エベレスト初登頂はマロリーだった!? 100年明かされない登山史ミステリーと「チョモランマの女神」の差配
誰が最初にエベレスト登頂に成功したのか? 100年に及ぶ「論争」を、山の女神の視点で再考する。
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70年代の大衆的オカルトブーム最後の花火として1979年に打ち上げられた「ムー」。ではそもそも70年代に日本でオカルトがブームとなった背景は? 近代合理主義への対抗が精神世界という言葉以前の現実問題だった当時、世界の変革と理想を「不思議」に託してぶちあげた大人たちがいた——。 ときには政治的にもなりえた熱きムーブメントを振り返る。(全4回予定) 語り手は、日本オカルト界の大御所・武田崇元氏!
70年代になると、いよいよ大衆文化の領域でオカルトが浮上してきます。そのエポックはおよそ3つ。
デニケンの宇宙考古学、五島勉のノストラダムス、ユリ・ゲラーのスプーン曲げです。
デニケンの『未来の記憶』が世界的なベストセラーになったのは、これも象徴的なことですが1968年なんですね。日本では翌1969年に早川書房から刊行されます。たしか新書版のハヤカワ・ライブラリ。ただ、デニケンが日本で脚光を浴びるのは70年代に入ってからです。1971年に『星への帰還』、1974年に『宇宙人の謎』といずれも角川文庫から刊行されました。当時の角川文庫は勢いがあったから、売れ方もちがうし話題にもなるわけです。『未来の記憶』もすぐに角川文庫に入ります。
五島勉の『ノストラダムスの大予言』は1973年の年末。ノストラダムスの予言自体は60年代に黒沼健なんかもよく紹介してたので、わしなんかはなんで今さらという感じだったけど、翌74年にはミリオンセラーになって、そのへんの道を歩いてる人は、デニケンは知らなんでもノストラダムスは知ってるというほどになります。
同じ1974年に畳みかけるようにユリ・ゲラー。
ユリ・ゲラーのスプーン曲げのテレビみて、「いや、僕も曲がりました」というので、関口淳君とか、今も活躍してる秋山眞人さんなどの超能力少年が出現します。
スプーン曲げというのは、ものすごくわかりやすいんですよ。見りゃわかるんだから。テレパシーなんかはわかりにくい。エクトプラズムをその場で吐き出すような奴がいればいいけど、なかなかそんな奴はいない。だから超能力少年、スプーン曲げは一挙にメディアを席捲します。
『週刊朝日』で、あれはトリックだという一幕もあったけど、ともかく人間には超能力いうもんがあるんちゃうか、ということを強く印象づけたわけです。
スプーン曲げが突破口を開いた感じで、この頃にはUFOもしきりに週刊誌やテレビで取り上げられるようになった。印象としては北海道が多かった。
北海道駒ヶ岳北麓の砂原町で大規模なUFOフラップ騒動があって、テントを張って観測するグループまで現れたり、函館の上空に卵形UFOが出現したというのでパトカーまで出動する騒ぎになったり、北檜山(きたひやま)で中学生が地上10メートルに滞空するUFOを見たという話もあり、北見市郊外の仁頃(にころ)で農業を営む藤原由浩という青年が小人宇宙人に拉致されて月まで行ってきたという仁頃事件がメディアをにぎわせました。藤原さんはコンタクトで超能力に目覚め、スプーン曲げもやっちゃうわけです。
この頃になるともう「空飛ぶ円盤」ではなく「UFO」になります。1975年にはデニケンが来日し、ブームはピークに達します。それまで堅気の人はUFOなんて知らなかったのが、76年にはカップ焼きそばになり、77年にはピンクレディーの歌になる。
大陸書房がはじめて出現した町の電気屋だとすれば、デニケンの角川書店やノストラダムスの祥伝社はいわば量販店です。70年代の前半になるとオカルトは文庫や新書の格好のテーマとなり、ポピュラリティを獲得していきます。74年に南山さんが訳したチャールズ・バーリッツ『謎のバミューダ海域』も徳間の新書でした。
オカルトという言葉が使われるようになるのは、1973年にコリン・ウィルソンの『オカルト』(新潮社)が翻訳されベストセラーになってからですね。
