金刀比羅宮に伝わる天空飛翔体UFO伝説を追う! 四国のパワースポット・ミステリー現場

文=寺田真理子 資料提供=石鎚神社西海文庫 取材・資料協力=金刀比羅宮

関連キーワード:

    香川県の金刀比羅宮に伝わる、荒れた海から人々を救った「神秘の光」伝承。それは四国各地でUFOが目撃されていた痕跡なのか? こんぴらさんと海上守護信仰、そして現在も続く発光体目撃事案の謎を追う!

    強大なパワースポット「こんぴらさん」

     四国・香川県中部地方、琴平山(別名象頭山)の中腹に鎮座する金刀比羅宮ことひらぐうは「こんぴらさん」の名でも知られ、国内外から数多くの参拝者が訪れる人気の神社である。
     由緒によると、農業・殖産・医薬・海上守護など広汎な御神徳を持つ大物主神が祀られた、「琴平神社」がはじまりとされる。その後、本地垂迹説の影響から「金毘羅大権現」と改称。「こんぴら」という神名について、金刀比羅宮社務所刊行『金毘羅庶民信仰資料集』には、「金毘羅(クンビーラ)は、ガンジスの川のワニを神格化した水の神で、仏教では薬師如来の十二神将のひとつになり、仏の守護神となったものである。この金毘羅神が、恐らく中世の神仏習合、本地垂迹説の流行のなかで、次第に当宮の大物主神(大己貴命)と同一視され、金毘羅神、より正確には金毘羅大権現が一般化し、親しみ呼ばれるようになっていった」とあるが、諸説あるという。

     永万元年(1165)には、前年に讃岐にて崩御した崇徳天皇の神霊が奉斎され、よりいっそう神威を増した。しかし戦国の動乱、元亀・天正の戦禍で古い史料が失われてしまったことなどから、古代の姿についてはミステリアスな部分も多い。
     江戸期には、全国から参拝者が訪れるようになり大変な賑わいをみせ、讃岐への街道や航路の発展にもつながった。自らが参拝できない人がこんぴら参りを「犬」に託した「こんぴらいぬ」や、後述する船乗りたちによる特殊信仰「流し樽」などからも、「一生に一度はこんぴらさん」と、切にこの地を目指した庶民たちの思いが伝わってくる。
     御本宮からさらに奥、表参道から1368段の石段を登ったところに鎮座する奥社厳魂いづたま神社には、戦国の兵火にあった境内の再興を願って琴平山で修行し、慶長18年(1613)、「死して永く当山を守護せん」といい残し、天狗と化して忽然と姿を消したと伝わる金剛坊宥盛ゆうせい厳魂彦命が祀られている。すぐそばの岸壁には、天狗とカラス天狗の彫物が掲げられた「威徳巖いとくのいわ」がある。

     明治元年(1868)の神仏分離令により金毘羅大権現は元の琴平神社にかえり、さらに同年7月には宮号が「金刀比羅宮」と改称された。現在「こんぴらさん」の愛称で親しまれ、一年を通してさまざまな祭典・神事が行われている。
     なかでも賑わいを見せるのが、10月9日から11日にかけて執り行われる「例大祭」だ。10月10日の夜には、御霊を遷した御神輿が数百名の担ぎ手に担がれ、平安絵巻さながらの大行列とともに麓の御旅所まで下り、11日未明にかけて神職や巫女による舞の奉納などの神事が行われる。
     一年に一度、例大祭の日だけは琴平町の神事場でこんぴらさんの御神徳をいただくことができるとあって、国内外から大勢の人が参拝に訪れる一年でも最大の行事。

     今も昔もこんぴらさんは、人々からのあつい信仰を集める強大なパワースポットなのである。

    785段の階段を登りきった海抜251メートルの位置に鎮座する、金刀比羅宮の御本宮。
    奥社は御本宮のさらに上、海抜421メートルに位置する。社殿は御本宮を向いて見守るように立ち、金刀比羅宮全体の守護神でもある。
    平安絵巻さながらの例大祭御神輿渡御。大神様が琴平山の麓の門前町に降りてゆく「お下がり」では、数百名が大行列をなし約2キロの道のりを2時間かけて進む。
    例大祭では巫女の舞などさまざまな神事が執り行なわれる。
    崇徳天皇も参拝したといわれる「威徳巖」。天狗とともに、この地を訪れる旅人の安全を祈願するカラス天狗も祀られている。
    金刀比羅の奉納物「天狗面」は、背負い紐をつけた箱の中に固定されている。江戸期には、このような天狗面を背負って各地を歩いた金毘羅行者が、金毘羅信仰を広めたともいわれる。

    人魚のミイラも! 海上安全祈願を込めた奉納物

     御本宮と15社の摂末社を祀り、広汎な御神徳を受けることができるこんぴらさんは、「海上安全祈願の神様」としても広く信仰されている。現在のこんぴらさんの麓には平野部が広がっているが、金刀比羅宮の由緒によると古代の琴平山は、瀬戸内海に浮かぶ島であった。前述の『金毘羅庶民信仰資料集』には、象の頭のような特徴的な山容から「象頭山」とも呼ばれる琴平山が、瀬戸内航海の目印「山アテの場」であったのではないかという記述もみられた。

