初詣はいっそ南極へ! 実在した「したわし山皇大神宮」に伊勢神宮のお札が眠る/鹿角崇彦
明治時代、南極に「神社」ができていた?! あの南極探検隊のアナザーストーリー。
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かつて幻に終わった「1940年の東京五輪」を知る人は多いが、「1938年に催行された聖矛継走」をご存じだろうか。聖火のトーチでなく、聖なる矛が国土をつなぐ結界神事の史実がある。
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オリンピックといえば聖火リレーがつきものだが、いよいよ本日、聖火が日本に到着した。
近代オリンピック大会で初めて聖火リレーが行われたのは、1936年、ナチス政権下で開かれたベルリンオリンピックでのことで、五輪と聖火が切っても切れないものとして定着していくのはこの大会以降のことだ。2020年の東京五輪でも、ギリシアから日本にもたらされた聖火は、東日本大震災の被災地をはじめ、全国47都道府県をめぐることになっている。
ところで今から82年前、昭和13年(1938)の日本において、ある特異なリレーが行われていたことをご存じだろうか?
それは、伊勢神宮でお祓いをうけた7本の聖なる矛を東海道筋の神社に奉納しながら、東京・明治神宮を目指して500キロ超の長距離を継走(リレー)する……というもの。
スポーツとも、儀式とも、神事ともつかない大会、その名も「伊勢神宮−明治神宮 戦捷祈願聖矛継走」だ。
今ではほとんど知られなくなっているが、当時この大会は「聖矛継走」と呼ばれて新聞でも盛んに報じられていた。なにしろリレーには走者、伴走者だけで1万5千人もの国民が参加していて、この大会だけの特集号をつくった雑誌もあったほど。その記事からは走者の一団が行く先々で歓迎を受けていた様子もうがかえる。
継走は日本陸上競技連盟と大日本体育協会の共催で、その意味ではれっきとした「体育大会」だった。一方で、「戦捷(勝)祈願」という名前からもわかるように、大会は前年(昭和12年)に勃発した日中戦争(当時の日本での呼び方は「北支事変」)の勝利を祈願するという名目で行われたものでもあった。のちに「泥沼」といわれることになる日中戦争だが、この頃はまだ多くの国民が早期の終結を信じていた時代でもあったのだ。
しかし、伊勢神宮から明治神宮の間を、聖なる矛を携えて1万人以上の国民が疾走するという行為が、本当に「スポーツ振興」と「戦勝祈願」の意味しかないものだったのだろうか。目的に対して、規模や内容が不釣り合いに大きくみえてしまうのだ。そこには何か、隠された目的があったのではないか……。
当時の新聞や雑誌記事などから聖矛継走の様子を再現しつつ、その謎に迫ってみたい。
昭和13年(1938)11月4日、明治天皇誕生日として国を挙げて祝われた「明治節」の翌朝に、伊勢神宮内宮の神楽殿にはるばる東京から届けられた7本の矛が運び込まれた。
矛は全長約2メートル、矛先だけで6寸(約18センチ)あり、その付け根には立派な金蘭のヒレが下げられている。東京神田の神具職人が謹製したホンモノの祭具だ。
午前11時、陸連会長や宇治山田市長など名士列席のもと、神宮神職による矛の修祓(お祓い)が行われる。これで7本の矛は特別な「聖矛」となる。このうち1本はそのまま伊勢神宮に献納され、残りの6本は高々と天に掲げられ、継走の出発地となる宇治橋前に運ばれた。
ゴールの明治神宮に奉納する矛が正選士に、次の神社に奉納される矛が副選士にそれぞれ手渡されると、リレーは宇治山田市長が打ち鳴らす太鼓を合図に正午ぴったりにスタートを切った。宇治橋前には1000人を超える観衆が集まり、その様子はNHKラジオで全国生中継もされたというからその熱量が伝わってくる。
こうして始まった聖矛継走は、11月4日〜6日の3日間をかけて、540キロの道のりを昼夜ぶっ通し、文字通り不眠不休で走り通した。
聖矛が奉納される7つの神社とは、伊勢神宮、結城神社(津市)、熱田神宮(名古屋市)、三嶋大社(三島市)、鶴岡八幡宮(鎌倉市)、そして東京の靖国神社とゴールの明治神宮だ。
