タイ「幽霊島=ゴ・ピー」で女の霊が岩場を駆ける……衝撃の現地ルポ/髙田胤臣

文・写真=髙田胤臣

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    タイの中でも日本人密度が高い街、シーラチャーの沖に、「幽霊島」と呼ばれる島がある。観光地の近くでありながら、上陸する者は少なく、その歴史は地元でも知られていない。 タイ在住の筆者が、「なにもない」幽霊島へ上陸。そこにあったのは、知られざる島の歴史と、怪奇譚だった……。

    シーラチャー沖に浮かぶ幽霊島

     東南アジアの一国ながら、日本人長期滞在者が世界の国々の中で4番目に多い国がタイ王国である。その中でも東部の港町シーラチャーは、日本人学校の分校ができるほど日本人居住者が多い。首都バンコクよりも日本人の密度が高いのではないだろうか。
     そんなシーラチャーの沖合に、地元民たちが「ゴ・ピー」と呼ぶ島がある。ゴ・ピーとは幽霊島という意味だ。

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    船から見たゴ・ピー(幽霊島)。

     この幽霊島の近くには観光地として人気の「シーチャン島」がある。かつてタイの王族が使っていた別荘もあり、島内にはおよそ6000人程度の住民もいる。ゴ・ピーは面積が小さいとはいえ、かつて人が住んだことのない島だ。ここがなぜ幽霊島と呼ばれ、有名な心霊スポットになるに到ったのか。現地に足を運んでみた。

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    高層ビルまで建ち始めているシーラチャーの街並み。

    「なにもない。行っても無駄」

     シーラチャーはバンコクから車でおよそ2時間弱の距離にある。タイ東部は日系企業も拠点を置く巨大な工業団地が複数集まっている。シーチャン島の真東にはレムチャバン港という、タイで最も物流量のある国際貿易港があるためだ。
     そんな企業に勤める日本人が多数暮らすこともあり、バンコクからシーラチャーへの行き方に不自由はない。
     問題はその先である。無人島のゴ・ピーへは船がない。
     以前はシーラチャーの船着き場にチャーター用モーターボートがあった。これに頼めば行けると期待したものの、シーズンを外れていたのか、法的に運用が認められなくなったのか、その姿がなかった。
     シーラチャーからシーチャン島へは朝から日没ごろまで、1時間に1本程度は定期便が出ている。まずはシーチャン島へ渡り、地元漁師に頼んで連れて行ってもらう作戦に出た。

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    この木造船がシーチャン島への定期船だ。

     島の位置関係は、シーチャン島がシーラチャーから直線距離で12キロほどで、中型木造客船で1時間かかるかかからないか。ゴ・ピーは、シーチャン島の東側に寄り添うように浮かぶ「ゴ・カーム・ヤイ(カーム大島)」の兄弟島で、実際の名称は「ゴ・カーム・ノーイ(カーム小島)」という。シーチャン島から見るとシーラチャーの方向、ちょうどカーム大島の裏側に位置する。

     まだ午前中の早い時間帯で、心霊スポット巡りに似合わないほど晴れた空から、肌に痛いほど陽が照りつけてくる。キラキラと水面が光る沖合にゴ・ピーが見え、続いてカーム大島の横をすり抜けてシーチャン島へと到る。航行中、乗船客のほとんどがゴ・ピーの存在に目もくれない。
     シーチャン島の港にはバイクタクシーや乗り合いピックアップトラックが観光客を待ちかまえていた。強引な誘いを断り、港にある観光案内事務所に立ち寄る。

    「カーム小島に行きたいんだけど」
     観光事務所にはふたりのタイ人女性がいたが、ふたりとも意味がわからないという顔をする。
    「なにしに行くの?」
     立ち入り禁止の島なのか。タイには環境保護のために山林や海などを立ち入り制限にすることがよくある。無駄足か。ボクは落胆した。
     しかし、そうではなかった。単になにもない無人島なので、見るものはないという。幽霊島と聞いていると言っても、「幽霊はいない」と返される。
    「とにかく、ゴ・ピーなんてなにもない島よ。行っても無駄」
     そうあしらわれるだけだった。

    赤いなにかと人影

     定期船の船着き場は漁港も兼ねていて、磯臭い港に小さな漁船が複数停泊している。そこにいた年老いた漁師に声をかけた。
    「ああ、連れて行ってやるよ」
     拍子抜けするほどあっさりと承諾された。風が吹けば転覆してしまいそうな小さな漁船で、我々はゴ・ピーに向かった。向かい風で船足は遅く、シーチャン島から30分もかかる。
     ゴ・ピーに船着き場はない。船頭は「砂浜に船を着けるから飛び降りろ」と言った。帰るときは携帯電話にかけてこいと叫び、ボクを残して去って行った。