     こうした地理的経緯からか、こんぴらさんには、海難救助にまつわる霊験譚や、海に関係する奉納物も多い。前述の「流し樽」もそのひとつだ。樽にお米やお札、海上安全祈願を書いたものなどを入れて封をし、旗印を立てて海に流し、瀬戸内海を航行する船に託す特殊信仰で、海上で発見、あるいは岸に流れ着いた樽を拾い上げた人は、実際にこんぴらさんを訪れ奉納する。このとき、奉できる。船乗りたちによって全国に広まったこんぴらさんの「海上守護信仰」は、現在も続いている。
     他にも現在の金刀比羅宮周辺には、海上安全を祈願した奉納物が数多く残っている。ことでん琴平駅すぐそばにある高さ約27メートルの「高灯籠」もそのひとつだ。
     ユニークなものとしては、「人魚のミイラ」が奉納されたこともあった。2023年に話題になった岡山の圓珠院のミイラも記憶に新しいが、今回取材に応じてくださった金刀比羅宮の神職さんによると「信仰の形として、面白いものを奉納することが流行った時期があったのでは」とのこと。

    (上下)江戸期に奉納されたと伝わる「人魚のミイラ」。ある意味、奉納者の念がこもった呪物である。今にも飛びかかってきそうな凄みのある表情だ。
    特殊信仰「流し樽」は、現在も海上自衛隊の練習船や、海に関係する企業・学校などが行っている。
    ことでん琴平駅すぐそばに建つ30メートル近い高灯籠も、金刀比羅宮への奉納物のひとつ。

    荒れる海と船、空飛ぶ「金の御幣」

     海上安全祈願を込めた奉納物のなかでもひときわ目を引くのが、空に浮かぶ「金の御幣」が描かれた「海難絵馬」である。「海難絵馬」とは、荒波に揉まれ、今にも難破しそうな危機的状況に瀕して祈る人々の上空に、「金色の御幣」が現れた様子が描かれた奉納絵馬。金刀比羅宮にはこのような構図の「海難絵馬」が数多く奉納されてきた。そのいくつかをご紹介したい。

     江戸中期には大坂と讃岐丸亀を結ぶ乗合船「金毘羅船」が就航。海上で仕事をする人々だけでなく「こんぴら参り」においても、航海の安全は切なる願いであった。瀬戸大橋や車、飛行機などがある現代とは違い、近隣の人々でなければ、こんぴら参りには船に乗らなければならず、それはときには「命懸けの旅」であったからだ。

    「金の御幣」は、現在でも御祈禱や結婚式などの神事で用いられる金刀比羅宮の御霊験の象徴。荒れ狂う海で命からがら救われた数多くの霊験譚から、こうした構図の絵馬の奉納が広まったのではないかという。
     前述の『金毘羅庶民信仰資料集』では、航海者の間に広く伝えられる金毘羅大権現(神仏習合時代の呼称)の御霊験について、江戸時代の国学者天野信景の随筆『塩尻』の記述に触れている。
    「霊験有る事響の如し、国人はさらなり、四国九州是を敬せずといふことなし、闇夜船中海路に迷ふ時は、此神を念じて其着岸を祈れば、(中略)必一團の火現ず、此方へ乗り行けば、海難有る事なし、……」
     闇夜、航路に迷ったときは、金毘羅大権現を念じて着岸を祈れば、必ず「火=ひかり」が現れる。そのほうへ船を進めれば、海難に遭うことはない……というもの。

     真っ暗な夜の航海、あるいは嵐に遭遇し、大海原の恐ろしさに震え、生死を彷徨う状況で一心にこんぴらの神様に祈ると上空に現れた「光」は、航海者の心のともしびである「こんぴらさんの御神徳」の象徴であったのだろう。しかし筆者は、他の可能性も捨てきれないのである。

    明治17年8月に奉納された海難絵馬。上空には雲に乗って飛来した「金の御幣」が描かれ、背景には金色の彩色も確認できる。
    明治33年9月奉納と思われる海難絵馬では、上空に雲に乗って現れた御幣とそこから降り注ぐ御光が見える。
    「明治7年6月高知県須崎町」の文字がみえる絵馬。小船に乗る3人の子どもたちが一心に祈る姿と、上空に現れた御幣が描かれている。

    こんぴらさんの麓、満濃池で撮影されたUFO写真

     金刀比羅宮周辺では、現代においても不思議な「光」との遭遇事例がある。琴平山の麓、満濃池まんのういけで近年、4人組が、上空を不規則に飛行する発光体を目撃したというのだ。
     慌てふためきながら急いでスマホのカメラを向けると、なぜか画面がピンク色になり、光が写り込んだ。怪訝に思いながらも夢中で撮影ボタンを押すと、鈴の音がして発光体は分裂。パァッと雲が晴れたかと思うと、光は連なって飛び、パッパッパッパッと発光・点滅しながら迫ってきたので、恐ろしくなって逃げ帰ったという、戦慄の体験だ。撮影者さんから貴重な写真をご提供いただいたので、その一部をお見せしたい。

