一本足の神像「夔(キ)」が7年に一度の御開帳! 山梨岡神社に祀られる鬼面の雷神の正体/鹿角崇彦

文=鹿角崇彦

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    山梨県に、7年に一度しか公開されない謎の神像を祀る神社がある。鬼のような顔で一本足、雷を封じるというその神の正体とは……?

    7年に一度だけ公開される謎の神像を見た!

     山梨県笛吹市、石和温泉駅から徒歩10分ほどの地に鎮座する山梨岡神社。社伝では約2000年前、崇神天皇の時代の創建とされ、その名前が「山梨県」の由来にもなったという歴史ある古社だ。

     この神社では毎年4月に例祭が行われ、武田信玄が出陣前に舞わせたという由緒ある神楽などが奉納されるのだが、7年に一度だけ、例祭にあわせて「夔(キ)」という特別な神の像が公開される。

     あまり聞き馴染みのない名前だが、「キ」神像は確認されている限り全国でも山梨岡神社にしか祀られていないという極めてレアなもの。2023年はその7年に一度の年にあたるということで、祭礼のおこなわれる4月5日、像を拝観するため神社を訪ねた。

    参道につながる神橋からのぞむ御室山。

     山梨岡神社の主祭神は、山の神である大山祇命。神社背後にそびえる御室山が神体山だともいわれるが、参道を進むとその美しい山容が目に入り、先人たちはこの山がいちばんきれいに見える場所を探してここを神域に選んだのだろうな……と想像がふくらむ。

     神楽の奉納でにぎわう境内をぬけて、さっそく神像を拝ませてもらう。こちらがそのキ神像だ。

     江戸時代「面は鬼形に似て足一本 国中無比類神像也」とかかれた通り、その顔はどこか口角を上げて笑う鬼のようにも見え、胴体からは最大の特徴である獣のような一本の足が生えている。確かに、他のどこにもこんな神像は存在しないだろうと思わせる強烈なインパクトだ。

     神像とともに、その姿を描いたほぼ原寸大の掛け軸も公開される。軸の上部には神社の由緒とキの説明が書かれている。

     神像と掛け軸はふだんは本殿に納められているが、この本殿も国の重要文化財に指定される貴重なもの。さらに、やや目立たないが脇に建つ稲荷社も実は貴重な建築物だ。

     この摂社の社殿は、もとは近くの小学校にあった奉安殿だったのだ。戦前、天皇の「御真影」や教育勅語などを保管していたのが奉安殿で、戦後はその性格上GHQにより撤去指示が出され多くが失われたのだが、ここでは社殿として神社がひきとることで破壊を免れている。昭和史を伝える貴重な資料だ。

    奉安殿を移築転用した稲荷社。

    一本足の神「キ」とは何者なのか?

     さて、そもそも「キ」とは何者なのかというと、古代中国の書物『山海経』に記された架空の動物のことだ。

     それは一本足の牛のような姿で、角はなく、体から光を発し、動けば風雨が起こり雷のような声で鳴くのだという。その革を張ってつくった太鼓は、五百里先まで雷のような音を轟かせるという伝説もある。

    『山海経』に描かれたキ。一本足で、水面は波立ち、全身を光が覆っている、という様子を描いているようだ(国立国会図書館デジタルコレクション)。

     本来は伝説的な奇獣の一種であり神でもないのだが、なぜそんな像が山梨岡神社にあるのか。その有力な説に、江戸時代の儒学者、荻生徂徠が広めたからだというものがある。

     宝永の頃、荻生徂徠は甲斐国を訪れて山梨岡神社を参拝する。このとき社殿内にあった像を目にし、一本足の奇妙な造形から「キ魍魎」だろうか、と記録に残したことがのちに人の知るところとなったというのだ。

    『唐土訓蒙圖彙』のキも一本足のウシのように描かれる(国立国会図書館デジタルコレクション)。

     その後、享保2年に幕府から神社に対してキ神像の写しを提出するよう命令があり、御三家、御三卿、さらには旗本にまで都合数百枚の写しが差し出されたという。

     そんなことで「キ」の姿を写した神札は、雷除けや子どもの虫封じとして江戸市中で人気になったというのだが、現在では山梨岡神社が所蔵する神像と掛け軸のほか、現存が確認されるものは多くはない。キ神像が“お江戸デビュー”を果たした享保2年は西暦1717年、その後こんにちまで、キ神像はどの程度知られる存在だったのか興味が湧いてくるが、その歴史の一端をうかがうことできる資料がある。

     江戸時代後期の国学者、佐藤神符満(さとうしのぶまろ)が残した『備急八薬新論』という書物だ。

    幕末に描かれた「キ」の図が存在した

     神符満は陸奥国信夫(しのぶ)郡、現在の福島県福島市あたりに生まれた人物で、国学者であり医師でもあった。『備急八薬新論』は主に薬草や薬にまつわる古今の情報をまとめたもので、そのなかにキ神像についてふれた部分がある。

    『備急八薬新論』のキの記述部分(赤枠内)。国立国会図書館デジタルコレクションより。

    『山海経』のキのくだりが引用されている部分なのだが、そこには注釈として「甲斐山梨郡鎮目村の山梨神社(山梨岡神社のこと)にはキの神像があり、よく雷を除け、この村では雷の害がないという」といったことが書かれている。

     さらに、巻末にはもうひとつのキ神像にまつわるエピソードも付け加えられていて、そちらはなんとキの図入りだ。

     図を描いたのは、栗山壽(石寶)という江戸後期から明治中頃まで生きた絵師。『備急八薬新論』が出版されたのは安政4年(1857)なので、それ以前、おそらく1840〜50年代のあいだに描かれたものだろう。

     また文章には「服部という人物が『備急八薬新論』のキのくだりを読み、キについては亀田興(鵬斎、江戸後期の儒学者)が書いたもので知っていたが、唐の書物に同じようなものがあることは初めて知った。その神像もあるというので師に送ったところ、のちに返事があった……」というようなことが書かれている。

    「服部」が誰なのか断定できず内容もいまいち判然としない部分が多いのだが、ともかく、この文をみるかぎり、キ神像は享保2年から100年ほど経った江戸後期〜幕末になってもそれなりの知名度を誇っていたようだ。火災にも直結する雷はいつの時代もおそろしいもの。キの図を写した神札は現在も神社で頒布されていて、雷除け、魔除けとして求められている。

    境内に貼られた神札のコピーとくらべると、栗山はこの神札、あるいは掛け軸を参考に描いたらしいことが推測できる。

     ところで、山梨岡神社の神体山ともいわれる御室山には、昔から「国になにか災害があるときには先に御室山が鳴動し、池の水が血の色になる」とのいい伝えがあり、室町時代末期には神社の垂木から血が滴り落ちたという伝説もある。

     甲斐国で災害というと、長く眠りについているあの山が真っ先に思い起こされてしまうが……このさき御室山と神社になんの兆しも現れず、無事に7年後、2030年のキ神像公開が迎えられることを願うばかりだ。

    御室山は現在も神のいる山として信仰されている。

    鹿角崇彦

    古文献リサーチ系ライター。天皇陵からローカルな皇族伝説、天皇が登場するマンガ作品まで天皇にまつわることを全方位的に探求する「ミサンザイ」代表。

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