歴史が語る最凶の「呪物」3選! 入手数日後に死ぬ宝石、座ると必ず死ぬ椅子…の真相は?/羽仁礼

文=羽仁礼

    世界を見渡せば所有者に凄まじい不幸をもたらす最恐の「呪物」を紹介。その脅威は……意外にも?

     人気漫画『呪術廻戦』の影響もあってか、最近「呪物」なるものが注目されているようだ。本来「呪物」とは、何らかの霊力を秘めた物品を総称し、護符など所有者の身を護るものも含まれているのだが、テレビ番組などで紹介されるものは、所有者が怪我をしたとか不幸に見舞われたなど、いわゆる「因縁物」の場合が多いようだ。

     いずれにせよ、所有者に不幸をもたらす呪われた物品の伝説は世界中に数えきれないほどある。その中でもトップクラスの知名度を誇るのが、「ホープ・ダイヤモンド」だろう。

    不幸を呼ぶ「ホープ・ダイヤモンド」

    ペンダントから取り外されたホープダイヤモンド 画像は「Wikipedia」より引用

     このダイヤにまつわる伝説は、フランス人宝石商ジャン・バプティスト・タヴェルニエのインド訪問に始まる。
     タヴェルニエはベーガンという町の寺院にある仏像から115カラットのダイヤモンドを盗みだした。しかし、盗み出す際に殺された僧侶が、宝石に呪いをかけたという。タヴェルニエはこの宝石を、当時のフランス王ルイ14世に売却したが、その後ロシアで野犬に襲われて死んだとされる。

     ルイ14世はこれをカットし、67カラットのダイヤモンドに研磨した。この時から宝石は「フランスの青」と呼ばれるようになったが、宝石を手に入れてから、ルイ14世は奇行に走るようになり、全身から悪臭を放つようになった。
     ルイ14世の財産を引き継いだルイ15世の時代、フランスは衰退をはじめ、続くルイ16世と妃のマリー・アントワネットは、フランス革命で断頭台の露と消えた。

    ルイ15世が作らせた「フランスの青」を含む金羊毛騎士団用ペンダントのレプリカ 画像は「Wikipedia」より引用

     革命後「フランスの青」は国民議会の管理するところとなったが、1792年に他の宝石類とともに何者かに盗まれた。

     この宝石が再び姿を見せるのは、1800年、オランダの研磨紙ファルスが手に入れた時だ。彼はこれを、44カラット半のもの1個と、より小型の2個、3個にカットしたが、ファルスの息子がこれを盗んで、フランシス・ボリューというフランス人に売りとばした。しかし、この息子はその後で精神を病んで自ら命を絶ったという。
     3個のダイヤを安く買い取ったボリューは、小さな方2個を宝石商に売り、これを元手にロンドンに出て、一番大きなものを売ろうとした。しかし買い手はなかなか見つからず、手持ちの資金も底をつくようになった。最後に、ダニエル・エリアスンという宝石商が代金を手にフランシスの安宿を訪ねたとき、彼はベッドで餓死していたという。

     1830年、ダイヤモンドはイギリス王ジョージ4世を経てヘンリー・フィリップ・ホープの手に渡る。「ホープ・ダイヤモンド」と呼ばれるようになったのはこのときからだ。

    ヘンリー・フィリップ・ホープ 画像は「Wikipedia」より引用

     ホープ家はイギリス屈指の富豪であったが、その後40年で没落し、1908年にはオスマン帝国スルタン、アブデュルハミトが宝石を買い取った。しかしスルタンはその年、青年トルコ人革命で廃位された。

     次に宝石を買い取った宝石商ピエール・カルティエは、1911年、これをアメリカの新聞『ワシントンポスト』の社主であるエドワード・マクリーン夫妻に売却した。しかし、エドワードはタイタニック号の事故で死亡、長男は交通事故で死亡し、長女は自殺した。

     1947年には、宝石商ハリー・ウィンストンが購入したが、彼は4度車にひかれかけた上、破産。1958年になって、ウィンストンはダイヤモンドを普通小包でスミソニアン科学博物館に寄付した。

    「ホープ・ダイヤモンド」を所有した人物は他にも大勢おり、伝説にもいくつかヴァリエーションがあるが、登場人物の実際の経歴を少し調べてみると、この話がかなり誇張されたものであることはすぐに明らかになる。

    東洋風の衣装を着たジャン・バプティスト・タヴェルニエ 画像は「Wikipedia」より引用

    「ダイヤの呪い」は誇張された噂話なのか?

     タヴェルニエが晩年をモスクワで過ごしたのは確かであるが、野犬に襲われたりはせず84歳の天寿を全うしたようだ。

     ルイ14世の奇行はダイヤモンドとは関係なく行われていたし、悪臭の原因は、彼が全部の歯を抜いていたにも拘わらず大食いで、常に下痢に悩まされてトイレにいたせいだ。

     ホープの会社も、1975年にABC銀行に買収されるまで継続しているし、エドワード・マクリーンもタイタニック号には乗船しておらず、1941年に心臓発作で亡くなっている。

     ウィンストンも破産していない。彼が「ホープ・ダイヤモンド」をスミソニアン科学博物館に寄贈したのは、優れた宝石を国有とすべきだと考えたからであり、同時に他の宝石も寄贈している。

    スミソニアン博物館でホープ・ダイヤモンドを見つめる人々 画像は「Wikipedia」より引用

     では、この呪いの出所はどこかというと、どうもマクリーンに宝石を売りつけたカルティエが、これを高く売りつけようとして因縁話をでっち上げたのが始まりらしい。さらに1921年、ヘンリー・トーマス・ホープの孫ニューカッスル公爵フランシス・ホープの元妻だった女優のメイ・ヨーヘが『ホープ・ダイヤモンドの謎』を出版したことが伝説を上書きしたようだ。

