禁忌!「密法祈呪壇」の呪殺未遂事件/怪談解題 呪物編

文=吉田悠軌

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    人を呪えば……そこに穴はあるのか? 出自不詳の謎の呪物が、それを求めるものの手に渡ったとき、いったい何が起こるのか。生々しい現場を目にした本人が、その顚末を語る!

    「江戸時代の古文書」に記されていた謎の儀式

     あなたは人を呪ったことがあるだろうか?
     心のなかで憎い相手に呪詛を吐いたという程度ならば、だれしも多少は経験があるはずだ。だが「呪物」を用いた大がかりな呪いの儀式を行ったとなると、これはレアケースになるかもしれない。
     さて、呪物をテーマとした本連載にて、あることを告白しなければならない。私は、人を呪うための儀式に参加した経験を持っている。しかもそのための呪物を調達する段階から関わっていたのだ。
         *
    「呪い殺したい人がいるので協力してもらえますか」
     私にそう打診してきたのは、特殊造形作家で、呪物収集家でもある相蘇あいそ敬介氏。この連載にたびたび登場している、読者にはおなじみの人物だろう。世界中を恐怖に陥れた怪物「MOMO」を造形したり、青森の旧家に密かに伝えられた屋敷神「オシラサマ」像を持ち帰ったり、祟りをまきちらす謎のオブジェを所有していたり……。相蘇氏にまつわるさまざまな霊的トラブルは、これまで何度も紹介させてもらっている。

    相蘇敬介氏。呪物コレクターとしてもお馴染み。

     ただ10年前に起きた当件については、この連載で触れることを避けてきた。なにしろ私自身が呪いの儀式に関わったという人生の暗部である。当時は彼も私も、順風満帆とはいえない人生を送っていた。他人を恨みたくなるような状況が数多くあったのは事実なのだが。

    「知り合いから江戸時代の古文書が流れてきまして。そこに敵を呪殺するための儀式のやり方が書かれていたんですよ」

     それは冒頭に「密法祈呪壇」と書かれた、小さな巻物だった。とある武家にて秘伝とされた呪術の式次第が、事細かに記されている。その解説部分にあたる文章を現代語訳すると、以下の通り。

    「この法は天下泰平・国土安穏、そして君・父・師の敵を祓うために設けられた密法である。決して軽々しく修してはならない。また、他人に伝えてはならぬ秘法である。ただし、特に強い執念と真実の志をもつ者には、その心底を見定めたうえで、初めて秘伝として記し、密かに伝える。これには極めて深い秘密がある。自分が死して怨霊となり、相手を殺すほどの執念となっては、もはや調伏は叶わない。この巻は一子相伝の大事な直筆であり、これ以外に写しはない。あなかしこ」

     まさに秘中の秘であるはずの恐ろしい指南書が、よりにもよって相蘇氏へ伝わってしまったというわけだ。

    相蘇氏が所蔵する一巻の「密法祈呪壇」。一子相伝の呪法を記したという、おそろしい呪物である。

    儀式に必要な呪物を拾い集める

     彼が呪い殺したがっている相手についての情報は、プライバシー保護の観点から伏せさせてもらう。それは私の知り合いであり、なぜ呪うかの動機についても、はっきりいって相蘇氏の逆恨みとしか思えない。そのような事情での呪殺儀式などもってのほか、もちろん私に協力するつもりなどいっさいなかった。

    「これは『祈呪壇』という祭壇を使う呪術なんですね。そのためにいろいろなものが必要なんですが、造れるものは僕が自分で造ります。ただどうしても他所から入手しないといけない呪物などもあるので、それを吉田さんに集めていただきます」

     しかし相蘇氏はもはや既定路線のごとく、私に次々と指示を出してくる。相手への恨みもさることながら、また別の部分で心に火がついてしまったようだ。
     呪物収集家として呪いの儀式を完遂し、特殊造形作家として呪いの祭壇を完成させる。そんな異様な使命感に燃えているときの彼には、下手に逆らわないほうがいい。押さえつければ暴発し、もっとひどい事態になってしまうからだ。
     ここは様子見のため、大人しく呪物集めを手伝っておこう。そう判断した私が、なにをすべきか尋ねてみたところ。

