アポロ17号の月面有人探査に「UFOが関わっていた」証拠画像! アルテミス計画を機に再注目/宇佐和通
半世紀ぶりの有人月面探査「アルテミス計画」が進行中の現在、かつてのアポロ計画の写真に再び注目が集まっている。その理由は――!?
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19世紀後半、アメリカ各地に謎の飛行物体が出没した。そして、ある秘密クラブのメンバーが残した膨大な数の奇妙な飛行物体のスケッチが明らかとなった。それらはUFOか、それとも謎の新兵器か? そんななか、飛行物体の墜落事故が発生する。ーーはたして秘密クラブとの関係やいかに⁉
目次
1896~97年当時のアメリカは、最新の科学技術がビジネスや家庭環境に変化をもたらし、世界に先駆け大きく「モダン」へと転換する時期にあった。電燈は暗闇を照らし、エジソンの蓄音機から流れる音楽が戸口から聞こえ、マーク・トゥエインは初めてタイプライターで原稿を書いた。大陸横断鉄道は3、4日の快適な旅で両海岸を結び、高層ビルが都市の光景を一変し、X線は新しい医療をもたらした。
「空」だけは未開拓の領域だったが、それでも近い将来、「空飛ぶ乗り物」で大空を安全に航行する日が来ると人々は確信していた。
正体不明の飛行物体の跳梁はそんななかで突然起こり、西海岸から中西部にかけての広範囲で数千、数万の人々がそれを目撃した。
最初の出現は1896年11月17日の夜、カリフォルニア州サクラメントでのことだった。その日は重い雲が垂れこめ、間歇的なスコールもあった。街路にはガス灯がともり、人々は家路を急いでいた。
午後8時ごろ、東の地平線低くに不思議な飛行物体が現れた。明るく強烈な光が、寒々しい夜空に対してくっきりとした陰影をなしていた。
それはゆっくりと町の上空を横切り、時おり市内のもっとも高いビルの上空数10メートルまで下降し、西の方へと去っていった。
たまたま屋外にいて観察した人々は、大きく黒い本体に極度に明るい発光体が吊り下げられているようだったと述べた。
多くの人々が物体の外観を葉巻型と形容し、何人かは巨大なプロペラがあり、下部の着陸装置に大きな梯子があったと証言し、ひとりは側面にフルトンの蒸気船のような車輪を備えていたと主張した。
詳細はまちまちだったが、問題の物体が、冷たい夜空を切り裂くかのように、強烈なサーチライト状の光で進路を照らしていたという点は共通していた。小さな望遠鏡で観察したある目撃者は、それは強力なアーク灯だと主張した。それは30分ほどで暗闇のなかに姿を消したが、数百人におよぶ目撃者のなかには州知事の補佐官も含まれていた。
それまでだれも夜空を堂々と横切る飛行物体など見たこともなかった。他に適切な表現もないままに、州のふたつの大きな新聞「サクラメント・ビー」紙と「サンフランシスコ・コール」紙はそれをairship=飛行船と表現し、無数の記事を発信した。
一方、何も見なかった人々は酩酊や薬物中毒のせいにし、当時の俗語で「おバカなトムの与太話」(tom foolery)と片づけた。
だが謎の飛行物体は、1週間後、再びサクラメントに出現した。
11月22日のサクラメントは1週間前と同じく、どんよりとして寒く、風はずっと強かった。
それは日没後まもなく北の空に現れ、強風にもかかわらず、風向きに逆らいながら町に近づいてきた。この日は日曜日だったので、前回よりも多くの住民が目撃した。目撃者のなかには、保安官の助手と地区の検事長もいた。彼らは飛行物体が30分かけて西の地平線に消えていくまで見守った。
その数時間後、謎の飛行物体は150キロ離れたサンフランシスコ上空に現れ、市長を含む数百人に目撃された。数人の目撃者は、海岸沿いの有名なクリフハウスレストランの上空で、それが地上に向けて強力なサーチライトを照射したためにアシカの群れがパニックになり海に飛びこんだと語った。
