるはずもなく、綱右衛門はそれを受け取ってしまう。
     そのわずか一週間後、中川海老蔵はこの世を去った。
     本当の遺言となってしまっては仕方ない。綱右衛門はさっそく、深川の寄席「桜館」での四谷怪談上演に、この面を被ったお岩を登場させてみた。
     ところが興行はさんざんなあり様となった。いつもなら300人は入る初日の客席が、15ほどしか埋まらない。2日目には客同士の大喧嘩が始まり、木戸が血まみれになる大騒ぎ。
     ……こりゃあ、とんでもねえブツをもらっちまったかな……。
     恐れをなした綱右衛門だが、師匠の形見を捨てるわけにもいかない。ともかく床の間に祀りあげ、都度に渡ってお神酒を奉げるようにしたのだが。
     3年ほどたって恐怖が薄らいだのだろうか。ふとした気まぐれから、綱右衛門は例の面を弟子の綱行に被せ、その様子を写真に収めてみた。
     とたん、いつも大人しい綱行の様子がおかしくなった。やけに攻撃的な物いいで、こちらへ突っかかってくる。綱右衛門のほうも乱心していたのか、些細な行き違いはやがて激しい口論へと発展していく。やがて綱右衛門はビール瓶を綱行の頭へと振り下ろし、大ケガを負わせてしまったのだ。
     この後も綱右衛門の周りでは、妻が病に倒れたり、持ち家を売却せざるをえなくなるなどの不幸が相次ぐ。

    「お面と一つ家にいれば心中でもせねばなりません」

     そんな折、友人の絵師・伊藤晴雨が彼の家を訪ねてきた。責め絵で名を成した晴雨だが、ここ数年の彼もまた、病気の妻を抱えての借金苦にさらされている。互いの苦境を慰めあううち、ふと例の面のことが綱右衛門の脳裏によぎった。
    「この体たらくは、お化けの面のせいなのかねえ……。海老蔵師匠の晩年がさんざんになったのも、正蔵師匠に面をもらってからだよ。人を不幸にする力でもあるんじゃねえか」
     このなにげない愚痴が、図らずも証明されることとなる。晴雨が帰って間もなく、伊藤夫人が逝去したとの報せが届いたのだ。
     とうとう綱右衛門の忍耐も限界を迎えた。いかに師匠の形見であろうと、どこかへ引き取ってもらわなければどうしようもない。
    「このお面と一つ家にいれば、心中でもせねばなりません……なんの不平でこうまで祟るのでしょう」
     昭和11年3月、「讀賣新聞」の取材に対し、綱右衛門はそうコメントしている。菩提寺である浅草玉姫町(現・台東区)永伝寺の住職と話し合った末、近いうちに同寺へ奉納・封印することに決めたのだという。
    「ええ、封じこめますとも。いかに名作でも、こんな物がうちにあつたのでは命までなくしますよ。とんでもねえ物を背負いこんだものだ」

    解題――呪いの「お化け面」はひとつではなかった!

    「讀賣新聞」1936年3月4日付夕刊記事「アラ恐や形見の面」として紹介された怪談である。怪談ファンにとっては、同記事をほぼそのまま転用した田中貢太郎『お化の面』(1938年)が有名だろう。ただ両者ともいくつかの情報誤認があるため、大幅な加筆修正の上リライトさせてもらった。
     この他にも、怪談師のお化けの面が呪物扱いされた例がある。早稲田大学演劇博物館(以下「演博」)に保管されている「2代目柳亭左龍の面」がそのひとつだ。
     明治期の怪談師として活躍した落語家・2代目柳亭左龍が使用した面で、左龍から6代目雷門助六、さらに五代目蝶花楼馬楽(後の8代目林家正蔵)へと受け継がれていった。
     しかし馬楽は昭和11年8月31日、これを演博へ寄贈してしまう。
    「このお面に触れると、なにかしら不幸がふりかかる」との謎めいた言葉を残して……。
     ただ、この馬楽の発言はストレートには信用できない。まず彼の著書『正蔵一代』によれば、自宅2階に置いてあるとゾッとするから寄贈しただけとあり、なんら怪談的エピソードは見当たらない。
    『文部科学教育通信』334号では、より詳しい事情が記されている。
     そもそもこれはお岩を模した面だが、四谷怪談は柳派の演目で、三遊派の自分が使うわけにもいかない。またお面のほうでも嬉しくないだろう、との理由で演博に寄贈したとのこと。つまり「なにかしら不幸がふりかかる」とは寄贈のための嘘、噺家らしい韜晦だったのだろうか。
     ただ続く文章を読むと、この嘘が真に転じてしまったようだ。寄贈された演博側ではその後、「館員の間にもよくないことが続いたため、水稲荷神社の神官を聘へ
    いし、お祓いをしてもらった。それ以降は、別段変事なく今に至るという」。
     これらの事態が起きたのは、綱右衛門の怪談が讀賣新聞に掲載された半年後。もしかしたら同記事を読んで、馬楽も演博職員もこの面に恐れをなしたのかもしれない。

