千利休はキリシタンだった!? 織田信長の野望を支えたイエズス会の謎/加治史観の世界
信長、秀吉、家康らが覇を競った戦国時代。その背後にはイエズス会とキリシタン千利休の姿があった! 作家・加治将一氏の論証をもとに、茶の湯とキリスト教の深い関係に迫る。戦国時代は茶室も”戦場”だった!
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青森県新郷村「キリストの墓」付近に、密かに守り伝えられてきた幻の天皇陵があった!? 地域に残された伝承が語る、90年前の秘事とは……?
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700年ほど前の南朝天皇・長慶天皇は、足利軍に追われて密かに東北に逃れるなかで崩御、青森に御陵が築かれた。このとき天皇の“影武者”を務めた家臣の墓が同じく青森の新郷村崩(くずれ)地区にあり、貴人の眠る「三婆羅(さんばら)塚」として守り伝えられてきた。
『新郷村史』に伝えられる、青森の長慶天皇伝説。天皇やその家臣たちの墓が青森各地に残されているという驚くべき内容だが、崩地区の旧家・崩家にはさらに驚愕の伝承が残されていた。
身代わりの家臣の墓だとされた三婆羅塚こそが、長慶天皇の真の御陵だった、というのだ。
崩地区で2016年に結成された「崩伝承保存会」は、2024年の夏、史料の調査や聞き取りによって収集した地域の伝承を『新郷村西越「崩」地区の新たな伝説 長慶天皇ゆかりの御陵』という一冊の冊子にまとめている。
70ページほどのなかにご当地ならではの非常に興味深い記録が詰め込まれた冊子で、以下の伝承は主にこちらを参考にさせていただいた。
伝承保存会会員で、現在三婆羅塚の管理をする崩幸雄氏の家には、ここが長慶天皇陵として再認識されるきっかけとなったできごとが伝えられていた。
もともと、三婆羅塚は代々崩家の本家が「高貴な方の墓である」として大切にしてきたものだった。昭和9年ごろ、3人の男性が突然崩家を訪れる。ひとりは「阿保」と名乗り、仙台で長慶天皇にまつわる古文書や地図を発見し、それを頼りにこの地を訪れたのだと伝える。そして三婆羅塚をみて「これが長慶天皇陵に間違いない」と断言したというのだ。
阿保と名乗った男は阿保親徳、青森で当地の歴史を研究する郷土史家のような人物だったらしい。そして彼らが三婆羅塚を訪れた「昭和9年」というタイミングに、長慶天皇をめぐる大きな意味がある。
先にも書いたように、長慶天皇が即位したのは南朝が衰退のピークにある時期で、ほぼ記録もなく天皇とはいいながらも即位したかどうかすらよくわからないという状態だった。
長慶天皇が即位したのか、していないのかは明治時代になってもまだ議論が戦わされていて、状況に大きな変化があったのは、なんと大正時代に入ってから。この頃長慶天皇にまつわる新資料が発見されたことで即位説が決定的になり、大正15年(1926)、ようやく歴代天皇として数えられることが決定する。
じつは大正15年まで長慶天皇は正式には天皇ではなく、「天皇だったかもしれない」というオブザーバー的存在だったのだ。
これ以降、政府・宮内省は長慶天皇の御陵を定めるための調査に本腰を入れ、昭和10年には臨時陵墓調査委員会を立ち上げる。しかし即位中のこともよくわからないのに、その後の詳細がわかるわけもない。
調査を進める宮内庁には全国から「我が郷土のあの塚が長慶天皇陵なのでお調べください」という申し出が殺到し、最終的にはなんとその数は100ヶ所をこえたという。北海道から九州まで、まさに日本中に天皇陵立候補地があるという乱立状態になったのだ。
阿保たちが三婆羅塚を訪れたのは、まさにこのタイミング。全国に、長慶天皇陵の“招致”をめざし伝説を調査する人たちが駆け回っていた時代なのである。
しかし、阿保の一声だけでここが長慶天皇陵だと信じられたわけではない。「崩伝承保存会」会員でもある崩幸雄氏は、自身が聞いたこんな言い伝えを記録している。
長慶天皇の崩御後、塚を守る役を託されたのはマタギをしていた崩氏の祖先。「崩」を名乗るようになったのは、このときに崩御から一字をとって「崩」姓を与えられたから。
また、三婆羅塚では周囲に6人の家来が人柱として埋まっているとも言い伝えられていた。阿保たちが訪れて数年後、塚の横にあったツツジの木を掘り返し盗んでいったものがあった。このとき崩幸雄氏の母親は、掘られた土の下に頭蓋骨らしきものが見えたのを、ていねいに埋め戻したという。
また同じ頃、近所の人が集まり塚の上から鉄の棒をさしてみたことがあったのだが、どの場所でも一定の深さのところで棒が固いものにぶつかる。これはやはり石棺が埋まっているからだろう、といいあったという。
さらに、塚の近くに住んでいるおばあさんは、子どもの頃には「塚のほうを向いてよだれもたらすな」と教えられ育てられたともいう。塚の近くどころか、その方向を向いてよだれをたらすことさえはばかられる、三婆羅塚はそれほどに畏れ貴ばれる存在だったということだろう。