まもなく謎の飛行物体は、北はシアトルから南はサンデイエゴにいたる西海岸全域に頻繁に出没するようになる。たとえば、11月25日の夜だけでも、謎の飛行体は11の都市や町で目撃された。
12月になると目撃談はぱたりと途絶えたが、翌1897年2月初め、遠くはなれたネブラスカ周辺で目撃が報告され、4月になるとテキサス、オクラホマ、カンサス、ネブラスカ、ダコタなど中西部一帯で頻繁に目撃されるようになる。
4月5日の午後11時ごろ、ガスリーのアーリントンホテルのオーナー、トランボールは、町の上空を暗い物体が横切るのを見た。物体の前方からは強烈な光が発せられ、さまざまな方向を照射していた。トランボールはあわててまわりの人々に声をかけ、彼らは長時間にわたってそれを目撃した。形状は不明瞭だったが、物体は迅速に前進、後退を繰り返し、町の真北で地面すれすれまで降下したかと思うともの凄いスピードで上昇し夜の暗闇に消えていった。
これ以降、テキサス州にかぎっても、4月14日はダラス以下4か所、15日にはグリーンビル、テキサスカナなど11か所、16日にはダラス他の26か所、18日には8か所、19日には12か所といった具合に頻繁に目撃された。
しかし、4月下旬には目撃は数えるほどになり、5月12日にテキサ州フォートワースでの目撃を最後に途絶えた。
一般には、これらの目撃談は当時の新聞のセンセーショナリズムの副産物で、そもそも謎の飛行物体など存在しなかったと説明されることが多い。
いったん「謎の飛行物体を見た」というニュースが報道されると、大衆はその実在を信じ、目撃を待望するようになり、その結果、分別のある数千人がありもしない「飛行物体」を目撃し、それがまたニュースに反映されるキャッチボール状態になったというわけだ。
だが、虚偽のニュースに触発されたとしても、10人やそこいらならともかく、数千人もの人が存在もしないものを見た気分になり、目撃を主張するというようなことがありえるだろうか。しかも記事の大半は実名報道で、そこには上院議員、判事、保安官、市長、弁護士、医師などの名士たちが多数含まれていたのだ。
もちろん目撃談のなかに虚偽が混入していたことは疑う余地はない。一連の騒動に便乗して、退屈した住民がホラ話をでっちあげ、怠慢な特派員が見出しを飾って報酬をもらうために、それと知りつつ配信した場合もあっただろう。
しかし、当時の新聞社が誤報に神経を使っていたこともまた事実である。
「ダラス・モーニング・ニュース」紙の4月20日号には、R・N・バット氏からのクレームが掲載されている。彼は数日前の記事に目撃者のひとりとして名前が挙げられていたが、「自分は何も見ていない」と抗議してきたのだ。このように当時の新聞社は誤報に対する指摘や抗議があれば、むしろ現代の新聞よりも、対応が早く誠実だったことは注目される。彼らは無責任に火のないところで煙を煽っていたわけではないのだ。
疑わしい記事をすべて排除したとしても、合衆国の約半分の領域で何かが空を飛んでいたことはまず否定できないのである。
では、いったい何が飛んでいたのか。
これについてはふたつの仮説がある。
ひとつはいわゆるUFO現象との共通性に注目し、外宇宙から飛来したとする説、ひとつは時代に少しさきがけて開発された「飛行船」だったという説である。
いまのところ、後者の「飛行船」説が有利な状況にある。
報告された物体の推定速度はおおむね時速15キロから50キロ程度というUFOらしからぬ数値が多く、輪郭まで判別できたとする目撃例は、葉巻型の浮遊嚢の下部に本体部が装着された飛行船型を連想させるものが多かった。とくに4月11日にシカゴ郊外に出現したときは、珍しく早朝で、目撃者の証言によるイラストは明確に飛行船の形状で描かれている。
