十来塚と三婆羅塚 新郷村「キリストの墓」伝説は南朝天皇につながるのか?
新郷村のキリスト伝説を現地取材。『竹内文書』が伝える古墳の物語の背景とは? 南朝・長慶天皇の陵墓との関連は…?
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村民自ら「奇祭」と称する「キリスト祭」を現地取材。古史古伝を受け入れ、伝統文化に織り込む神事の実体とは……。
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青森県新郷村には「キリストの墓」がある。
ゴルゴタの丘での磔刑を免れたイエス・キリストが日本に渡り、現在の青森県新郷村で106歳の天寿を全うしたーーという伝承に基づく、一風変わった史跡である。
一般的な歴史、宗教の観点からは各種の指摘がいくつもある「新郷村のキリスト伝承」は、かの古史古伝「竹内文書」の記述から“比定”されたもの。
1935(昭和10)年、当地の伝承を調査していた日本画家の鳥谷幡山が「竹内文書」を伝える竹内巨麿を招き、戸来村で墓所舘(はかどこだて)という古来の塚を発見。それが「竹内文書」におけるキリスト伝来を示す遺跡――「墓」である、と巨麿によって宣言されたのだ。その後、考古学・地質学者である山根キクが著書『光は東方より』で紹介したことで、新郷村(当時は「戸来(へらい)」村)はにわかにキリストゆかりの村として注目されることになる。
村の住人にとっても降って湧いたような「キリストの墓」認定であり、それゆえにこの逸話は「キリスト湧説(ゆうせつ)」と呼ばれている。「墓」をきっかけに「地名の戸来はヘブライに通じる」、「方言のアヤ(父)とアッパー(母)もヘブライ語に近い」など言葉の一致、子供の額に魔除けの十字を記す風習での関連なども見出されていった。
これらの逸話や「竹内文書」に基づいたキリスト来日ルートなどは「キリストの墓」がある「キリストの里伝承館」に詳しい解説が展示されている。
伝承館には2004年にイスラエルの首都エルサレムから贈られた友好の証(エルサレムストーン)も展示されているので必見だ。イエス・キリストという世界的な宗教指導者の墓を称するにあたって、キリスト教圏での伝承や文化と衝突するのではないか……と勝手に心配してしまうが、まさかのエルサレム公認の伝説なのだ。いまのところカトリック、プロテスタントからはとくに指摘や反応はないそうだが。
ともかく、まずは新郷村に古来の塚が2つあることは事実。「えらいさむらいの墓」として祀られてきたその塚は、一体の土地でも小高い丘の上に並んでいる。土地の所有者である沢口家の墓がその塚を見上げるように建てられていることも印象的だ。
2つ塚は、十来塚(とらいづか)がキリストの墓、十代墓(じゅうだいぼ)がイスキリ(キリストの弟)の墓だという。イスキリについては「竹内文書」ならではの記述だが、ゴルゴタの丘でイエス・キリストの身代わりとなって磔刑に処されたのが弟イスキリであり、それを偲び、兄イエス・キリストの隣に葬られたということだ。2つの塚にはそれぞれ十字が建てられているが、これは後述する「キリスト祭」が始まる際に建てられたもの。
1935(昭和10)年の“発見”を機に「キリスト湧説」が始まったわけだが、その受け入れはスムーズだったわけではない。当地に「キリストの墓」を見出した竹内巨麿だが、1936年に不敬罪などで逮捕されてしまう。そのため「竹内文書」基準の伝説の受容は急停止。当時の皇国史観に反するわけで、仕方のない事態である。
1944(昭和19)年に竹内巨麿は無罪放免となるのだが、「竹内文書」は空襲で焼失。以来、十来塚を「キリストの墓」として認識しつつも、村としてはなにもできないままの20年が過ぎる。
時を経て1963年。2つの塚を中心とした「神事」がもりあがる。
戦中、戦後すぐには叶わなかった「キリストの墓」への取り組み、村民たちの心残りとなっていた「キリストの墓での慰霊祭」を行うことになったのだ。
気持ちが先行しての開催だったが、もちろん「キリストを慰霊する」作法までは伝わっていないし、前例もなにもない。はたして日本でキリストの慰霊とはどうあるべきかと検討した結果、牧師を招き、讃美歌をもって「キリスト祭」としたという。
