神による創造と進化論の融合=”有神的進化論”という情熱/新ID理論
創造論の最前線では”科学”と”神”を共存させる試行錯誤が育まれている。創造論を追うシリーズ第3回!
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問診もなく、じっと患者を見て「よか」というだけで容体が一変する──。 目の前で繰り広げられる光景は、まさに常識では信じられない、奇跡と呼ぶべきものだった。そんな奇跡を日常的に事もなげに起こしていた人物がかつて日本にいた。その人物こそ、「長洲の生神様」こと松下松蔵であった──。
目次
病気治しで知られた能力者はいくらもいるが、松下松蔵を超える人を、筆者は知らない。まずは証言者の体験談から書いていこう。
大正15年に東大医学部を卒業し、朝鮮京城の京城帝国大学助教授などを経て、東京で内科医院を開業した医学博士の塩谷信男は、昭和6年、「婦人倶楽部」の取材を受けた際、記者から熊本に生神様のような病気治しの達人がいると聞かされ、興味を抱いた。
松蔵に治してもらった人は、東京にも何人もいるという。そこでそれらの人々を紹介してもらい、話を聞いてまわった。彼らの体験談は驚くべきものだった。
事実かどうか確かめずにはいられなくなった塩谷は、さっそく病院を休診にし、松蔵の住む熊本県長洲町に出かけたのである。
着いた先の百姓家の座敷には、多数の患者が詰めかけていた。その場で待っていると、2階から「白髪頭で白い着物、白い袴をはいたじいさん」が下りてきた。それが松蔵だった。
松蔵の「御手数(おてかず)」(霊的な治療はこう呼ばれた)を、塩谷はじっと観察した。
治療は、あまりにもあっけなかった。問診も何もない。患者を見て「よか」といえばおしまいになる。松蔵が、じかに病人に触れることもない。たったこれだけのことで、病人の様子が一変し、次々と癒やされていくのである。
松蔵の勧めにより、塩谷は泊まりこみで神霊治療の「勉強」をすることになった。まず塩谷が事前に患者の診断をし、その後に松蔵が患者を見た。塩谷は、自身の診断について松蔵には何もいわない。松蔵がどう見立てて治療するのかを観察する。そのときの様子を、塩谷はこう述懐している。
「(松蔵は)私の見つけないことまで(瞬時に)見つけるんですね。『この人な、右の肋膜に水がたまってるがな』、こう言うんです。私が診断して水がたまっていますこと分かっています。『なんぼたまってるか、分かんなはるか』『そんなこと分かりません』『3合2勺(約577㎗)』、こう言うんです。『今な、この水とるがな』『ククー、ククー、水なか』、こう言うんです。聴診器当ててみますとね、ないんです。とれてるんです。『この人、熱あるがな』……『8度2分』だと言うんです。検温器当ててみると8度2分ちゃんとあるんです。それでね、『熱とれたがな』、計ってみると熱は下がっているのです。……松葉杖をついて来た人は帰りには杖はいらなくなる。おんぶしてもらって来た人は帰りには一人で歩いて帰る」
病気治しのほかにも、塩谷は松蔵がいとも簡単にAとBの人格や記憶を入れ替えたり(松蔵はこれを「魂の入れ換え」と呼んだ)、思考能力を奪っては戻すなどの「実験」を見せられた(「心霊雑話」)。
実際、松蔵のもとに出入りした者は、常識外の御手数を体験して、一も二もなく心服した。昭和3年には、骨折した肋骨の修繕を行っている。
熊本県上益城郡の村長某が肋骨を骨折し、医者から手術するほかないと診断された。藁をもつかむ思いで松蔵に祈念を頼むと、松蔵は「よろしい、神棚から骨を出して取り替えてやろう」とこともなげにいい、わずか2〜3分で「取り替え」た。周囲はあまりの突飛さに驚愕し、「骨の取り替えが、こうも簡単にできるのですか」と尋ねた。
すると松蔵は、「あの中(神棚のこと)には、骨でも筋でも、何でも沢山予備品がある。ここは人間の修繕所なんだから」と笑いながら答えた(以下、とくに断りのない引用は松蔵の伝記・言行・神業記録からなる『神書』による)。
こんな奇跡が日常化していた場所──それが松蔵の神殿と住居からなる「百姓家」だったのである。
松蔵は明治6年3月10日、熊本県玉名郡腹赤村大字上沖洲古屋敷(現・長洲町)で、松下恵七・チヨ夫妻の長男として誕生した。