ただし、空を飛ぶ物体を見たことがなかった当時の人々にとっては、すでにプロトタイプとしてよく知られた飛行船の形態というゲシュタルトでしかそれを認識できなかったという可能性も頭の片隅にとどめておく必要はある。後述するが、明らかに飛行船とは矛盾する報告も存在するからである。
もちろん、飛行船であったとしても、大きな謎であることには間違いない。飛行船は両端が細くなったエンベロープ型の気球に箱をぶら下げるだけなので、飛行機に比べて簡単に造れるように思われがちであるが、実はそうでもない。
推進力がなければそれはただの風船にすぎない。1883年にフランスで電気モーター搭載の飛行船が試作され、時速22キロ、往復8キロを記録したが、航続距離をのばすために大容量の蓄電池が必要だった。
そこでガソリンエンジンが注目されたが、水素ガスを満載する飛行船にガソリンエンジンを積むのは、爆弾が爆弾を積んで飛ぶようなもので、1897年になってもまだ試作機はたいてい爆発した。
問題は動力だけではない。高度が高くなると気圧の関係で水素が膨張し、破裂の恐れがあった。そこで水素を放出すると、下降時に収縮してバランスが崩れ、これまた事故につながることになる。
さらにそもそも風船まがいの構造では悪天候の気流に耐えることは困難であった。そこで新開発のジュラルミンで船体を組み立てる硬式飛行船というアイデアが生まれた。ハンガリーでそれが試作されたのは、ようやく1897年11月のことだったが、高度400メートルまで上昇したところで、駆動ベルトにトラブルが生じ大破した。
当時の飛行船開発はそんな段階だったので、謎の飛行物体が「飛行船」であったとしても、それは十分に謎ではあった。
ただ一方で、遅々とではあるがその完成が目前だったことも事実であり、目撃談そのものをホラ話という懐疑論者をのぞいては、当時から問題の飛行物体は天才発明家による「飛行船」という見解が主流をしめていた。
これらの騒動に関連して、飛行物体の乗員とコンタクトしたという報告もあった。それによれば、彼らは明らかに人間というかアメリカ人であり、英語を喋り、名前を名乗りさえした。
テネシー州チャタヌーガでは数人の市民が、山あいに着陸中の飛行船の傍らで作業中のふたりの男性と出会う。彼らは「故障で地上に停泊中だ」と説明し、ひとりはチャールズ・デビッドソンと名乗ると、「1か月前にサクラメントを去り、国中を旅行中だ」と語っている。
テキサス州ロックランドのジョン・バークレーは、外でブーンという音が聞こえ、犬が吠えるので、ライフルをつかんで飛びだした。巨大な物体が農場の上を旋回していたが、すぐに牧草地に着陸した。物体から約50メートルのところで、彼は「普通の人間」と出会った。その人物は害意はないので銃を横に置くように頼み、潤滑油とノミと青石を欲しいといって、代金を支払った。ジョンが物体に近づくのを男は遮ったが、いつか戻ってきて乗せてやろうといった。飛行船はまるで銃弾が飛びだすように飛翔した。
もっとも注目されるのは、1897年4月19日早朝、テキサス州ステファンビルで裁判官、上院議員、地区検事を含む著名な名士たちが、修理のために着陸中の飛行物体の搭乗員と接触した事件だ。
彼らが修理作業中のふたりの搭乗者に話しかけると、S・E・ティルマンとA・E・ドルバーと名乗った。ふたりは目撃者たちが物体に近づくのを拒否したが、「ニューヨークの資本家」が資金を出していて、空を旅することがまもなく当たり前になるといって船に乗りこんだ。そして驚愕する目撃者たちに「アデュー」と挨拶しながら飛び去ったのだ。
1896年晩秋、西海岸で目撃があいついだときには、奇怪な幕間劇が演じられた。