結城神社は、南朝の忠臣・結城宗広を祭神として創建された神社で、熱田神宮は草薙御剣を神体とする日本屈指の大社。三嶋大社、鶴岡八幡宮はいずれも源氏からもあつく信仰された武功の神として名高い。7社には戦勝祈願にふさわしい武神と、皇室ゆかりの神社がバランスよく選ばれていた。
概要や出発前後の様子をみるだけでもこれが普通のリレーでないことが感じとれるが、それは走者を「選手」でなくあえて「選士」と呼ばせているようなところからも伝わって来る。「選士」には選ばれた人というほかに、古代大宰府で国防の任にあたった兵士という意味もあるのだ。
また、正副選士が持つ2本以外の矛はバスに載せて運搬されたが、このバスがまた興味深い。その内部には矛を納める祭壇が設置され、車外にはしめ縄を巡らせて榊を立てるという特別仕様が施されていた。まるで即席の移動式神社とでもいった様相だ。
矛は明らかに、駅伝のタスキや聖火のトーチとは次元の異なる、まさに「聖なる矛」という扱いを受けていたのである。
リレーの看板を掲げながら、濃厚に神事の空気感を漂わせていた聖矛継走。国民の側でもこれをただのスポーツ大会とは受け止めていなかったようだ。
聖矛の走るところ、沿道では日の丸が振られ万歳三唱が沸き起こったが、これはまだライトな反応。
大会に密着した記者が記した「聖矛継走伴走記」(『陸上日本』増刊号掲載)によれば、静岡県内のある区間では継走の一団が富士登拝さながらに「六根清浄」を唱えながら走ったというし、一家総出で玉串を捧げて聖矛を迎える家族がいたり、選士や先導のオートバイに賽銭が投げ込まれることまであったりしたという。
通過地域の人々にとって、聖矛継走は「神様が通過する」に等しいできごとだったのだ。
それを裏付けるように、継走のルートは矛が納められる7社以外にも多くの神社仏閣を経由するよう設定されていた。
たとえば横浜では「関東のお伊勢さま」「横浜総鎮守」として崇敬される伊勢山皇大神宮が継走行程に加えられている。さらに都内(当時は東京市内)のルートをみてみると、神奈川県境の六郷橋を渡ったのち、六郷神社、貴船神社、大森神社、品川神社、泉岳寺、増上寺、愛宕神社、そして皇居(当時の呼び方では宮城)二重橋前と靖国神社をはさんで、日枝神社、神宮外苑競技場を経由して明治神宮と、これもまた実に多くの寺社が中継ポイントになっているのである。
もしもこの大会が現代に行われていたら、さしずめ「神様駅伝」とでも呼ばれていたのではないか……などと想像してしまう。
そもそも、聖矛はなぜ明治神宮を目指したのか。
実は、聖矛継走が行われたまさにその期間、11月3日〜6日に神宮外苑では「国民精神作興体育大会」という競技大会が行われていたのだ。
1938年は、日本のスポーツ界にとっては失意のどん底ともいえる年だった。嘉納治五郎らの尽力により、東洋初の五輪としての開催が決定していた1940年オリンピック東京大会の返上が正式決定されたのが、この1938年7月のことだったのである。
盧溝橋事件に端を発する日中戦争勃発以降、軍部はオリンピックへの協力姿勢を撤回し、国際社会も戦争当事国日本での五輪開催に異を唱えるようになっていた。その上、より現実的な問題として、オリンピック競技場の建設が「戦争遂行には不要の工事」として閣議決定で中断させられてしまい、五輪は開催を断念せざるを得ない状況に追い込まれていたのである。
五輪招致最大の功労者ともいえる嘉納治五郎が逝去したのもこの年。その最期は、まさに東京五輪の先行きについて話し合われたIOC総会の帰路、帰国直前の船中で肺炎により亡くなるという壮絶なものだった。この辺りは2019年のNHK大河ドラマ「いだてん」に描かれた様子も記憶に新しいところだろう。
幻となった東京オリンピックでは、ベルリン大会での聖火リレー大成功に触発され、いくつもの壮大な聖火リレー案が提唱されていた。たとえばローマから海を越えて聖火を持ってくるという世界規模の案や、天皇家発祥の地とされる宮崎神宮から東京までを聖火でつなぐ案などがあったのだが、全ては五輪返上とともに露と消えた。
まるでその無念の仇討ちをするかのように決行されたのが、この年の国民精神作興体育大会、そして聖矛継走だったのだ。
