「すすきの」で花魁の幻を見る人たち…匠平の実話怪談

監修・解説=吉田悠軌 原話=匠平  挿絵=Ken Kurahashi

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    札幌、すすきの。明治以来の激動を記録するこの街には、表には現れないさまざまなモノも刻み込まれているらしい。北の都の時空を歪め、怪異が連鎖する。

    すすきので目撃される幻の花魁道中

    「僕はこれまでずっと札幌すすきのの飲み屋で働いてるんですけど、まあ連日いろいろなお客さんがくるわけですよ」

     匠平しょうへいさんが怪談を語りだす。

     日本初の常設怪談バー「札幌スリラーナイト」の初期メンバーであり、現在もすすきので自身の店を出している匠平さん。それらの店に来る客たちもまた、怪談に興味があるようで。

    「そんななかでも、別々のお客さんから同じ報告をされることがあるんですよね」

     ――今日すごいね。お祭りとかやってるの?
     店に入るなり、そんな質問を投げかけてくる客が年に2、3人いる。それも決まって、すすきの周辺でなんの催し物もしていない時期に。
     とはいえ匠平さんもすべてのイベントや祭りごとを把握してるわけでもない。「なにかあったんですか?」と聞き返してみると、これまた似たような回答が返ってくるのだという。
    「あれすごいね、花魁道中ってやつだよね!」」
     目撃される場所もほぼ同じ。ボウリング場のビル前を、豪華絢爛な和装の女性を先頭にした一列が、しゃなりしゃなりと歩いていたのだという。

     確かに8月開催の「すすきの祭り」の一環として花魁道中というイベントはあるのだが、毎回その時期からずれている。この周辺は出展のルールが厳しいので、単発イベントのコスプレ行列というのも考えにくい。なにしろ一度や二度ではなく、数年にわたって10人以上から、同じことをいわれているのだから。またそれは20~30歳代の男性のひとり客ばかりで、女性や複数人グループが目撃者になることはない。

     一度、写真を撮ってきたと自慢してきた客もいた。「珍しいなと何枚も撮ってさあ」とスマホ画面をスライドするのだが、その指がすぐに「あれ?」と止まる。確かに画面にはすすきのの風景が写っていたのだが、肝心の花魁も行列そのものも、なにひとつ写っていなかったのだ。

    「そんな証言が何度も何度もくるので、ちょっと調べてみようと思いまして」

     匠平さんはすすきので130年にわたり続いている老舗を訪ねた。その店の人が所有している大量の古地図を見せてもらうためだ。すると花魁道中が目撃される場所というのがつまるところ。

    「昔、遊郭だったところなんですよね」

     そういえばスリラーナイトの向かい側にある豊川稲荷も、遊郭になじみの深い神社だ。鳥居脇にある石碑「薄野すすきの娼妓並水子哀悼碑」は明治4年から始まった薄野遊郭の娼妓たち、さらにその水子を供養する目的でたてられたものである。そういえば実際に行われるすすきの祭りの花魁道中でも、豊川稲荷でご祈禱を受けてから出発するではないか。

    「その花魁道中がどっちからどっちの方向に歩いていったのか、ちゃんと聞いておけばよかったんですけど……」

     とはいえスリラーナイトへ来る客なら、すすきの駅からボウリング場のビル前を通り、南下してくるルートが大多数だ。また皆の口ぶりからして、行列の後をついていったというより、前後にすれ違っているはずだ。つまり花魁道中は、札幌駅前通りを北上しているのだろう。

    「確かに。となると、その花魁たちもたぶん豊川稲荷から歩いてきてるっぽいですね……」

     その検証は後に置いておくとして、匠平さんは続けて、すすきの中心部から西側に外れたエリアの話もしてくれた。

    ホテルを覗きこむ異形の男女の正体

    「そこのホテルで働いているA子さんって知り合いがいまして。当時はコロナ禍でスタッフが少なくなってるくせに、インバウンドの客たちはたくさんきているというのでメチャクチャ忙しかったそうなんです」