家は農家で、塩田も営んでいた。松蔵も子ども時代から農作業を手伝い、農閑期には自家製の塩を担いで10里20里を行商した。教育はまったく受けずに育った。そのため読み書きは終生できず、かなで自分の名前を書ける程度だったが、後年、神に通じて以降は、日本語の本であれ英語の本であれ、ただ表紙を撫でるだけで中身を理解していたと周囲は証言している。
宗教への関心は深く、寺で説教を聞いたり、神社にでかけては神主の講話を聞いていた。周囲が呆れ、気の毒がるほど親には孝行を尽くした。天皇への「忠」、親への「孝」、先祖に対する「崇祖」、真心からの「敬神」、この四つの実践(「四大道」という)こそが人間の修行であり、神が最も喜び、人間に求めていることだと、後年、松蔵は信者に説いている。
神信心は松蔵の日常だった。日中は家業に打ちこみ、夜になると白衣を着て御神前で祈念するという日々が、青年期から中年期まで続けられた。
転機が訪れたのは、大正8年10月の夜、47歳のときだ。いつものように神前に額ずいて祈念していると、突然「煙でも吐く様に、約1升とも思われる程の血が、10分間程もほとばしり出て昏倒」した。
松蔵は死を覚悟したが、この吐血は真の神業者になるための「肉身に残っていた悪血」の排出だった。この日を境に、松蔵に「大神様」の超絶的な霊の力が宿った。「長洲の生神様・松下松蔵」が誕生したのである。
その名が全国に知れ渡ったのは、「九州毎日新聞」、ついで「主婦之友」で松蔵が紹介された昭和6年以降だ。全国から治療依頼が殺到した。長洲駅から松下家までは「神様行」と表示された貸切バスが運行され、松蔵宅周辺の路上には、いつもバスが6台以上駐車し、参拝者は多いときは日に700人を数えた。
国内はいうに及ばず、アメリカ、中国、満州、朝鮮、台湾、フィリピンなどからも依頼が殺到したことは、井上順孝氏(國學院大學名誉教授)の調査で明らかになっている。井上氏が調査したのは、松下家に保存されていた信者からの手紙・ハガキ・電報の一部(といっても一部のみで1万3000点にのぼるという)だが、氏は「少なくとも数万件」の依頼があったと推定している(「昭和前期の情報環境と祖神道信者の地理的広がり」)。
松蔵には、物質的欲望が欠落していた。身にはボロをまとい、口にするのはほぼ一汁一菜。獣肉は口にせず(獣肉を食うと心臓が弱り、血が濁ると語っていた)、火を通したものも食べなかった。わが身のことにはまったく無頓着だったが、信心は謹厳そのもので、朝4時ごろに起床し、夕方まで参拝してくる病者に対応した。
「欲が出れば神様に御仕えすることはできない」という松蔵は、御手数の代価は求めず、お礼を問われると、「それは貴方の勝手である」と機嫌が悪くなった。
膨大な参拝者に応対するために、新たに住宅と神殿を建てたが、このときも寄進したいという多くの申し出を、「神様の御許しがない」といって断り、自ら借金して建設した。
塩谷が松蔵宅に泊まっていたように、多くの参拝者が宿泊して御手数を受け、長い者は数か月も泊まりつづけた。家人は参拝者のために「1日にお米を3俵から4俵炊いて食事の準備をした」。その負担は並大抵ではなかったが、松蔵は宿泊代や食事代をとるでもなく、日がな黙黙と御手数を施し続けた。松蔵とは、そういう男であった。
神の指導と実地の施術体験から、松蔵は独自の人体観や病因観をつくりあげている。先に書いたとおり、本は読めなかったし、師がいたわけでもない。もっぱら独学独修によって心霊医術体系を築いたのである。
病気には2種類あると松蔵は説いた。
肉体の欠陥に基づく病気と、霊魂の欠陥に基づく病気で、前者は医薬によって治すことができるが、その割合は病気全体の4〜5%にすぎず、残りの95%前後は後者だと断言した。
霊魂に基づく病気は、因縁・神障(さわり)・憑霊(つきもの)の3種に分類された。
因縁による病気とは、当人(前世を含む)や先祖が殺人や詐欺等の重罪を犯し、被害者の恨みが因縁となって祟るものをいう。いかに懺悔し、神に祈願しても、加害者当人はもちろん、子孫3代の間は「必ず不治の霊患が突発して悲劇の歴史を刻む」。一定の期日を経るまでは、神が因縁祓いを認めてくれないというのだ。そのため、病気が因縁ものだと霊視したときは、松蔵は「私の力ではだめだ。医者にかかりなさい」と遠回しに治療を断り、多くの場合、因縁の内容そのものを話して聞かせることはしなかった。