「作興」とは奮い立たせるという意味で、この体育大会は国民の精神を奮わせ時局に動員し、同時にその体力向上を目標として開催されたものだった。そして継走はこの閉幕を飾るものとして、閉会式にぴったりあわせて神宮競技場に入場するよう計算されていたのだ。
実際、全行程で平均時速10〜11キロという予定速度をほぼ乱すことなく調整されたリレーは、どんぴしゃりで閉会式会場に到着。大会フィナーレを演出することに成功している。
17時をまわり夕闇の神宮競技場には松明と篝火が掲げられ、聖矛はベルリン五輪マラソン金メダリスト・孫基禎の手から、金栗四三に受け渡された。聖矛を明治神宮に届けた最終走者は、あの金栗四三だったのだ。この時競技場では君が代も歌われたようで、その会場には大会総裁として出席する秩父宮(昭和天皇の弟宮)の姿もあった。その構図は20年後に実現した東京オリンピック開会式の様子をも彷彿とさせる。
それにしても、国民精神作興、体育振興、戦勝祈願が実際にこの継走の目的だったのだとしても、どうにもぬぐいきれないモヤモヤが残る。
「神都」伊勢と「帝都」東京を結び、名だたる神社を中継しながら聖なる矛を運ぶという行為そのものが、なにか表向き以上の意味を発生させてしまっているのではないか――。
そもそも、なぜ聖火ではなく聖矛だったのだろう。ひとつには、途中で消えるとまずいといった現実的な声が大会後援者の厚生省から上がったということがあるようだ。
しかし、この継走を「神事」と仮定して眺めてみると、「矛」には違った意味が見えてくる。
古来、矛を捧げて進むことには、神の先導、祓い清めという意味があった。記紀神話で、天照大神の孫ニニギが高天原から天下る「天孫降臨」の場面を思い浮かべてもらいたい。ここでは、天津神一行を迎え入れる国津神・猿田彦は常に矛を携えた姿で描かれる。またその妻となる女神アメノウズメは、天岩戸に引きこもってしまった天照大神を招き出すため、矛を手にもって舞い踊ったと『日本書紀』には記されている。
現代でも、ユネスコの無形文化財に登録されている津島神社(愛知県)の尾張津島天王祭では、神の先導として「鉾持ち衆」と呼ばれる若者たちが活躍する。祭の朝、10人の鉾持ち衆はそれぞれに大きな布鉾を持ち、御旅所に遷座する神の先祓いとして鉾を手にしたまま天王川に飛び込むのだ。そして岸に着いた彼らが神社までの道のりを駆け抜けることで、神の進む道中が祓い清められるとされる。このとき鉾から滴り落ちるしずくには、病気や怪我を治す力があるという言い伝えも残されているのだ(「広報あいさい」2017年7月号を参照)。
神の露払い、祓い清めの意味を持つ矛は、伊勢神宮を出発する継走のアイテムとしてはなによりも相応しいものだったのではないか。
また、継走を「神事」と仮定してそのルートを眺めてみると……。
伊勢を出発した聖矛は熱田神宮を中継し、ひたすら東海道を下る。そして江戸時代には江戸四宿のひとつとして栄えた 玄関口・品川から東京に入っている。
ここから明治神宮を目指すには、距離だけを考えれば品川駅のやや手前から左に折れて山手線と並走するように五反田、渋谷方面を通って原宿に至るのが最短のルートだろう。あるいは神宮外苑を目指すのなら六本木を抜けて青山に向かう方法もある。
しかし実際の継走コースは、日比谷から二重橋前に向かい、神田を経由して靖国神社へと向かっている。そして半蔵門から赤坂の日枝神社を通過して外苑方面に折れていく。ずいぶんな遠回り、寄り道をしながら進んでいるといった印象だ。
そのコースを眺めると、まるでぐるりと皇居を囲い込むような線を描いているのである(図参照)。
聖矛継走は、明治神宮を最終目的地と宣言しながら、実は皇居(宮城)を隠れた目的地としていたのではないだろうか。
つまり継走コースは、八咫の鏡を奉斎する伊勢神宮、草薙御剣をもつ熱田神宮、そして天皇と八尺瓊の勾玉の鎮まる宮城の三点、三種の神器が鎮座する三つの聖地をすべて結んで、明治天皇の御霊が眠る明治神宮へと収束していくのである。
聖矛継走とは、伊勢、熱田、皇居の三聖地を結びつける、巨大な結界を張るための神事だったのではないか――。