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    漁船が着いた砂浜。
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    管轄の郡役場が設置したと見られるカーム小島の紹介。

     相変わらず陽差しが強く、荒れた海面が砂浜に押し寄せてくる。人の手が入っていないので、満潮でも潮が上がってこない水際ギリギリまで植物が自生していた。砂浜には流木と漂流してきたゴミが打ち上げられ堆積している。
     なにか「ゴ・ピー」と別名がついた由来はないか、周囲を散策する。
     地図上では外周およそ600メートルだ。探し始めてすぐ、その答えの一部がみつかった。朱色の人工物がそこにあった。

     それは墓石だった。
     植物に邪魔されずに見える範囲には5、6人ほどが埋葬されている。墓標は漢字だ。海南省出身中国人、タイ華人の墓で、2008年7月という日付もあり、比較的新しい墓のようだった。
     純粋なタイ人――国籍ではなく民族としてのタイ人は墓を持つ習慣がない。タイ華人は1800年代から第2次世界大戦後までタイ政府が採っていた同化政策によりタイ文化に習合している。しかし、中国系移民1世2世は中国式の習慣がまだ残り、墓を作ることもある。ただ、タイは全土的に墓地や霊園が少なく、華人などは特定の場所に埋葬するしかない。ゴ・ピーはそんな場所のひとつなのだろうか。

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    タイ華人の墓があった。

     砂浜のところどころに、小高い丘になった島の中心に入れそうな箇所があった。分け入ってみるも藪は険しく、虫やアリの大群がそこら中にいて、全貌を見るには困難が伴う。いずれにしても、少し上ってしまえば、すぐさま反対側に出てしまうほど林も小さい。
     下船した砂浜と反対側の海岸は岩場だった。シーチャン島やカーム大島から見て反対側で、この海岸から9キロ先のシーラチャーの街までただ海原が続くだけだ。視界が広い分、照る陽は同じであるものの、妙に涼しい気がした。

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    ゴ・ピーから眺めるカーム大島。

     岩場をぐるりと進むと、ほぼ元来た砂浜の辺りに戻る。ボクはドキリとする。そこに人影があった。

     それは霊ではなく、タイの釣り人たちで、朝から夕方まで魚を釣って帰るのだと言う。この島が幽霊島として有名な心霊スポットであることを知って来ているのかと訊ねた。

    「ゴ・ピーと呼ばれていることは知っていますが、心霊スポットなんて初めて知りました」

     彼らは元々は東北部の出身で、仕事でシーラチャー近辺に暮らし、休みの日にこうして釣りに来る。ネットでは最高の釣り場としてカーム大島と小島は人気スポットになっているので来たそうだ。
     結局1時間足らずでひと通り見てしまったので、ボクは船頭に電話をかけた。

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    釣り人の先にレムチャバン港が見える。

    地元民も歴史を知らない

     砂浜から靴を濡らしつつ船に這い上がる。シーチャン島に戻る船内でゴ・ピーについて船頭に話を聞く。

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    漁船が今にも転覆しそうな状態で迎えに来る。漁船の船頭にも話を聞いた。

    「もう50年シーチャン島に住んでいるが、ゴ・ピーには人が住んでいるのを見たことがない。今はほとんど使われていないが、昔は墓場だったんだ」

     ゴ・ピーは直訳すると「幽霊島」だ。ゴが島であり、ピーが幽霊や心霊を意味する。タイ人も日本人に負けず劣らず怪談が好きで、ピーは盛り上がる話のタネのひとつだ。
     タイは国民の95%ほどが上座部仏教の信者とされるが、それ以前は精霊信仰があった。そのため、タイ人は今も万物に霊が宿ると信じていることもあり、ピー話が好きなのだ。

     このピーにはほかにも意味がある。万物に宿る霊は守り神でもあることから、という意味合いもピーにはある。さらに、人が死んだ先で浮遊するもピーであり、一方で器だった肉体もピーと呼ばれる。つまり、死体もピーと呼ばれることがある。
     ゴ・ピーは正確には幽霊島ではなく「死者の島」だった。タイ人も拡大解釈をして、噂が噂を呼び、幽霊島になったのだ。

     シーチャン島に着くと、船着き場にいた物売りたちが海産物や飲みものを売りつけようと近づいてきた。彼らにも話を聞く。年齢はみな中年以上といったところか。しかし、中にはゴ・ピーのことをまったく知らない人もいた。シーチャン島生活に最早ゴ・ピーは存在しないも同然のようだ。
     上座部仏教では遺体は火葬される。タイも法律が整ってきたこともあり、簡単に土葬できなくなったのもゴ・ピーが廃れた理由のひとつだ。

     帰りの定期船を待っていると、観光事務所の女性職員が話しかけてきた。
    「なにもなかったでしょう」
    「いや、赤い墓石があったよ」
     すると「墓石?」という顔をする。