コリン・ウィルソンは若干25歳にして『アウトサイダー』でデビューしたイギリスの実存主義系の若手作家として知られていました。なんでそれが今度はオカルトやねんという話題性もあって『オカルト』は世界的にベストセラーになります。
『アウトサイダー』は日本でも1957年に福田恆存訳で刊行されてました。サルトル『嘔吐』、カミュ『異邦人』、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』にはじまり、ゴッホやらニジンスキーやらをめぐって、ああでもないこうでもないという、まあ文学青年の読むような難しい系の本でしたが、実は最後のほうでウィリアム・ブレイク、ラーマクリシュナとならんで、アルメニア生まれのオカルティストのグルジェフについて希望的に語られていました。
だから、最初からコリン・ウィルソンにはその気はあったともいえるのですが、当時の日本語訳ではグルジェフはグールドジェフになっていました。50年代の日本ではグルジェフなんて誰も知らんわけです。だからGurdieffをどう読むかすらわからないし、そもそも『アウトサイダー』は明晰な本じゃないですから、読んだ人も「これ誰?」とも思わなかったんでしょう。
ともあれ『オカルト』は日本でも話題になりました。これがちょうどよかったわけです。70年代に入って、いろんなわけのわからんもんが出てきた。本来は予言、スプーン曲げ、ピラミッド、UFO、UMAみんな別のもんなんですが、そういうのを全体をひっくるめた言葉があったら便利やんというところで、この頃から「オカルト」という言葉が使われるようになったわけです。
オカルトというのは「隠されたもの」いうのが原義で、コリン・ウィルソンが論じたのは人間にはまさに「隠された能力」があるという、そういう意味だったわけですが、わけのわからんもん、不思議な現象はひっくるめてオカルトと呼ぼうとそういう具合になったわけです。
コリン・ウィルソンというちょっと知的な作家が書いたというのも都合よかった。メディアで仕掛けるほうにしても、おお、あの『アウトサイダー』のコリン・ウィルソンがというので、わしら時代の最先端やんけ、どんどん行ったろやないけ、トンヤレ、トンヤレとなったわけです。
こうして1960年代は『不思議な雑誌』だったのが、1976年になると『オカルト時代』というタイトルの雑誌まで登場することになるわけです。
では、日本の超古代史関係、『竹内文献』や『秀真伝』、日ユ同祖論といった領域はどうだったのかというと、そういう領域は1960年代には一般的にはほとんど知られていませんでした。もちろんガチな人たちのグループはずっとあったわけですが、そんなものはふつうには知るすべとてない。それこそ隠されたもの=オカルトとしては表層には出てこなかったわけです。
それが70年代になると少しずつ浮上してきますが、その背景として古代史ブームがあったと思います。ブームの発端はたぶん1967年に宮崎康平の『まぼろしの邪馬台国』という本がベストセラーになったあたりからかな。
その頃は古代史そのものにそれほど興味があったわけではないですが、古田武彦『邪馬台国はなかった』(1971年)はよく覚えています。タイトルに釣られて、邪馬台国みたいなもんは存在しなかった、みんな嘘やという話かと思うたら、なんのことはない邪馬台国ではなく邪馬壱国だという内容だったので少しがっかりしたものの、よく読むと倭人は南米まで行ってた可能性があるというので、「おお!」と思ったりしました。
それで同じ年に、林房雄の『神武天皇実在論』という本がカッパブックスから出ています。林房雄は戦前の日本浪曼派の作家で、1963年に『中央公論』に「大東亜戦争肯定論」を発表して物議を醸した人です。ですから、まあ普通の右翼本かと思ったわけですが、おっとどっこい非常に面妖なことが書かれていた。つまり神武天皇実在どころか、そのはるか以前まで日本の歴史は遡るということを『富士宮下文書』とか『上津文(うえつふみ)』を根拠に語っていたわけです。さすがにその頃はそんなもんは知らんので、目が点になりました。
林房雄は日本浪漫派の人です。日本浪漫派は実は戦時中に『九鬼文書』とか『竹内文献』を報じる人々をはげしく批判していました。だから林房雄が『富士宮下文書』を持ち出すのは本当はおかしいんです。一種の転向です。もちろんそんなことは数年あとになってわかったことです。