これ以外の2種の霊魂に基づく病気は、やすやすと治した。神障りは、神や天皇や祖霊に対する不敬・悪口・祭祀の忘却や懈怠などが原因で起こる病気で、この手の患者は多かった。御手数を施したのち、松蔵は先祖供養をするようにと教え、命日にはたとえ1銭のものでもいいから買ってきてお供えし、春秋2回は墓参するよう勧めた。
また、位牌や墓に刻む文字は「本名でなければならぬ」と強調し、戒名を認めていなかった。
3番目の憑霊による病気とは、人霊(死霊・生霊)や狐狸その他の動物霊が憑って起こるものの総称だが、憑き物の大部分は人霊で、動物霊は少ないと松蔵は語っていた。御手数になると、憑き物は脅えて騒いだり、悲鳴をあげたりした。正体を現さないときは、手にした御幣で患者の体を軽く叩きながら、「これでも白状せんか、白状しなければ許さんぞ」と責めると、苦痛に耐えきれなくなって白状し、許しを乞うた。
憑霊は、嘘をつく。神が降りたという者がよくいるが、「人間の体には、神様は、決して御かかりになることはない」。憑っているのは憑霊であって、予言もすれば心霊現象も見せるけれど、いっていることの99%は嘘だと断言した。ただし、憑霊のうちでも先祖が子孫に憑いた場合、「先祖の霊は、その子孫には嘘は決してつかない」。
これらは松蔵が御手数の現場でくりかえし確認したことで、この確認作業を、松蔵は「研究」と呼んでいた。松蔵の知識は、すべてこの実地研究に基づくのである。
松蔵には独特な神観があった。『古事記』が根源神としている天御中主・高皇産霊・神皇産霊の造化三神は、「天津神」ではなく「国津神」であって、天地宇宙や人類を創造した真の天津神は「男神と女神」だと説いた。
男女二柱の天津神は、「気のようなものであるから、姿はない。御名前もない」。天津神の「宇宙の大気」から国津神の魂が生み出され、根源的な人種である日本人とユダヤ人も、男神と女神によって創造された。国津神は、正しくは水神御中主神という未知の神を加えた四神で構成されており、これら国津神こそが皇室の祖神だというのである。
「私は、最初は、国津神様から私の星にその気を通して、人間の病気その他を調べさせて頂いたが、その研究が終わると、今度は、キリストの気に依って、研究させて頂き、その透視が、益々はっきりして来た。その研究が終わると、今度は天津神様の気が、私の星を通して、人間の体はもとより、世界のすみずみまでも、充分に透視ができる力を与えてもらった」
松蔵はこう語っている。キリストとはイエス・キリストのことで、松蔵はキリストを高く評価していた。
文中に出てくる「星」は、松蔵の人体観と関連している。松蔵によれば、人間の魂は男神・女神の分魂と両親の魂の気の四魂からできており(下図「四魂表」参照)、出生後、女神の気は太陽から、男神の気は月から、目に見えない霊気の管(「二道の空管」と呼ばれている)を通じて、人体に運ばれてくる。この霊気が「霊魂の食べ物」で、生命の源となるのだという。
さらに、星からくる管があり、星の霊気はツムジから体内に入る。人はすべて天空の特定の星とつながっており、星を介して天津神や国津神と接続している。松蔵は明確な意志をもって星と意識をつないだ。先の引用文中にあった「私の星にその気を通して」というのは、これをさしている。
太陽・月・星の3本の空管は、脊髄の付け根である延髄の神経を通して働いており、太陽の管を中心として、月の管と星の管が取り巻いていると松蔵は主張した。この神秘的な霊的器官説は、驚くべきことに、クンダリニーヨーガなどインドの神秘学が説くナーディー(気管)と酷似している。
ヨガの教えによれば、人体には脊髄を中心に絡みつくようにして7つのチャクラを貫いているナーディーがある。
これはエネルギーの通り道であり、脊髄の中心管はスシュムナー、左鼻孔側と通じている管はイダー、右鼻孔側と通じている管はピンガラと呼ばれるが、スシュムナーが松蔵のいう太陽管、残るイダーとピンガラが月管と星管に相当するのである。