11月21日、サンフランシスコの著名な弁護士ジョージ・コリンズが、飛行物体の発明者は彼のクライアントであるとサンフランシスコ・クロニクルに名乗りでたのだ。コリンズによれば、発明者は「E・F・ベンジャミン博士」という資産家で、約15年間「空飛ぶ機械」の研究を続けてきたが、衆目の目からその画期的なアイデアを隠すために7年前にメイン州からカリフォルニアにやってきた。
「ベンジャミン博士」は警戒心が強く、発明の核心が特許庁経由で盗まれるのを恐れて、まだ特許は申請していないが、これから自分が代理人としてことにあたるとコリンズは見得を切った。
コリンズは詳細を語ることは許されていないといいながらも、よく喋った。飛行船の部品は東部から送られ、オーロヴィルの秘密基地で組み立てられた。エリス街に住む身長180センチ、年齢40歳の歯医者がクライアントだ。彼はオーロヴィルに親戚がいて……。
たしかにエリス街には歯科医のベンジャミン博士がいたが、自分は飛行船の発明者ではなく、コリンズには入れ歯の特許を依頼しているだけだと記者に語り、コリンズはコリンズで、自分の話は「クロニクル」紙の記者の勘違いだといいはじめた。
11月23日、ベンジャミンはしばらく留守にすると下宿屋に伝言して町を出て行く。そこへ州の司法長官まで務めたウィリアム・ハートという大物弁護士が登場する。11月25日、ハート弁護士は、コリンズは喋りすぎで解任され、自分が代理人になったと「コール」紙に語る。
しかし、ハートも妙なことを喋りはじめる。真の発明者は「カトリン博士」で、ベンジャミンはその助手にすぎない。飛行船は2機あり、それぞれ東部と西部で開発された。両者はその設計の点で補完的な関係にあり、その利害を統合するのが自分の役割だ―—。
さらに数日後、ハート弁護士は、新しくも画期的な軽量バッテリー(彼はそれを「ファーゴバッテリ」とよんだ)の件で東部に出張し、東西の利害をより強固なものにするように助言してきたと語る。
しかし、しばらくすると、ハート弁護士はかたく口を閉ざし、何も語らなくなった――。
このドタバタは何だったのか。有名な大物弁護士ふたりが、新聞の一面を自分の名前で飾るためだけに嘘をいうとは思えない。しかし彼らはなぜ、ぺらぺら喋ったかと思えばすぐに前言を翻したり、突然沈黙したりしたのだろう。今のところ、これに対する合理的な説明はないのだ。
とくに奇妙なのは、コリンズ弁護士の飛行船に関する発言である。
彼が実見した飛行船は全長50メートルで15人の乗客を搭載できた。動力源は見あたらず、50センチ幅の布製の翼があり、舵があった。
上昇するにつれ翼はゆっくりと上下に羽ばたき、風に向かうときには少し早くなった。100メートルほど上昇すると下降をはじめた。80メートル径の円を描きながら、地上10メートルまで徐々に径を狭め、木の葉のようにゆっくりと着陸した。
問題の物体が「飛行船」であるならば、「翼」は余分である。仮に「飛行機」であったとしても、「翼」をはばたくことはありえない。しかし目撃報告を詳細にチェックすると、問題の物体に「翼」があったという例はけっこう多い。
さらにコリンズ弁護士は、彼のクライアントは「マキシムとラングレーのアイデアを放棄し、まったく新しい理論にもとづく飛行機械を作った」と語っている。マキシム機関銃の発明者ハイラム・マキシムと天文学者ムサミュエル・ラングレーは、後にライト兄弟にお株を奪われる「飛行機」の実験開発で知られていた。
コリンズの依頼人が開発していたのが「飛行船」だとすれば、この発言は奇妙だ。飛行船は飛行機に対して「まったく新しい理論」によるものではなく、むしろ「古い理論」によるものだからだ。
ここで、われわれは素朴な疑問にたどりつく。
謎の飛行物体は本当に「飛行船」だったのだろうか? それは「飛行船」に類似した、何かべつの物体ではなかったのか?