     無人島という印象から、ゴ・ピーについての知識はなにもないし、調べるつもりもないようだ。若いその女性は赤い墓石の存在も知らなかった。それも無理はない。観光事務所にあったシーチャン島のガイドブックを見ても、カーム大島の記述はあるものの、カーム小島についてはほとんど書かれていない。むしろシーチャン島の歴史すら曖昧なもので、諸説ある状態が今も続く。

     シーチャンは元々「シーサン」という名称だった。カンボジア語説もあれば、最初の入植者が4人の中国人農夫だったことから、「4人の農夫」を意味するシーサンがシーチャンに訛ったともいわれる。ほかにはサンスクリット語説など様々だ。いずれにしても、いつ、誰がここに住み始めたのかすらはっきりしていない。アユタヤ王朝時代(1351~1767年)には人が住んでいた説もある。

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    島の奥へ入れそうな隙間があったが……。

     ゴ・ピーが墓として機能し始めたのにも諸説ある。タイ人が語るのは第2次世界大戦中の説だ。戦時中、アメリカ軍がシーラチャー沖まで迫り、ゴ・ピー周辺に停泊していた。この辺りは水深が深く、大型船舶が停泊しやすいのだ。この米海軍船の中にマラリアに罹っていた兵士が多く、死者もあった。そのときに無人島だったゴ・ピーに、米軍が死体を埋葬していった。これがきっかけだという。その後、マラリアがシーチャン島でも蔓延し、シーチャン島島民の死体がここに持ち込まれた。
     そして、いつしか墓を持つ宗教の人々の霊園のようになった。
     すなわち、中国系の住民と、イスラム教徒だ。中国系は墓石を立てるが、イスラム教徒は丘の上に埋葬して小さな墓標を立てるだけだった。今は完全に自然の木々があるため、ムスリム埋葬地は外観ではわからないが、ボクが分け入った小高い丘には死者が眠っていたのだ。

     一方で戦時説には疑問も残る。王族の別荘があったのは1800年代のころからで、すでに住民はいた。では、それまでの墓地はどうだったのか。ゴ・ピーを知る島民が言う。

    「確かに戦時中にマラリアで多数の死者が出たが、それ以前からゴ・ピーは墓地だった」

     いずれにしても、時代が変わり、勝手に死者を葬ることができなくなった。そうして、いつしかゴ・ピーは墓としての機能が薄まり、幽霊島として伝わるようになった。これもあくまでも怪談好きのタイ人が語るものなので、地元民の中にはゴ・ピーのことをすっかり忘れてしまっている人がいるのも無理はなかろう。

     この島に家族や親族を埋葬する人は今はいない。しかし、相変わらず死体は出るという。他殺体が捨てられるか、深夜にここで殺人が起こるためだ。死体の一部が時折シーチャン島に流れ着くこともあるそうだ。

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    陽差しは島のどの位置も強くて暑い。

    謎めいた歴史と、現在の幽霊譚

     ゴ・ピーにまつわる心霊の目撃情報があとを絶たないのも事実だ。

     島周辺を航行していた漁船から、誰もいるはずのない暗い時間に手を振る人が砂浜にいた、とか、たくさんの人が朱色の墓石のある砂浜からカーム大島に向かって泳いでいたなど枚挙に暇がない。

     また、近年ではあるタイ人俳優がセクシーな水着を着てポスター撮影をこの島で行った。その際、スタッフたちを運んできた船頭は「夕方6時にはここを出発する」ときつく言った。その船頭が砂浜についたとき、丘の上から嬉々として駆け下りてくる、この世のものではない若い女の姿を見たからだ。
     ゴ・ピーでやってはいけないことがある。いかなるものでも、ゴ・ピーのものを持ち帰ってはいけない。だが、この俳優は撮影場所できれいな石をみつけ、こっそりと持ち帰った。それが原因か、スタッフの数人が、まず帰るための乗船時に船から転落してケガをしている。さらに、バンコクに戻ってからも本人やスタッフに、まるで呪いがかかったように不幸が連続したそうだ。
     この一件は、撮影現場が若い女性の強姦殺人現場だったことが判明している。その怨霊が撮影チームを襲った、とタイ人たちはこの話を締めくくる。

     正確な位置はボクにもわからないが、実際に曰くの撮影ポスターを見ると岩場である。強姦が実行されたとなると人目につきにく場所だろう。
     とすれば、カーム大島とは反対側の海岸になる。つまり、そこはボクが陽差しを強く感じながらも涼しいと思った、あの岩場辺りなのである。

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    髙田胤臣YouTubeでのレポートはこちら

    髙田胤臣

    1998年に初訪タイ後、1ヶ月~1年単位で長期滞在を繰り返し、2002年9月からタイ・バンコク在住。2011年4月からライター業を営む。パートナーはタイ人。

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