「空気(霊気のこと)とは、即ち太陽、月、星の三つの眼に見えぬ筋(空管)のことである。頭の真ん中には、太陽の筋があり、右側に星の筋があり、左側に月の筋がある」「太陽、月、そして星を通して、人間それぞれに、神様の気が、管を通して来ている。それが延髄を通り、心臓を動かしている」
松蔵は、こう述べている。何かの本で読んだ知識ではない。大正8年以来の絶えざる「研究」、霊視と実地の御手数によって確認した、松蔵にとっての「事実」なのである。
逝去の年である昭和22年、松蔵はこう漏らしている。「結核と癌は、星から起こる病気で、肉体から起こる病気ではない。32年前から星の御手数はしていたが、こんなに、人間と関係があるとは知らなかった」
昭和6年ころを境に、松蔵の関心は、病者の癒やしから国家の救済へと大く転回した。
同年6月、松蔵は信者に「日米戦争は、必ず将来起こる。今のままの人間の考え方では、日本は、危ない。必ず負ける。それが、この松下には、ちゃんと見える」と告げている。切迫した思いは、日々募った。ほとんど長洲から出ることのなかった松蔵が、61歳の老躯に鞭打って上京したのは、昭和8年のことだ。けれども面会した有力者は、松蔵を相手にしなかった。
昭和12年10月には「いよいよアメリカに負ける時が来る」と漏らし、16年1月になると、「今年の12月に、日本とアメリカは戦争をする。この戦争は4年続く。最初の1年は、日本が連戦連勝するが、武器で戦っていては負ける」と、推移まで明かし、勝つためには国民が神に願うほかないが、「アメリカ人の方が、神様を拝んでいるからなあ」と嘆息した。
昭和19年、松蔵はまたしても上京し首相官邸で小磯国昭に面会して、戦争終結に努めてくれるよう懇請した。このとき、軍部や政界に太いパイプをもつ「神日本」主宰者の中里義美とも会っていたことが、中里の日記から確認できる。中里は、「松下松蔵氏ヲ訪イ種々話シタルニ、彼ハ病気ヲ治ス事ト、人ヲ馬鹿ニスル事(思考能力を奪う霊術のこと)ヨリ以外ニハ能力ナキモノノ如ク、国体神霊ヤ古文書(『竹内文書』などをさす)ノ事ニ関シテ質問シタルモ分ラズ」と記している(『中里義美資料集』)。
これが知識人の松蔵観であり、松蔵の存在は、まったく黙殺されたのである。
昭和19年には、松蔵の高弟だった金沢在住の本城千代子も、弟子たちとともに上京し、小磯首相に戦争終結を訴えた。彼女は、小磯の妻・馨子に、御主人は逮捕はされるが、死刑にはならないと教えている。小磯は判決前に獄中で死去することで、死刑を免れたのである(『歴史の蔭に』)。
敗戦の年となった昭和20年5月、松蔵は信者たちにこう語った。
「いよいよ時が来た。日本は、この戦争に負ける。負けた後は、人間の心は、益々乱れる。そして苦しむ。ああ……。私は、陛下の御心配の御姿を眺めれば御可愛想で、御気毒で、涙が出てくる。……私のいうことが嘘かどうか、先々をよく見て居なさい」
戦後の昭和22年3月、松蔵は「皇太子殿下は世界の天皇になられる方」だと告げた。彼の熱烈な天皇信仰がいわせた言葉なのだろうが、歴史はまったく異なる道をたどった。
松蔵は日本の行く末を見ることなく、昭和22年11月12日に逝去した。
死期が迫っていることは、知っていたらしい。昭和22年5月、白衣白袴姿で神殿に入り、祈願をしていたが、この日は終始ニコニコしていて、「32年間かかって、やっと終わる」という言葉を発している。衰弱は進んでいた。
「沢山の霊が、私の星の気をとりまいて居て、離れない。そして、邪魔している」と語った夜、松蔵は側近に自分の星を教えたという。
神殿から南の夜空で真っ先に輝く星があり、その星の右手に平行して、拇指と人指し指を広げた長さ位のところにある輝く星がそれだというが、星の名は明かされていない。
11月9日、涙を流しながら、「国を一度に治めたら、こんな目に合わぬのに、上々の者一人も(自分に)頼みに来ないから残念なことだ思えば、思えば……」と嘆いた。その生涯は、きわめて孤独だったように、筆者には見える。生前、彼はこう漏らしていた。「私を真から好いている者は、一人も居ない。それは人間の気が、神様を真から好いていないのだ──」
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