    悲劇が止まらない「ヴァレンティノの指輪」

     同様に、持ち主に不幸をもたらすという伝説に彩られた物品には「ヴァレンティノの指輪」というものがある。

     これは、サイレント映画時代のハリウッドで、当時のセックス・シンボルとして絶大な人気を誇ったルドルフ・ヴァレンティノが所有していたとされるものだ。

    ルドルフ・ヴァレンティノと、彼の呪われた指輪のイメージ画像 「Unexplained Mysteries – YouTube」より引用

     ヴァレンティノは、イタリア南部のプッリャ州カステッラネータの生まれで、パリでダンサーをしていたが1913年にアメリカのニューヨークに渡った。その踊りが注目されて、1917年にハリウッドの映画『オールマイティ』に出演したのを皮切りに、次々とサイレント映画に主演した。

     ところが1916年に胃潰瘍で突然倒れ、手術後腹膜炎を併発して31歳で死去した。

     その死を巡って不吉な指輪の噂が広まった。

    安置されたヴァレンティノの遺体 画像は「Wikipedia」より引用

     1920年、ヴァレンティノが25歳のとき、サンフランシスコでプラチナの指輪を買った。店主は、この指輪は呪われていると忠告したのだが、ヴァレンティノは気にせずこれを購入したというのだ。

     ヴァレンティノの死後、形見として指輪を譲り受けたのは、愛人とも言われる女優のポーラ・ネグリだった。しかしネグリの人気はその年から下降しはじめ、1928年に引退した。

     ネグリは指輪を、友人の歌手ラス・コロンボに与えたが、数日後、コロンボが友人宅を訪れたところ、銃が暴発して死亡した。

    ラス・コロンボ 画像は「Wikipedia」より引用

     次に指輪を受け取ったコロンボの友人ジョー・カシーノは、指輪の因縁を信じており、身につけずにガラスケースに保管したが、ヴァレンティノの記念館ができると聞いて取り出したところ、1週間後にトラックに轢かれて死んでしまった。ジョーの弟デル・カシーノも、人目につかないよう指輪を金庫で保管していたが、ある夜泥棒が押し入った。泥棒は金庫から指輪を盗み出し、逃げようとしたが、駆けつけた警官にその場で射殺された。

     1938年、ヴァレンティノの伝記映画が作られることになり、プロデューサーはカシーノから指輪を借りて、主演のジャック・ダンに与えた。ダンは初日の撮影に指輪をはめて臨んだが、10日後に急病で死亡、伝記映画の話も立ち消えとなった。

     こうして、誰もが指輪の呪いを確信すると、指輪はロサンゼルスの銀行の貸金庫に預けられた。しかしこの銀行は全焼し、指輪も現在行方不明となっている。

    「ホープ・ダイヤモンド」の伝説に比べ、「ヴァレンティノの指輪」は以上のようなストーリーがほぼ確立しているようだ。コロンボの事故死やダンの急死は事実であるが、それでもこの伝説もかなり誇張されていると言えよう。

    ポーラ・ネグリ 画像は「Wikipedia」より引用

    悲劇と指輪の関連はいかに?

     まずはポーラ・ネグリである。一時的に人気が下降し引退を宣言したのは事実だが、その後すぐに復帰して活躍、その名はハリウッドのウォーク・オブ・フェイムにも刻まれている。

     また、彼女がロス・コロンボに指輪を与えた時期も、明らかでない。コロンボが銃の暴発事故で死亡したのは1934年だから、もしネグリが引退を表明した1928年に彼に指輪を与えたとすれば、6年間指輪の呪いは発動しなかったことになる。

     そもそもヴァレンティノが指輪を買ったのは1920年、やっと売れ出した頃である。ヴァレンティノが次々と映画に主演して大スターにのし上がるのは、この直後からであり、指輪はむしろ幸運を呼ぶ呪物だったとも言えるのだ。

    座ったら終わり?「サースクの死の椅子」

     また、イギリスのノース・ヨークシャー州サースクの博物館には、座った者が必ず悲惨な死を遂げるという「サースクの死の椅子」あるいは「バズビーズ・チェア」と呼ばれる「呪物」が展示してある。

    バズビーズ・チェア 画像は「Thirsk Museum」より引用

     事件の発端は1702年、この椅子の持ち主だったトーマス・バズビーが、妻エリザベートの父であるダニエル・オーティーを殺し、絞首刑にされたことだった。彼の遺体は、十字路でさらし者にされた。

     十字路近くにあったパブにはバズビーの椅子が置かれたが、以来この椅子に座った者がことごとく悲惨な死に方をするようになったという。その総数は60名以上と言われる。

     1978年、当時のオーナーは、これ以上犠牲者を出さないよう誰も座れないよう展示するという条件で地元のサースク博物館に寄贈し、現在もこの博物館で展示されている。

     だが、この椅子はその様式からして、19世紀に作られたことが明白になっている。つまり、18世紀初頭のバズビーの事件とは何の関係もないのだ。

     ちなみにパブは現在、インド料理のレストランになっているらしい。

    【参考】
    ASIOS『謎解き超常現象Ⅱ』(彩図社)
    黒沼建著『霊と呪い』(新潮社)

    羽仁 礼

    ノンフィクション作家。中東、魔術、占星術などを中心に幅広く執筆。
    ASIOS(超常現象の懐疑的調査のための会)創設会員、一般社団法人 超常現象情報研究センター主任研究員。

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