ここに一連の奇妙な絵がある。
画家の名前はチャールズ・デルショー。彼は飛行船騒動の翌年、1899年に60歳で引退し、テキサス州ヒューストンの屋根裏部屋に引きこもり、1923年に没するまで、奇妙な「飛行船」を主題とする色彩豊かで複雑なイメージに満ちた作品を描きつづけた。
13冊の大きなスクラップブックに綴じられた水彩画とコラージュからなるその作品群は、1968年に古物商フレッド・ワシントンがヒューストンのゴミ集積所から発見しなければ、永久に人目に触れることはなかっただろう。
1969年5月、聖トマス大学での展覧会「空は極限」ではじめて公開されたデルショーの作品は、大きな反響をよんだ。
デルショーが描いた「空飛ぶ機械」は、滑車、ワイヤロープ、ベルト装置、車輪のような奇妙なイメージに満ちている。実際、一般にはデルショーはアメリカの初期の幻視的アーティストの一人であり、アウトサイダーアートの先駆者と評価される。
だが、イラストレーターのピート・ナヴァロは、デルショーの不思議なタッチに深く魅惑されると同時に、彼は何を描きつづけたのかという素朴な疑問にとり憑かれたのだ。ナヴァロは、デルショーの残した13冊のノートのうち9冊を高額で買い取り、残りも他の所蔵者から書写することを許された。
絵はランダムに綴じられたものではなく、ある物語を構成していた。それは絵と文章、さらに数字や装飾文字、絵文字などのシンボルが配された暗号文書だった。ナヴァロはそれを解読し、その背後にある驚くべき物語を再現する。
一連の絵の主題は、デルショー自身がそのメンバーであった「ソノラ飛行クラブ」の物語であった。
1850年代に、デルショーを含む約60名がカリフォルニア州ソノラに集まり、飛行マシンを設計し、ソノラの近くのコロンビアの原野で実験を繰り返した。
ソノラ飛行クラブは秘密結社で、メンバーはその活動について話すことは固く禁じられた。クラブには数台のマシンがあったが、個人的目的のために使うことは厳禁で、マシンでひと儲けしようとしたヤコブ・ミッシャーは空中爆発で死んだ。デルショーはそれが殺人だったことを匂わせる。「高い教養のある整備士」ガスタフ・フライアーは、喋りすぎを規律違反に問われ、行方不明になった。
クラブは「NYMZA」とイニシャルで表記される高位の秘密結社の下部組織で、デルショーはクラブの活動を監督する無名の上司からの命令が存在することについてほのめかしている。
デルショーによればこれらのマシンは、「スープ」とよばれる燃料によって飛翔した。「スープ」はアエロ・グース号のパイロット、ピーター・メニスによって開発された魔術的な液状物質で、船の車輪、側面の外輪、圧縮器モーターを駆動するとともに、そこから発生するNBガスは反重力的な性質を帯び、水素よりはるかに少量で強力な浮遊力を得ることができた。
デルショーの飛行物体に描かれるガス袋は不釣り合いに小さく、それが水素やヘリウムであれば、とうてい全体を持ちあげることはできないのだ。
1862年にメニスが死ぬと、「スープ」の製法がわからなくなり、クラブはいったん解散する。
しかしナヴァロによれば、トッシュ・ウィルソンというメンバーが7年かけて「スープ」の製法をつきとめ、実験を開始する。
ナヴァロの推理によれば、1897年の飛行船は、トッシュ・ウィルソンを中心とするソノラ飛行クラブの残党による実験だった。
ちなみに「ウィルソン」という名は飛行船騒動に暗号のようにしばしば登場する。
サクラメントで最初の目撃があった日、「ビー」紙はニューヨークの「ウィルソン」という人物から電報で、飛行船が完成したので20日までには友人とカリフォルニアに行くと伝えてきたことを明らかにした。さらにその電報には、飛行船の装置は光とパワーを供給する驚異的な仕掛けだと書かれていたという。
また1897年4月26日のサンアントニオ・デイリー紙は、情報源を明らかにしないまま、ヒラム・ウィルソンなる人物が飛行船の発明者であると報じた。