崩地区に濃密に漂う長慶天皇の痕跡。さらに、新郷村にはこれを傍証するかのような伝統行事もあった。新郷村西越地区の間明田(まみょうだ)に伝えられる「間明田の駒踊り」だ。
崩伝承保存会では、活動の一環として平成28年から毎年8月、三婆羅塚前で長慶天皇祭をとりおこなっている。八戸市に鎮座する「南部一之宮」櫛引八幡宮から神職と巫女を招き厳粛に執り行われる神事ののち、塚の前で間明田の駒踊りが奉納されるのだ。
間明田の駒踊りは村指定民俗文化財として保存されているもので、笛や太鼓の音色にあわせて、白馬の飾りをつけた7人の舞手が勇壮な踊りを披露する。令和6年の長慶天皇祭では神事の途中から激しいにわか雨が降り始め、大粒の雨のなか駒踊りが奉納された。
ダイナミックな舞いに目を奪われるが、注目されるのが「七頭の白馬で踊る」ところだ。伝承によれば、この白馬は、かつて長慶天皇が白馬に乗って西越に訪れたことにもとづいているというのだ。
「白馬に乗った天皇」のイメージが広く普及したのは、おそらく大元帥としての天皇イメージが定着した近代以降のことだろうから、即座に天皇と結びつけるのはやや焦りすぎかもしれない。しかし古くから神の乗り物ともされてきた白馬を貴人の象徴と考えれば、そこにはやはりやんごとなき人の顔が浮かび上がってくるようでもある。
もうひとつ、長慶天皇祭で神事を執り行う櫛引八幡宮にも、長慶天皇にまつわる貴重な遺物が残されている。通称「菊一文字の鎧兜」と呼ばれる国宝の大鎧だ。
鎌倉期の壮麗な大鎧で、兜と大袖には名前の由来になった菊一文字の飾り金具がいくつも配されている。菊といえばもちろん天皇家の紋。この大鎧は、南部を訪れた長慶天皇からの拝領品だといわれているのだ。
また櫛引八幡宮の鍵守をしていた滝沢という旧家には、この大鎧一式をおさめた唐櫃も残されていたという。天皇の鎧が入っていた唐櫃を床に置くのは畏れ多いと天井の梁に厳重に巻きつけられていたのだが、あるとき屋敷が火事になり、梁から外すことができずに屋敷とともに焼失してしまったという言い伝えも残されているそうだ。
じつは現在、崩地区のある施設には、菊一文字の大鎧を忠実に再現したレプリカの鎧が飾られている。趣味で鎧作りをしていた人が三婆羅塚の話をきいて保存会に寄贈したもので、床の間にどっしり飾られた鎧は「あるべきところにおさまった」と語っているかのような貫禄を漂わせている。
昭和の初期、ひとりの郷土史家によって「長慶天皇陵である」と見出された三婆羅塚。しかし代々塚を守ってきた崩家や崩地区にも、墓の主がやんごとなき人物であることを窺わせるいくつもの伝承があった。
さらに、昭和10年代には、当地の長泉寺住職が独自の研究から三婆羅塚を長慶天皇陵に間違いないと確信し、宮内省に調査依頼を送るというできごともあった。
住職は依頼文に添えて寺伝の古文書や長慶天皇御物と伝わる品を宮内省に送ったのだが、残念ながら結果は却下となり、送ったものも返却されることなくそのまま失われてしまったのだという。
ところで、「公式」の長慶天皇陵をめぐる顛末は、その後どうなったのだろう。
昭和10年代をまるまるかけて行われた宮内省による陵墓調査の結果、最終的に昭和19年、「長慶天皇陵」に選ばれたのは京都府の嵯峨東陵だった。それまで陵墓参考地のポジションにあった紙漉沢の長慶天皇陵もこのとき指定解除となり、宮内省の管理も外れて今に至っている。
しかし、繰り返しになるが、長慶天皇は確かなことがほぼわかっていない、あまりにも謎が多い天皇。宮内省の決定が100%正しいと断言できるわけでもないのだ。
三婆羅塚に眠るのは長慶天皇なのか、それとも別伝にあるように側近の弘田刑部なのか、あるいは全く別の「貴い人」なのか。この先あらたな史料が発見されて、崩の伝承どおりの、あるいは予想外の真相が明らかになる日がくるのかもしれない。
余談ながら、これは三婆羅塚とはまったく関係のない話なのだが、皇祖皇太神宮天津教教祖にして竹内宿禰の末裔を名乗る竹内巨麿(たけうちきよまろ)という人物が戸来村(現新郷村)を訪れ、そこで見たふたつの塚を「キリストの墓」だと霊視したのも、阿保親徳が三婆羅塚を訪問したのとほぼ同時期の昭和10年のことだった。この頃の新郷村には、人々を惹きつける秘史の引力のようなものが働いていたのだろうか……?
参考文献
『天皇陵論 聖域か文化財か』(外池昇、新人物往来社)
『歴代天皇年号事典』(米田雄介編、吉川弘文館)
『歴代天皇総覧』(笠原英彦、中公新書)
『相馬村史』(鳴海恒男、津軽書房)
『新郷村史』(新郷村史編纂委員会編、新郷村)
『新郷村西越「崩」地区の新たな伝説 長慶天皇ゆかりの御陵』(崩伝承保存会)
鹿角崇彦
古文献リサーチ系ライター。天皇陵からローカルな皇族伝説、天皇が登場するマンガ作品まで天皇にまつわることを全方位的に探求する「ミサンザイ」代表。
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