     その日もたいへんな混雑だったが、A子はホテル内のありとあらゆる業務をしなくてはならず、ふだん担当ではない受付まで押しつけられる始末だった。

     ……なんでわたしがこんなことまで……。
     あまりの多忙ぶりにイライラしつつ、道路に面した全面ガラス張りの窓に顔を向けたところ、奇妙な人影が見えた。
     ちょんまげを結った男が、外に立っている。古めかしい和装で、まるで「江戸時代の町人みたいな」恰好だったという。しかもその後ろには、これも時代劇に出てくる町娘のような女もおり、ふたりでじろじろとこちらを覗いている。
     ……なんだよコスプレイヤーいるじゃん。意味わかんない。
     それなりに値段の張るこのホテルには、似つかわしくない客層だ。はしゃいでコスプレするようなやつが張り切って泊まろうとしてるのか……。苦々しく思いながらも、インバウンドの客たちをさばいていく。だが、そろそろ入ってくるころかと周りを見渡すと、窓の外にもホテル内にも例のふたりの姿はなかった。なんだ冷やかしか、とそのときは気にしなかったのだが。
     夜になって、レイト・チェックインしてきた客の荷物を運んでいたときのこと。フロントの真ん中の荷物置き場まで進んだところで、突然ドン! と背中に衝撃が走った。
     その勢いで突き飛ばされ、膝からくずれるかたちで床の上に座り込む。なぜか全身が硬直し、頭を上げることしかできない。そこで目に入った窓ガラスの向こう側に、彼らがいた。
     昼間に見た、あの町人と町娘だ。それだけでなく、後ろにはやはり古めかしい恰好の人々が大勢並んでいる。彼らの視線は、明らかに自分に向けられていた。今か今かとなにかを期待するように、またたきもしない数十の瞳がギラギラと興奮して輝いている。
     ……ああ、死にたくない……。
     なぜかそんな言葉が脳裏をよぎった、次の瞬間。
    「大丈夫?」と肩をゆすぶられてわれに返った。先輩スタッフが心配そうに自分を覗きこんでいる。「いや、今こんなものが見えちゃって……」しどろもどろに説明すると、眉をしかめた先輩に「あー、ちょっと裏で休みな」と指示された。
     仕事のしすぎで疲れたのかな……。裏のスタッフルームで座っているうち、先輩がコーヒーを持って入ってくる。
    「……あのさあ」と先輩はコーヒーを手渡してくれて。
    「なんかコスプレしてる集団がいたとか、体が変になったとかいってたでしょ」
    「はい」
    「いや、私も調べたわけじゃないからわからないんだけど……ここ昔、処刑場だったらしいんだよね」
     予想もしなかった文言に、コーヒーを持つ手がかたくなる。「ほら、昔って処刑も娯楽みたいな感じで、みんな見物にきてたっていうでしょ。しかも、あんたのさっき倒れてたときの姿勢。正座するみたいになって、首だけ前に突き出してて……あれ、なんというか、時代劇の処刑シーンとかでよく見る」
     ……首を刎はねられる人の恰好だったんだよね……。

    匠平(しょうへい)
    札幌市すすきのを拠点に活動する"北の怪談師"。怪談イベント「北の怪」主催のほか、企画、執筆、出演作品など多数。主な著書に『北縁怪談』(竹書房)、YouTube チャンネル「匠平のやりたいことやるチャンネル」。

    アウトサイダーを抱え込む街の歴史と怪異

     いずれも、札幌すすきのの「過去」を幻視したかのような体験談である。
     すすきの祭りの花魁道中は、明治初期に実際に行われていたものの再現だ。そもそもすすきのという歓楽街の地名は明治4年、それまで黙認していた創成川ほとりに並ぶ宿屋を一か所に集めて薄野遊郭が設けられたことによる。当時そこは市街地のはずれの低湿地帯だったので、薄の野原=すすきのと呼ばれるようになった。設営の目的はもちろん、北海道開拓民たちを当地に留まらせるためである。