もちろん、ソノラ飛行クラブが1896~7年に出現した謎の飛行物体と関係があるのかどうか決定的な決め手はない。また、デルショーの物語が彼の脳内の産物ではないという証拠もない。
しかし、懐疑的な立場からデルショーの物語と足跡を分析した美術研究家のウィリアム・ステーンはこう語る。
―—証拠はないが、詳細なディテールを知れば知るほど、彼の物語は事実であった可能性を強く感じる。それは幻想的であったとしても、単なるお伽噺以上の何かには違いない―—
ソノラ飛行クラブの残党が関与していたという仮説は、飛行船の発明者をめぐる錯綜した情報やサンフランシスコの弁護士たちのドタバタになんらかの説明を与えることができるかもしれない。
またそれは、謎の飛行物体が単なる飛行船ではない可能性を強く印象づけるいくつもの目撃談と微妙にフィットすることもたしかだ。
たとえばテキサス州ロックランドのジョン・バークレーは、着陸していた飛行船が「まるで銃弾が飛びだすように」飛翔したと語り、ガスリー市のアーリントンホテルのオーナーは、物体が迅速に前進、後退を繰り返し、地面すれすれまで降下したかと思うともの凄いスピードで上昇し夜の暗闇に消え去ったと語っている。
一般的には物体の時速は30キロから50キロという報告が多かったが、なかには時速200キロという報告もいくつかあった。
リオグランデ鉄道のクレッソン駅の駅員たちは、その形状を「翼があり、蝙蝠に似ていた」と語り、「長さ60フィートで物凄い速さで南西に飛んでいった」「駅の上空を2マイルほど過ぎてから突然方向転換して、南東に向かい数分間で彼方に消えた」と報告した。
興味深いのは、飛行体の側面にフルトンの蒸気船のような車輪があったという目撃例がかなりあったという事実だ。これはデルショーのイラストに奇妙に付合する。
さらに、とくに近い距離からの目撃例に共通するのは、問題の物体の前方からサーチライト状の強烈な光が照射され、しかもそれが上下したという点にある。これもデルショーのイラストと一致するのは、はたして偶然なのだろうか。
1897年4月19日の「ダラス・モーニング・ニュース」が、4月17日オーロラ発、S・E・ハイドンの署名記事を掲載した。その日の朝6時ごろ、話題の飛行物体が、地上すれすれを飛行しながら徐々に高度を下げ、町の北側のプロクター判事の風車に激突し、粉々になるのを早起きした住民たちが目撃したというのだ。いまでいうオーロラUFO墜落事件である。
記事によれば、残骸の中から発見されたパイロットの遺骸は損傷していたが、「この世界の住民でないことは明らかだった」という。また遺骸の近くには、航行記録と思われる未知の象形文字が記された紙片があった。飛行船は大破したので、その構造や推進機関は不明であるが、アルミニウムと銀の合金に似た未知の金属で造られ、総重量は数トンにおよんだ……。
この事件は一般的にはフェイクとされている。まず怪しいのは続報が一切なかったことである。事実、1960年代のUFOブームの最中に再発掘されるまで、この記事のことは忘れられていた。
一般的な説明はこうだ。
―—当時、人口3000のオーロラは、害虫のために主産業の綿花が壊滅的打撃を受け、期待された鉄道計画が中止という瀕死の状態にあった。そこで世間の関心を町に向けるため、ハイドンは話題の飛行船騒動に便乗して墜落事件を捏造した―—と。
実際、60年代後半に事件を調査した郷土史家エタ・ペギューは、そもそもプロテクター判事の地所に風車はなかったと断定し、当時10歳だったロビー・ハンソンは「その日はいつものように学校に行きました。何も起こりはしませんでした」と証言した。
ところが、この事件は意外と奥が深い。1973年にUFO調査団体MUFONのビル・ケースは、ふたりの証人を発見した。