これとちょうどタイミングをあわせるかのように、大陸書房から鈴木貞一の『先古代日本の謎――神武以前の系譜を追う宮下文書』『日本古代文書の謎』が矢継ぎ早に出て、1972年には吾郷清彦『古事記以前の書』が出ます。こっちはウエツフミです。1974年には吾郷は霞ヶ関書房から『ウエツフミ要録』、1975年には同じく霞ヶ関書房から『ウエツフミ全釈』全5巻を出しています。
とはいっても、それはまだまだそんなには知られていない世界でした。70年代の前半にはオカルトは文庫や新書の格好のテーマとなり、ポピュラリティを獲得していきますが、日本の超古代史というのはまだきわめてマイナーな領域でした。しかし、わしはこれこそ本当のオカルトだろうと思ったわけです。
ちなみに『ウエツフミ全釈』を出版した霞ヶ関書房というのは大陸書房よりさらにマニアックな版元でした。オーナーがその道の人なんだよね。戦時中の1942年(昭和17年)に宮崎小八郎の『神代の文字』という、これはなかなか神代文字論史上の名著なんですが、そういう本を出していた。
エドガー・ケイシーをはじめて紹介したのも霞ヶ関書房で、1960年にJ.ミラードの『奇蹟の人――エドガー・ケイシーの生涯』を十菱麟訳で刊行しています。十菱麟というても知らん人が多いだろうが、父の十菱愛彦は、戦前は少しは名の知られた作家で、戦後はトービス星座と名乗り、西洋占星術の草分け的な存在になった人です。
十菱麟はインドネシアのムハンマド・スブーが創設したスブド同胞団と深い関わりを持った人物でした。スブーは24才の時に、とつぜん霊的な力が輝く光りの球として頭上に現われ、周囲を真昼のように照らしながら体内に入り、身体がはげしく振動するという体験をします。気功法とも似た一種の霊動法ですが、この体験をもとに彼はラティハンと称するエクササイズを編成します。
スブドは1954年に日本に伝えられます。スブドはグルジェフの弟子のJ.G.ベネットによって受容され、彼のConcerning Subudは『スブド――魂をゆすぶる力 二十世紀の奇蹟』というタイトルで十菱麟を含む共訳で1958年に理想社から刊行されています。しかし日本ではたいして広まらなかったようです。
十菱麟はスブドだけではなく様々な霊的団体と関わり、自らAZ道なるものを確立したと称していました。そして1961年に霞ヶ関書房から「AZシリーズ」と銘打った本を6冊も立て続けに書いています。
もちろんそんなことはリアルタイムには知りませんでした。さすがに11歳のガキには知りようがない。黒沼健や澁澤龍彦の本、『不思議な雑誌』は駅前の小さな本屋にもありましたが、霞ヶ関書房はもっとマイナーなので触れる機会がほとんどなかったわけです。
その霞ヶ関書房も大陸書房の出現に煽られるかのように1970年前後になると急速に浮上してきます。
たぶん1969年のベアード・T.スポールディング『ヒマラヤ聖者の生活探究』、リバイ・ドーリング『宝瓶宮福音書』あたりからです。『ヒマラヤ聖者の生活探究』はスピ系の走りみたいな内容で、スピ全盛の今でも人気があります。
霞ヶ関書房で注目されるのは、72年には浜本末造『万世一系の原理と般若心経の謎』、73年には岡本安出『日本とユダヤ合わせ鏡』『ヨハネ黙示録義解』、奥所一男『救世主の出現と地上天国』といった本が立て続けに出たことです。
これらは日本とユダヤ、聖書の関係やいわゆる言霊学を軸にして日本天皇が世界の救世主であると説く裏神道系のガチな内容の本でした。
相当にぶっ飛んだ妄想的な内容ですので、そんなに売れるわけはないのですが、70年代になると、そういうものすら大きな書店の店頭で目に触れるようになってきたわけです。さすがに町の本屋にはなかったと思いますが。
いずれにせよ、このあたりが「ガチとの遭遇」でした。
(続く)
(2020年4月8日記事を再編集)
武田崇元
古川順弘
宗教・歴史系に強い「ムー」常連ライター。おもな著書に『仏像破壊の日本史』『紫式部と源氏物語の謎55』、近刊に『京都古社に隠された歴史の謎』など。
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