    「『雷の落ちた木のかけら』と『呪う相手の菩提寺の土』を取ってきてください」

     かぐや姫のような難題を課せられてしまった。しかも儀式決行まではあと数日ほどで、間に合うはずがない。まあ無理だったと伝えれば、相蘇氏も諦めがつくだろう……。
     しかし念のため調査を開始したところ、これが思いのほか簡単に見つかってしまったのだ。
     まず私が当時住んでいた家の近所に、「かみなり銀杏」なる大木を発見。某所の境内にある銀杏で、かつて近隣に落ちた雷を避雷針のごとく一身に受けた経緯を持つ。ただ地域住民の懸命なケアにより、なんとか枯れずに復活を遂げたのだという。
     そのような大切な樹木を呪いに用いるのは気が引けるが、見つけてしまったものは仕方がない。銀杏付近の地面に落ちていた木片を拾い、とりあえずひとつめの呪物を獲得。
     そして「菩提寺の土」だが、これも運よくというか運悪くというか、難なく解決した。対象者の家の墓が、わが家と同じ都内霊園にあると、相蘇氏が伝えてきたからだ。

    「吉田家の墓から土を採集してくるのは、法的に問題はないでしょう」

     他の面で多々難ありとは思うが、なぜかそのあたりのモラルには敏感なようだ。というより、家墓が同じ場所にあると知っていたからこそ、私が協力者に選ばれてしまったのかもしれない。

    都内某所に現存する雷の落ちた木。呪法にはこのかけらが必要だというのだが……。

    ひと通り揃った呪物と進められてゆく「密法」

     そして儀式当日である。銀座のクラブを貸し切り、私も立ち合うことに。相蘇氏は本体となる祈呪壇と、必要な道具類をすべて自ら造りあげてきた。「密法」のため撮影などはいっさい厳禁だったが、実際に行った作法をここに記しておこう。
     まず壇を北向きに設ける。その周りには敵の年齢より一本少ない灯明を並べ、イワシの頭を挿したヒイラギを四隅に設置。また「命必終」と記した不動明王の札も供える。
     そこへ対象者の頭を模した「首形」を中心に据える。目鼻の孔を開けたヒョウタンで、これも相蘇氏が造ったものだ。大釘で壇に打ち付けた首形に、鳥の血をかける。これについては業者から丸鶏を購入し、そのドリップで代用した。さらに首形には、相手の名前を書いた「首札」をかける。私が用意した、雷の落ちた木の木片である。
     こうして祈呪壇を整えた後、いよいよ儀式が開始された。まず9本の直線を格子状にした「九字図」を奉げる。臨兵闘者皆陣列在前の九字を表し、ドーマンとも呼ばれる印だ。
     その紙を、相蘇氏がごくりと飲み込む。腹を壊さないかと心配したが、食用シートを使用したとのこと。微妙に体を気遣っているところも、やや腹が立つ。
     続けて相蘇氏が、奥のほうからオリジナルの弓矢を持ち出してきた。この男は、そこまで自作してしまう人間なのだ。
     まず背中に両手をまわし、甲の部分で裏拍手を三度打つ。巻物に「天の逆手」と記されていた、伝統的な呪いの所作である。
     弓の弦をつまはじいて五度鳴らし、そのたびに「林崎大明神」と大きく唱える。
     そしてつがえた矢を、ヒョウタンの首形に向かって発射。手作りながら、矢はきちんと額の部分を貫いたのだった。
     呪殺の儀式はつつがなく進行し、もはや仕上げの段階に至ってしまった。こちらが用意した墓場の土をもって、相蘇氏は呪いを完成させようとしている。
     このとき、私は彼の目を盗み、祈呪壇の背後にそっと回り込んだのである。

    巻き物には、儀式の次第をわかりやすく示した図も。動線までていねいに描き込まれている
    この儀式のために描かれた「六道の火」と「花四本」の絵。
    記された表記が事実であれば、この「呪物」は文政3年に作られたもので、制作には加賀藩の武士が関わっているらしい。

    解題――禁断の秘密呪法は武術にゆかりがあった?