    おどろおどろしい写真とともに、浪華綱右衛門の「お面」の怪を伝える「読売新聞」1936年3月4日付記事。
    この仮面が「お化け面」だとは断定できないのだが、可能性は高いだろう。

    お化けの面は菩提寺に納められた?

     さて問題のお化けの面だが、本当に永伝寺へと預けられたのだろうか。2012年、私は永伝寺を訪ね、ご住職(当時)に話を聞かせてもらったことがある。

     結論からいうと、件の面は寺に現存していなかった。ただ綱右衛門についてはご住職も心当たりがあったようで。
    「これは、蛭田さんのことかもしれませんね」
     境内の墓に案内してもらうと、確かに「蛭田綱右衛門」との墓碑銘がある。
    「蛭田さんは浪曲をやってらしたそうですね。私が見たのは息子さんの舞台だけですが……」
     戦後のころ、浪華綱右衛門=蛭田綱右衛門の息子(名前は不明)もまた、永伝寺近くの寄席で怪談浪曲をやっていたそうだ。住職が高校時代に観た時の記憶では「お面が印象的な出し物でしたね」という。
     ただそれは、先述のようなグロテスクな代物ではなかった。能面の痩男に似た、シンプルで端正な男の面だったとか。
    「50年も前なのでハッキリと覚えてませんが。自分の家族を殺された人間が、恨みを晴らそうとしていろいろなものに変わって、仇を苦しめる話です。七変化の早変わりを見せる演目ですね。お面はひとつなんですが、着物や明かりの使い方でいろいろと変わっていくんです」
     そのなかのひとつに、幽霊になって仇を脅かすシーンがあったという。
    「照明がどんどん暗くなって、トンビコートがさあっと後ろに引かれて落とされて、ばっとお面を被った顔が出てくるんですが」
     瞬間、客席から「ううっ」と悲鳴が上がった。
    「顔が崩れてるとか単純な形状じゃなく、見せ方でゾッとさせる怖さ。女の人なんか泣き出す人もいて、“すげえなあ”と思ってました。私も家に帰ってから寝られなかったですよ」
     蛭田氏は内縁の妻とともに、北千住で暮らしていた。昭和29年ころより、なぜか夫婦が別々に墓参りしてくるようになり、最後に妻のほうが蛭田家の過去帳を預けてから、ぱったりと訪ねてこなくなる。その後の夫婦の行方はわからない。痩男の面はおそらく、蛭田氏がどこかへ持っていったのだろう。

    2代目柳亭左龍使用 怪談噺用大仮面 「お岩」「かさね」(早稲田大学演劇博物館所蔵)。寄贈先ではよからぬことが続いたため、お祓い
    が行われたという。
    今も永伝寺に残る、綱右衛門の墓。

    面に込められていたのは、芸人たちの念だったのか

     ともあれ、いずれの面も永伝寺には現存していないようだ。
     ふたたび「浪花節の変わり種」を参照すると、綱右衛門は1945年5月の空襲の際に転倒、同月18日に死去し永伝寺に葬られたとある。その後、彼の道具一式は兄である浪曲師・愛吉のもとに託されたという。このなかに件の面が紛れていたとしても不思議ではない。
     初代林屋正蔵から中川海老蔵、そして浪華綱右衛門へ……こうして眺めてみると、お化けの面の伝承には芸人たちの悲哀がつきまとっている。
     落語から浪曲への怪談人気の移り変わり。落ちぶれた師匠の最後の訪問。綱右衛門もなぜか面を手放さないまま、戦争により怪談浪曲の場を失い、空襲が原因となって急死した。
     ただ正蔵と海老蔵は、不幸を呼ぶお化けの面を、なぜ形見として託したのか? もしかしたらそこには、華やかに活躍する後輩への嫉妬や悪意が込められていたのかもしれない……。現代の「怪談師」である私は、ついそんな嫌らしい想像を膨らませてしまうのだ。

    (月刊ムー 2026年04月号)

    吉田悠軌

    怪談・オカルト研究家。1980年、東京都生まれ。怪談サークル「とうもろこしの会」の会長をつとめ、 オカルトや怪談の現場および資料研究をライフワークとする。

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