     翌明治5年、現・南六条西三丁目にあたる場所に「東京楼」が建てられる。経営は民間だが、建築費や娼妓雇い入れ費などの開業資金は官費で賄った。現在でいうところの第三セクターのような半公共施設であり、東京・品川の遊郭から21名の娼妓を呼び寄せたというから、明治政府の力の入れようがうかがえる。
     そうして集められた美女たちを吉原の花魁道中になぞらえ闊歩させていたのも、厳しい開拓の合間に娯楽を提供する目的だったのだろう。その光景が、1984年以降のすすきの祭りから現在まで再現されているというわけだ。
     ただし資料によれば明治時代の行列は現在の三越デパート(すすきの駅北側)から東京楼(スリラーナイトの1ブロック北側)までのコースだったらしい。つまりルートが札幌駅前通りであるのに違いはないが、北上ではなく南下していたことになる。

     ただそれでも客たちが見た幻の花魁道中は、今のすすきの祭りと同じく、やはり豊川稲荷から北上していたのではないかと私は思う。娼妓たちが弔われたあの神社は、今でも風俗関連の人々の信仰が寄せられている。私が現地訪問した際にも、一万円札もの賽銭を入れ、熱心に祈る若い女性の姿を見かけた。華々しくも悲しい歴史を持つ薄野遊郭、その花魁道中の幻影が出立するのは、やはり豊川稲荷こそがふさわしい。

     2話目についても、同じジャンルに分類されるような怪談だ。ただし出現したものたちが「江戸時代の町人や町娘」の恰好をしていたことに違和感を持つ人も多いだろう。和人たちの北海道への入植が本格的に始まったのは明治以降。松前藩や函館奉行所のあった南端部ならともかく、「町人」めいたものが、それ以前のすすきのエリアにいたとは考えにくい。もっともすでに幕末期には東北諸藩の開拓が進められており、札幌にも100名ほどの入植者が移住してはいたようだ。ただ先述どおり、すすきのエリアは明治期まで人の住んでいない低湿地帯だったので、処刑場が設置されていたかは疑問視せざるをえない。
     しかし町人・町娘という説明の仕方はあくまで体験者個人の主観による。歴史や時代劇に詳しくない人なら、明治期の人の髪型や服装から、そのような喩えが出てしまうこともじゅうぶんありえるだろう。また公設の処刑場はありえなかったとしても、入植初期の混乱した札幌のこと、街はずれの湿地にてリンチめいた仕置きが行われていた可能性は否定できない。

     ともかくこれらの体験者たちが見たものは、すすきのという土地にかつて生きていた人々の幻影だ。それも遊郭の女性や処刑された罪人たちという、アウトサイダーに属するような人々の。歴史の最初からそうした人々を抱え込みながら発展してきたのが、すすきのという街なのである。

     これは個人的な話になるが、私の祖父もすすきのエリアに住み、そこで死んだ。祖父もまた立派なアウトサイダーで、祖母が父親を妊娠している最中に蒸発し、ずっと行方知れずになっていたという。彼が発見されたのは父親が中学生のとき、すすきのの外れで43歳にて野垂れ死にしたことによる(今の私と同年齢だ)。
     この街は今も昔も、社会の主流から外れた人々を受け入れてくれるところだった。匠平さんや体験者たちもそうした空気を感じながら、この街で暮らしているのだろう。だからこそ、同じ街に生きていたアウトサイダーたちの声なき声を聞き取り、怪談として伝えているのかもしれない。

    (月刊ムー2024年7月号より)

    吉田悠軌

    怪談・オカルト研究家。1980年、東京都生まれ。怪談サークル「とうもろこしの会」の会長をつとめ、 オカルトや怪談の現場および資料研究をライフワークとする。

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