……ただ、どうにも雰囲気が現場に合わなかったそうで、2回目からは地元の三嶽神社から神職を招き、祝詞を奏上し玉串を奉奠する神式となったという。
開催の経緯について詳しい資料は残っていないそうだが、1963年に古史古伝に基づく神事を執り行うことになったというのは非常に興味深い。いわゆる日本第一次オカルトブーム、鉄道普及から仕掛けられたディスカバー・ジャパン、三島由紀夫や森山大道による「遠野物語」再発見などの70年代より前である。
それに「キリストの里伝承館」が設立されたのは1996年。昭和初期の生活を伝える民芸館として誕生し、そこに「キリスト湧説」を含めて対外的に発信しようという体制ができたのはキリスト祭が定例化してからのこと。
つまり、トレンドや観光資源化をあてにした意図、狙いから始めたものではない、純粋な慰霊の気持ちから「キリスト祭」は始まっているのだ。
ちなみに、「地球ロマン」復刊1号(1976年、絃映社)の「戸来村キリスト伝説と竹内文献の謎(Ⅰ)」では、記事筆者の有賀龍太がキリストの墓について「幼少の折、テレビかマンガ本で見た、うっすらとした記憶」があると書いている。有賀は1950年の大阪府生まれなので、「キリストの墓」伝承自体は地域限定でも忘れられていたわけでもなく、1950~60年代に子供向け媒体でも扱われていたようではある。
ともかく「キリスト祭」は、村おこしや観光資源としてのイベントではなく、1935年に発見された伝説に基づく「神事」として始まり、現在にも継承されている。
開催にあたっては村長、観光協会長、地元代議士などが参列し、ここに眠る「イエス・キリストの伝説」に思いをはせ、地元住人やメディアも風物詩として、あまりにも自然体に「キリストを慰霊する神事」に参加している。
取材前は「キリストなのに神職が…」ということから「田舎のズレた行事」「奇祭」という認識でいたが、一連は神式の儀式であり、祝詞の端々に「イエス・キリストの御霊……」などのフレーズが差しはさまれるのも、現場にいると違和感はない。
祝詞奏上から玉串奉奠の「神事」に続いて祭を盛り立てるのは、田中獅子舞保存会による獅子舞と、伝統芸「ナニャドヤラ」の奉納だ。この伝統芸「ナニャドヤラ」も、実はキリスト伝承に紐づいて語られることがある。語源不明の「ナニャドヤラ」は、一説にヘブライ語に由来するというものだ。「ここでもヘブライ語が!」と思わざるをえないが、キリスト伝来レベルのぶっとんだ逸話が土台なのだから「そうだろうな」と思える範囲だろう。
その点をナニャドヤラ保存会の踊り手さんに伺うと「ヘブライ語というのはちょっとわからない」という即答。しかし、そもそもいつからある舞なのかもわからないし、歌詞や舞もマニュアル化されておらず、すべては見よう見まねで伝えられるものだそうだ。ヘブライ語がどうこう問わず、謎の風習といえる。「昔の人が思いを伝えるために使っていた言葉遊びではないか。大きく変えないように、受け継いでいく」――そういうもの、なのだ。
キリスト祭には、新郷村の外からも踊り手が集まるが、実は各集落で「ナニャドヤラ」の細部は異なるため、15年ほど前に統一版を用意したそうだ。
現場には海外のメディアや外国人観光客、都市部から観光に来た人も多く見られ、当日は売店(キリストっぷ」も品揃えを強化して受け入れ体制を整えていた。だが派手な祭り(フェスティバル)というよりも、厳かに行われる慰霊を中心とした神事であるーーそれを再確認できた取材となった。
毎年6月の第一日曜日。農作業がひと段落した時期に毎年、新郷村はイエス・キリストを慰霊している。
通常の歴史観からは疑問視される古史古伝から始まった奇祭が、塚に埋葬されている人物が実際のところだれかという事と次第の“確かさ”を越えて、すでに60年を目前とした歴史を刻んでいる。ここでは、古来の偉人の霊にまつわる聖地として、歴史と向き合う時間が重ねられているのだ。
「奇祭」の一言では済ませられない、ひとつの伝統がここに誕生している。
新郷村ふるさと活性化公社の情報発信サイト「まるまる新郷」
https://www.marumarushingo.com/
松雪治彦
ムー歴は浅めのライター。
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