91歳のメリー・エヴァンスは、当時15歳だった。彼女は、両親は墜落現場に行ったが、危険だからと自分は留守番を命じられたことをはっきりと記憶していた。またチャーリー・ステファンスは当時10歳だったが、何かが町の北の方へ煙を吐きながら飛んで行くのを見た。彼は外に出て追跡したかったが、父親に家事を片づけるよういいつけられており、翌日になって町まで出かけ、残骸を見た。
ケースはオーロラ墓地で、飛行物体を暗示する小さな墓標も発見している。その場を金属探知機で調査すると反応があり、発掘を申請したが墓地当局に拒否された。その後、謎の墓標は消え去り、金属探知機の反応もなくなったことから、だれかが墓地から大量の金属片を運びだした疑いが持たれた。
ちなみにオーロラ墓地は、フリーメイソンの管理下にある。
1945年にプロテクター判事の土地を購入したブラウリー・オーツは井戸水を飲料にするために、井戸の底にあった金属の破片を除去したが、やがて彼は手の先が変形する奇病を患い、井戸をコンクリートのスラブで覆い、その上をさらに建造物で覆ってもいる。
奇妙な「状況証拠」は、いくつも見つかっているのだ。
最近では2008年11月にヒストリー・チャンネルの「UFOハンター」が、この事件を取りあげた。制作には有名な考古学者ガース・ボールドウィンが協力した。番組にはプロテクター判事の地所の新しい所有者ティム・オーツ(ブローリー・オーツの甥)が登場し、自分の子供が拾ったといういくつかの溶けて変形した金属片を提供した。
番組がそれを北テキサス大学の研究室の持ちこみ、分析を依頼したところ、アルミニウムと少量の鉄の合金であることが判明した。このような合金は当時は存在しなかったし、現在でも一般的ではなく、原子炉の燃料被覆材料として使用されているのみである。
また、事故現場の近くの樹齢200歳の樫の木を金属探知機で調査すると、強い反応があることも確認された。
番組はティム・オーツの許可を得て井戸の封印を解いた。金属片はなかったが、ブローリー・オーツの息子は父が井戸から金属片を除去したと証言した。井戸からサンプリングした水からはハイレベルのアルミニウムが検出された。
さらに井戸の周囲の表土を除去する際に、風車小屋の基礎が発見され、「プロテクター判事の地所には風車はなかった」とする郷土史家エタ・ペギューの説が覆されたのである。
以上の事実は、1987年4月17日に、オーロラで実際に何かが起こったことを強く示唆する。
この事件は、しばしば謎の飛行船が地球外から来たという説の根拠とされるが、パイロットの死体がETだったかどうかは疑わしい。前述のふたりの証人も、衝突事故については覚えていたが、搭乗者の死体については何も語っていない。1970年代の初期に匿名を条件に取材に応じた別の老人にしても、「父に連れられて墜落現場に行ったが、宇宙人の死体という話は聞いたことがない」と語っている。
当時、オーロラ周辺では無数の目撃報告があった。テキサス州北部だけでも、衝突事件があったとされる前夜に約30件の報告があった。だから、それに便乗した虚報だという見方もできるが、はたしてそうなのか。
前述したように、衝突があったとされる同じ日の早朝には、オーロラの南方100キロのステファンビルで、応急修理で着陸中の飛行船とその搭乗員に町の名士たちが接触したという事件があった。その同じ飛行物体がトラブルを修復しきれずにオーロラで墜落したというのは、もっともありそうなストーリーである。
そして謎の飛行体が秘密結社ソノラ飛行クラブの残党によって開発されたものであったとすれば、彼らは故意にパイロットがETだという情報を流したうえで、ハイデンに続報を発信しないように仕向け、事件全体の虚報化をはかったのかもしれない。
ただし、ソノラ飛行クラブとその上部組織NYMZAが、本当の意味でこの地上の者たちであったかどうかはわからないし、謎の飛行物体をめぐるあまりにも錯綜した謎は、それが異世界からの欺瞞に満ちた干渉だった可能性を感じさせずにはおかないこともまたたしかである。
武田崇元
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