日中戦争勃発の昭和12年以降、日本軍はなし崩しに戦線を拡大させ、収拾のつかない戦争に足を踏み込んでいく。そして昭和16年12月8日の真珠湾攻撃によって戦局は米英に対する全面戦争にまで発展していく。
昭和13年当時、中国大陸での戦争に国力を集中させていた日本で、対米戦を想定していた人物などほぼ皆無だっただろう。しかし、聖矛が描いた軌跡を眺めていると、それはまるで太平洋側からもたらされる「なにか」を防ぐための、総延長500キロにもわたる巨大な結界――のように見えてならないのである。
聖矛継走が描いた空前の「巨大結界」は、効力を発揮したのだろうか。結果は、歴史が示す通りだ。
聖矛が奉納された神社のその後をみると、2番目の奉納神社となった結城神社は、昭和20年7月の津市大空襲で灰燼に帰している。これに先立つこと1ヶ月、6月9日に名古屋市熱田区域を襲った大空襲によって、第3の奉納社、熱田神宮も焼失している。継走の最終目的地だった明治神宮、そして宮城も無事ではすまなかった。昭和20年5月25日夜、東京は二度目の大規模空襲に襲われ、明治神宮は社殿を完全に焼失。そして同日未明、天皇の住まいであり、憲法発布式など大日本帝国の歴史を見守ってきた国家の中枢施設・明治宮殿も跡形もなく焼き尽くされてしまった。
伊勢神宮、三島大社、鶴岡八幡宮、そして奇跡的に焼失を免れた靖国神社と4つの神社が残されたが、聖矛により結ばれた結界は無残に寸断されてしまったのだ。降伏受諾の「聖断」がくだり日本に進駐軍の上陸が始まるのは、聖矛継走のゴールである明治神宮と宮殿が焼滅した、わずか3ヶ月後のことだった。
最後に、聖矛継走がその後に与えた影響についてもみてみたい。
昭和13年の聖矛継走はおおむね大成功として総括され、継走というスタイルを今後も続けるべきだという論調が新聞などに展開された。
こうした空気を受けてか、翌14年、後醍醐天皇崩御600年を記念して催行された後醍醐天皇六百年祭では、南朝ゆかりの15の神社が参加した「建武中興神旗継走大会」が挙行されている。後醍醐天皇を祭神とする奈良県の吉野神宮に向けて、14の神社から各社の神紋が染め抜かれた神旗を奉じた一団が継走するというもので、北は福島県の霊山神社、南は熊本県の八代宮からも神旗継走団が送られている。聖矛が奉納された結城神社はこの15社にも名を連ねている。
そして昭和15年。この年は「紀元二千六百年」を奉祝するイベントとして、各地で多くの神社巡拝継走が行われた。
九州では、霧島神宮の神火を捧げて九州全県を走破する「御神火九州継走」が、長野県では、橿原神宮の神火を諏訪大社にいただき、その分火を持って県下各地を走る「橿原神宮聖火継走」が行われた。横須賀市で開催された「建国祭記念神社参拝継走大会」は、現在の横須賀市民駅伝の前身になるものだという。
最も規模の大きなものは、軍用保護馬の鍛錬と愛馬思想の普及をはかるとの名目で挙行された「全日本軍用保護馬継走大騎乗」で、2班に別れた騎乗団は、南下班が旭川市の北海道護国神社から奈良県の橿原神宮へ、北上班は宮崎市の宮崎神宮から明治神宮へとそれぞれ馬上神旗を捧げながら走破。紀元二千六百年にちなみ両班それぞれが2600キロを走り抜けるという壮大な神社間リレーだった。
そもそも、平和であれば東京オリンピックもこの昭和15年に行われたはずで、そこでは聖火リレーも、また大会そのものも紀元二千六百年を祝祭するイベントとなるはずだったのである。
聖矛継走に端を発し戦時中に行われたこれら多くの神社巡拝継走は、戦勝祈願、あるいは国威・皇威発揚を大義とし、自治体や官庁もコミットする半官半民の準公的行事として開催されていた。
そこからは、神社と国家が、また神道と国策が一体化するように結びついた「オカルト国家・日本」というこの国のかつての姿が浮かび上がってくるようでもある。
(2020年3月20日記事を再編集)
鹿角崇彦
古文献リサーチ系ライター。天皇陵からローカルな皇族伝説、天皇が登場するマンガ作品まで天皇にまつわることを全方位的に探求する「ミサンザイ」代表。
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