鯉に転生した侍がいまださまよう? 大阪・大長寺の「巨大鯉の鱗」伝説を現地取材

文=田辺青蛙

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    大阪市都島区、大阪城にもほど近い地に建つ古刹に代々伝えられる、不思議な魚の鱗。それは大阪がたどった歴史の一端をも感じさせる、数奇な伝説に彩られたものだった。

    不思議な魚の鱗

     大阪のビジネス街OBPから歩いて10分ほどの場所にある大長寺。そこに伝わる不思議な品を見るために、朝日に目をしばしばさせながら、「とうもろこしの会」会長の吉田悠軌氏、ライターの高野勝久氏とともに寺院の門を叩いた。前日に連載「怪談連鎖」でお会いしたふたりに見てほしいものがあったのだ。

    取材中の田辺青蛙(左)と、同行したオカルト研究家・吉田悠軌(中央)。右が資料の説明をしてくれた大長寺のご住職。

     大長寺は、もともと藤田美術館の場所に建っていたのだが、浪花なにわの渋沢栄一と呼ばれた豪商、藤田伝三郎男爵の邸宅用地として明治45年に買収されたため現在地に移転した。ご住職の話によると、入り口の門近くにある碑は「曽根崎心中そねざきしんじゅう」と並び称される近松門衛門ちかまつもんざえもんの「心中天網島しんじゅうてんのあみじま」にまつわる比翼塚と呼ばれ、心中した男女、治兵衛、小春のふたりの墓だそうだ。
     そのふたりが心中前にしたためたという文が、今も寺院に大切に飾られている。ただ同じような文が土産物として売られていたといい、当時の物なのは確かだが真筆かどうかはわからないということだった。
     その文の横に、かつて治兵衛と小春が飛び込んだのと同じ川で捕らえられたという、鯉の鱗が漆塗りの重箱に入って飾られていた。

    (上下)3枚の鱗は漆塗りの箱に納められ、大切に保管されている。隣には「心中天網島」ゆかりの文が並ぶ。
    大長寺に伝わる鯉の鱗。鱗のサイズから逆算すると、かなり巨大な鯉だったことが推測できる。

     その鱗にはこんな話が伝わっている。

    ──網島に住んでいる貧しい漁師の息子音吉おときちは、袖の布が左右で違う着物を着ていたことから、町の人々から、違袖たがそでの音吉と呼ばれていた。
     いままでに何人もの漁師を淵に引きずり込んだヌシがいると父から聞いた音吉は、ひとりで網を持ち現在の源八橋下手あたりから川へと向かった。
     そこで姿を現したのは巴柄の鱗を持つ大きな鯉だった。こいつが主かと、音吉は怯むことなく、ざぶんと川に飛び込んで、鯉の体にしがみついて網に絡めて仕留めた。鯉はしばらくすると死んでしまったので、近くにあった寺の敷地内に埋葬した。
     すると、当時第8代目の住職を務めていた住職の夢枕に巴紋の甲冑武者が立ってこう語った。
    「わたしは大坂夏の陣で討ち死にした侍で、因果によって鯉に転生してしまった。鯉として死んだ後も、いまだに成仏できず苦しんでいる」
     この話を聞いた住職は、鯉のために引導を渡し、読経を夜明けまで続けた。すると、鯉に転生した侍は無事に成仏することができたようで、読経を続ける住職に礼を述べると消え、跡には巴紋の入った大きな鱗がその場に残されていた。
     住職は鯉に「滝登鯉山居士」の法号を与え、寺内に塚を建てた。塚は今もあり、隣には音吉の墓も建っている──

     というのが、大まかな鯉の鱗にまつわるストーリーだ。不思議なことに、昔はもっと鱗が大きかったのだが、年々縮んでいるのだそうだ。
     とはいえ取材時でも鱗の大きさは3〜4センチほどでかなり大きく、目を凝らせばぷっくりと浮きでた巴紋もちゃんと確認することができた。鱗一枚一枚が縮んでこの大きさだというのだから驚かされる。人が手を加えた人工物には見えず、専門家に調べてもらったものの、何の生き物の鱗かはわからなかったという。

     しかも、大長寺近くの川には2メートルほどの大魚を見たという目撃譚がある。この取材の後日、近所の方から聞いたのだが、私は過去にも怪談取材で「川で大きな怪魚を見た」話を聞いている。もしかするとまだ、討ち死にした後に鯉に転生してしまった武将たちがここらを泳いでいるのかもしれない。

    大長寺は明治時代に藤田美術館のある場所から現在地に移転した。大阪城へも2キロほどの近さだ。
    大長寺境内に祀られる鯉塚。隣には違袖(たがそで)の音吉(おときち)の墓も残っている。

    (月刊ムー 2024年5月号より)

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