     ここでいったん、秘伝の巻物について分析しておこう。

     製作年は、末尾に記された表記が事実であれば文政3(1820)年11月11日。また製作者の筆頭は「平貢秀」という人物で、花押も記されている。この人名を調べても目ぼしい情報は見つからなかったが、「萩原武左衛門秀庸」の子であるとの表記、また連名に挙がっている「関小太郎秀万」「小関吉次郎守邦」の2名については、わずかながら資料を発見することができた。
     どうも彼らは、幕末近くの加賀藩にいた武家一族で、特に居合術の指南役を受け持っていたようだ。儀式中に「林崎大明神」の名を唱えるのはそのためだろう。林崎明神とは、居合道の始祖・林崎甚助が信仰していた神である。

     つまりこの呪いの密法は、居合術・抜刀術の歴史に関わるものだったのだ。

     伝承によれば、林崎甚助は天文11(1542)年、出羽国楯岡(現・村山市)に生まれた。父は楯岡城主に仕える家臣・浅野数馬。だがその父は坂一雲斎(坂上主膳)の恨みを買い、林崎明神での囲碁打ちの帰り、闇討ちにあって殺されてしまう。甚助がまだ6歳のときのことである。
     それから甚助は、憎き雲斎を討たんと剣術修業に励んだ。15歳のころ、剣の上達と仇討ちを祈願するため、林崎明神へと百日参拝を行う。すると百日目の夜、夢に林崎明神の化身だという老人が現れた。
     そこで老人から説かれたのが万字剣。三尺三寸(1メートル)の長刀を、鞘から神速の勢いで抜刀し、相手に斬りつける剣法である。仇討ちへの執念から編み出された、甚助なりの必殺の作戦だったのだろう。
     甚助はこの抜刀術を「神夢想林崎流」と称し、林崎の姓を名乗った上で、仇を捜す諸国行脚に出る。そして京都において、雲斎を討ち果たすことに成功したのだった。
     山形県村山市にある「林崎居合神社」は現在も、林崎明神および林崎甚助を祀る、居合道の聖地とされている。

     こうした剣豪伝説がすべて史実であるとは考えにくい。林崎甚助も実際には居合の開祖ではなく、中興の祖ではないかとの説が有力である。ただ重要なのは、居合道の発祥がそもそも「仇討ち」にあると考えられていることなのだ。林崎明神の加護をもって、憎い怨敵を討つ。それが居合の源流であるならば、呪術として転換されるのも不自然ではない。
     もはや武力としての剣術も廃れ、直接の仇討ちなど時代遅れとなった江戸後期。特に加賀藩は自然科学に秀で、文化人を多数輩出した近代的な藩風の地だ。そんな状況下において、居合剣士たちが自らのアイデンティティを保とうとしたのが「密法祈呪壇」の呪法だったのではないか。

     暴力の直接行使を封じられようと、われわれは害なすものに対して、われわれなりの報復手段を持っているのだぞ……と。
     こうして編み出された呪法が、巡り巡って相蘇氏のもとにたどりついたのである。

    居合道の始祖・林崎甚助の像(国立国会図書館デジタルコレクション)。

    儀式の終了間際、それは決行された

     さて、儀式はついに終了の作法を行うのみとなった。
     相蘇氏は西側に面して「六道の火」と「花四本」を描いた絵を供えた。その後ろには菩提寺の土を入れた箱に、相手の名を書いた名札をたてかけている。そして「おのれのみ天の逆手を打つたびに降り敷く木の葉跡だにもなし」と唱え、裏柏手を3度打つ。あとは箱に蓋をすれば呪殺の完成だ。
     そんな相蘇氏の挙動から隠れるように、私はこっそりと祈呪壇に両手を添えた。そして儀式終了直前、供えられたいくつかの呪物を取り除き、北に面した壇を90度回転させ、東の方角へと向けなおした。
     もちろん作法を破綻させ、呪殺を失敗に導くためだ。
     相蘇氏が箱を封印するため、釘を打つ音を響かせているなか、私は自分の為すべきことをした。
     それから10年が経過した。われわれが行った密法は、なんら成果をあげなかったようである。このときに呪った相手は幸せな家庭を築き、今も平穏無事に暮らしている。

    (月刊ムー 2026年02月号)

    吉田悠軌

    怪談・オカルト研究家。1980年、東京都生まれ。怪談サークル「とうもろこしの会」の会長をつとめ、 オカルトや怪談の現場および資料研究をライフワークとする。

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