    (上下)満濃池付近で目撃された発光体。ピンク色に写っているが、実際は夜空に浮かぶ光であったという。発光体から発せられた「何か」による機器への影響だろうか。カメラを向けた途端、鈴の音がして、光は分裂し、点滅しながら撮影者たちのほうへ迫ってきた。

     満濃池には「龍」にまつわる伝説もあるという。この光は、上空に姿を現した龍神……あるいは、水の神「クンビーラ」だったのだろうか。それとも!? 筆者の主観に過ぎないが、先述の「海難絵馬」にこんぴらさんの御霊験の象徴として描かれる、光り輝く「御幣」や、そこから降り注ぐ御光とも重なる印象も受ける。関連は不明だが、一帯が極めて神秘的なエリアであることを再認識する出来事である。

    「海難から救った発光体伝承」との奇妙な符合

     少し視野を広げてみよう。「嵐に遭い、信仰する神に祈ると……山の方角に光が現れ救われた」という伝承は、香川県の隣、愛媛県にある、四国八十八か所霊場太山寺(松山市)創建の由来にもみられる。現地案内板から引用する。

    「今から千四百年前、…(中略)…難波の港に向かう途中、高浜沖であらしにあいました。一心に『南無観世音菩薩』と唱えて祈ると瀧雲山(経ヶ森)山頂から、五色の御光がさし、ほどなく海がおだやかになり、無事船岸に寄せることが出来ました」

     また、愛媛県四国中央市の「赤星山」の伝承については、過去にwebムーの記事でも触れた(「団子365個で風の神を鎮める『豊受神社風穴祭り』に密着! 1300年の歴史とUFOミステリー」)。

     奈良時代、養老4年(720)宇摩の大領越智玉澄おちのたまずみを乗せた船が、現在の四国中央市沖に差しかかった際に、大風「やまじ風」が吹き起こり、海は荒れ、船が沈みそうになった。そのとき、南の山の頂に流星があかあかと飛び、風波は収まり船は無事に土居町長津の港に到着することができた、という伝承だ。
     嵐に荒れる海、航路に迷った船上から一心に祈ると山のほうに「光」が現れ、その方向へ船を進めると助かったという、こんぴらさんの「海難絵馬」にも描かれるシーンを彷彿とさせる。琴平山が、瀬戸内航海の目印「山アテの場」であったのではないかという説については前述した。赤星山の由来には「夏にさそり座のアンタレス(赤い星)が山頂に輝くから」という説もみられるように、灯台など航行の目印が乏しかった時代、特徴的な山容の「山」や、その方向に明るく輝く「星」は、「アテ山・アテ星」として船乗りたちを導く存在であったという説にも頷ける。

     また、これらの伝承にみられる「光」の描写は、海上で嵐に遭い生命の危機に瀕した者が、信仰する神に祈ると、心の中に光が差し、命からがら救われたという「信仰心」を表現した比喩かもしれない。しかし、四国の霊峰石鎚山の麓集落には、「山のほう、石鎚山のほうには、光る球がよく出る」という、心情ではなく物理的な「山の光」にまつわる伝承が、現在も語り継がれているのだ。
     石鎚山の光と海難救助との関連は不明だが、四国の山々に古来「発光体」が飛んでいた、それが海上で難破しそうな人々を救ったという可能性も否定できないのだ。こんぴらさんの「海上守護信仰」との結びつきは筆者の愚推にほかならないが、それぞれのポイントの位置関係は、下図のようになる。
     それぞれ異なる信仰にまつわる「山と光」ではあるが、古くから四国の広い範囲を飛行していた「神秘の光」の痕跡ではないだろうか。もしかしたらそれは、古代のUFOだったのかもしれない。

    古代、瀬戸内海に浮かぶ島であったころの琴平山(象頭山)の想像図。航海の目印であったことがよくわかる。
    古よりあつい信仰対象だったことを伝える金毘羅祭礼図屏風。
    満濃池は、大宝年間(701年~704年)の創築と伝わる灌漑用の溜池。
    発光体伝承をマッピングした地図。金刀比羅宮をはじめ、四国の広範囲で「神秘の光」が目撃されていた。

    ●参考文献=『県史シリーズ37 香川県の歴史』市原輝士・山本大 著 山川出版社/『民衆宗教史叢書19金毘羅信仰』守屋毅 編 雄山閣/『金毘羅庶民信仰資料集』全三巻 金刀比羅宮社務所 ※ご注意:金刀比羅宮への午後6時~翌朝6時の参拝は禁止されています。

    (月刊ムー 2024年10月号)

    寺田真理子

    ライター、デザイナー、動植物と自然を愛するオカルト・ミステリー研究家。日々キョロキョロと、主に四国の謎を追う。

    関連記事

    おすすめ記事